米国はトランプ大統領の出現により国内の分断化が、英国はEU離脱によりやはり国内の分断化が危惧されるそうです。
しかしトランプやEU離脱が分断化を引き起こしたのでしょうか。そうではなくこのような事象が発生する以前から経済格差の拡大や移民問題など世論を二分する火種が燻っており真摯な意見が交換されそれぞれの主張が提示されていたのではないでしょうか。その様な議論が白熱化していた所にたまたまこの二つの出来事が発生して日和見主義でないマスコミとジャーナリズムの触媒を経てより議論が沸騰して問題点が明確となり国論の分断化を助長促進したのではないでしょうか。
世論が過熱し国論を分断するまでになるのは国民が国に愛着を持って真剣に国の将来を憂いているからではないでしょうか。その意味では分断化をけっして頭ごなしに否定すべきものではないと思います。
それよりも気になることは我が国の不思議なほどの静けさです。
各種世論調査によれば安倍政権の支持率は60%を超え為政者の意のままで分断化なぞどこ吹く風の感がします。
ところが我が国がかかえるのは逼迫した国家財政、原発処理や社会福祉などの国内問題、中ソ外交やTPPなどの対外課題そして米軍基地をはじめとする対米国戦略など問題は山積みです。本来なら世論が自ずと湧きあがり国論を二分するまでに沸騰するのが自由と民主主義を謳う法治国家の姿ではないでしょうか。
無関心でもなく意見がないわけでもない、しかし真摯な議論などなんとなく面倒くさい、言ってもムダなどいつの間にか国事をあたかも他所の国の他人ごとにして貶めていくような自虐的で冷めた集団心理の下落を感じます。
自由な意見の表出と議論により招来された分断化よりも、国民が笑いもせず怒りもせず沈黙している状態はなぜか不気味でなりません。
「終戦の虚妄を排せ」
特攻に出撃する青年を「俺も後に続くから」と送り出した指揮官が昭和20年8月15日になったとたん「戦後復興に力を尽くすことが大事だ」と言い出す。他人に死を命じながら命を賭した約束を反古にした人間とこれを許容してきた国家、日本の戦後はどんな社会をつくってきたのでしょうか。
たしかに大東亜戦争の国家としての責任は国際法的には東京裁判で裁かれ戦争と敗戦の対外的ケジメはつけさせられました。しかし誰が見ても戦勝者に押し付けられたことが明白な東京裁判です。この裁判の判決をもって敗戦の総括だと納得した国民がどれだけいるでしょうか。ましてや東京裁判は戦勝連合国が敗戦日本国にくだした国家的制裁です。ところが日本という敗戦国家として日本の国民に対してあの戦争の敗因と責任に関する総括も説明も未だなされてはいません。それどころか謝罪の言葉すらありません。いうなれば民族国家としてのオトシマエ、心のケジメが未だについていない状態なのです。満州事変に始まり太平洋戦争敗戦まで15年にわたり建国史上最大の犠牲者を生じさせたあの戦争。その目的は何だったのか、戦略なき負け戦の政治的、軍事的責任の所在は何処にあったのか。世界にも稀有な自然派生的な国家である民族国家の日本では国家の形と国民の心が同一でなくては国の存立基盤が危ういものになります。
遅きに失してはいますがいまなら戦争経験者がまだ存命されておられいくらかは検証可能な総括が可能でしょう。あの敗戦の総括にもとづく反省から学ぶ姿勢なくしては国民的総意による国家ビジョンなど構築できず未来永劫失敗の歴史を繰り返すばかりです。
質問「あなたは、先の大戦当時の政治指導者、軍事指導者の戦争責任をめぐっては、戦後、十分に議論されてきたと思いますか。そうは思いませんか。」
・十分に議論されてきた 5.6%
・ある程度議論されてきた24.6%
・あまり議論されてこなかった 43.2%
・全く議論されてこなかった 14.7%
・答えない 12.0%
追加)
敗戦直後の昭和20年10月30日、わが国は戦争への道を自らの手で検証しようと国家的プロジェクトを立ち上げました。閣議決定で大東亜戦争調査会という組織がつくられたのです。
その第一回総会で幣原総裁は次のごとく挨拶をしています。
「今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗を翳して国際政局の広漠なる野原を
単独に進み行くのであります。けれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し
結局、私どもと同じ旗を翳して遥か後方に踵いて来る時代が現れるでありましょう。
我々はこの際、戦争の原因および実相を調査致しまして、その結果を記録に残し
もって後世国民を反省せしめ納得せしむるに十分、力あるものに致したいと思うのであります。」
幣原喜重郎内閣において幣原自らが総裁に就き、長官には庶民金庫理事長の青木得三、各部会の部長には斎藤隆夫、飯村穣、山室宗文、馬場恒吾、八木秀次を任命し、委員・職員は100名ほどという、文字通りの国家プロジェクトだった。
多数の戦犯逮捕、公文書焼却など困難をきわめるなかおこなわれた40回超の会議、インタビュー、そして資料収集。
ところが調査会メンバーに旧帝国軍人がいることをソ連が問題化した。調査結果を利用して次は勝利の戦争へと日本を誘導することを危惧したのだ。戦争調査会として目的を達するために軍人を参加させてこそ趣旨に沿うものであることは自明の理であった。
そこで占領下における連合国のメンバー米ソ中英で議論が交わされた。
最後は日本の精神的独立よりも国際的協調策を選択した米国がソ連に同調した。マッカーサーは戦争調査会の廃止を命じた。
1946年3月の第一回総会からわずか半年後に戦争調査会は調査の経緯も結論も集約することなく静かに幕を閉じたのである。
大きな物語の終わり
天皇陛下の譲位と国体
日本国憲法の第1章は「天皇」です。その第1条(天皇の地位、国民主権)には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基く。」とあります。
しかしもっとも重要な第1条に国民の権利・義務や戦争放棄ではなくなぜ天皇に関する条文が配置されているのでしょうか。
さらに不思議なことに日本国憲法は連合国軍統治下で公布されています。
つまり独立国ではない占領下での憲法公布なのです。
1945年9月2日から1952年4月28日まで日本は連合国軍(米軍統治部隊)占領下にあり日本国憲法は1946年11月に公布されました。
連合国軍占領開始から1年余で日本国憲法が公布されています。
そこで太平洋戦争が敗色濃厚となった1945年初頭から無条件降伏そしてマッカーサー連合国軍最高司令官の日本赴任直後までの期間に限定して状況分析をしてみよう、占領下での憲法公布と憲法第1章「天皇」との関係やその背景が見えるかもしれないと思い歴史を紐解いてみました。
その結果「国体」と「天皇制」がキーワードとして浮上してきたのです。
その経緯を参考にした書籍からの引用で物語風に綴ってみました。
*『 』は書籍からの引用で( )は書名と著者です。
一、敗色濃厚となり降伏まで昭和天皇の最大の懸案事項は国体の維持、存続であった。
『1945年2月14日、近衛文麿は敗戦必至の見地から「英米の輿論は今日までの所、国体の変革とまでは進み居らず・・・国体護持の建前より最も憂ふるべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起こることあるべき共産革命に御座候」と上奏した。(「昭和史」遠山茂樹、他)』
これにたいして天皇は敗戦後に予想される英米からの国体の変革要求を回避するには
『「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」(「木戸幸一関係文書」)』
とのお言葉で
『戦争の継続に固執する天皇の(昭和天皇)姿勢に顕著なのは「不名誉」な降伏忌避と自らの地位及び「国体」の護持に対する強い執着(「天皇の昭和史」藤原彰、吉田裕、他)』
がうかがわれます。
1945年7月26日のポツダム宣言を黙殺し原子爆弾が投下された後も次のように国体護持への固執を見せます。
『1945年8月12日の皇族会議「朝香宮が、講和は賛成だが国体護持が出来なければ戦争を継続するかと質問したから、私は(昭和天皇)勿論だと答えた。」(「昭和天皇独白録」寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー)』
その2日後には一転して国体護持には不安なしとしてごポツダム宣言受諾に至ります。
『1945年8月14日御前会議天皇(昭和天皇)「国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ、毛頭不安ナシ」(「敗戦の記録」参謀本部)』
ちなみにポツダム宣言から宣言受諾の間には次のような経緯があったといわれています。
日本側からは「天皇統治の大権」が無条件降伏の条件に含まれていないことを条件に受諾を申し入れ「天皇および日本政府の統括権限はsubject to連合国軍最高司令官」で最終決着。
二、降伏後は昭和天皇の戦争責任回避と占領統治に天皇制利用という日米の思惑が結合した日本統治。
日本国憲法誕生のとき日本の指導層とマッカーサー連合国軍最高司令官にとりもっとも難しく重要であったのは天皇の処遇問題であったと思います。
なぜなら無条件降伏時点で日本軍は内外に700万余名の兵力が残存しており武装解除から降伏まで難航が予想され1945年8月15日終戦の詔勅前夜でさえ終戦反対派のクーデター未遂事件が発生しました。
天皇のもと一億火の玉と一度は本土決戦を決意した日本国民が天皇の処遇次第では何時反乱や暴動が起きるかもわからぬ状況にありました。
そこで日本政府は次のような手を打ちました。
『1945年8月15日鈴木貫太郎内閣総辞職、後継首相に皇族の東久邇宮稔彦王が推され16日東久邇宮内閣成立。皇族を首相にすえ天皇側近のナンバーワン近衛文麿を副総理格として皇室を前面に押し出し天皇の「権威」と「御仁慈」によって国民を統合し「国体護持」をはかろうとする支配層の送り出した最後の切り札(「天皇の昭和史」藤原彰、吉田裕、他)』
この切り札で無条件降伏に対する軍部や民間の不満や不平分子への懐柔と制圧に乗り出しました。
かたや
『マッカーサーは東京裁判の開廷に前後して全く相反する「天皇発言」を裁判対策として実に巧みに駆使した。
すなわち極東諮問委員会の代表団やライフ誌,NHKなど表舞台においては、自分は戦争に反対であったが軍閥や国民の意志に抗することができなかったとの天皇発言を活用、
他方裏舞台においては戦争が自らの命令によって行われた以上は全責任を負うとの天皇発言がキーナンや田中隆吉に内々に伝えられることで天皇を出廷させてはならないという覚悟と決意(「昭和天皇・マッカーサー会見」豊下楢彦)』
*キーナン:ジョセフ・キーナン、東京裁判の米国側首席検事
田中隆吉:元日本国陸軍少将、東京裁判の検事側証人
を日本指導層に植え付けて
『東京裁判が東条らに全責任を負わせる一方で天皇の不起訴をはかるという「日米合作の政治裁判」(「昭和天皇・マッカーサー会見」豊下楢彦)』
とすることで米国の占領統治のために天皇制を残して昭和天皇を利用する間接統治を選択したのです。
この統治戦略は統治終了後もマッカーサーの大手柄でした。
下記に引用するごとく占領統治の終了後も日本国内でのあらゆる反体制、革命運動は先天的に失敗を運命づけられ敗戦をいまだ直視できない国民国家の日本としたのですから。
『「国体」とは自主的決意による革新・革命の絶対的否定を意味するものである以上、国体護持を実現したかたちでの敗戦は、敗北という外見に反して、その実、革命に対する華々しい勝利にほかならなかった。(「永続敗戦論」白井聡)』
三、以上の経緯から日本国憲法の三原則は国民主権、基本的人権、平和主義といいながら憲法の第1章が「天皇」であるのは以下の理由によるものと推測します。
日本国初めての敗戦に際し昭和天皇が原爆を投下され続けても固執した「国体」、一方ではマッカーサー占領軍の天皇制活用による統治戦略この二つの思惑が「国体の象徴としての天皇」という日本国民の心情にすんなりと入り込み憲法第1条「日本国と日本国民統合の象徴」の中に幻の「国体」が明文化され入れ子のごとく組入れられているからではないでしょうか。
天皇陛下の譲位について、さらには憲法との関係を論ずるには「国体」を考慮すべきと思う所以でもあります。
追記
日本人は権力と人権に対する一定の諦観をもっており(人権の反対語としての神権)
現人神への情緒的帰属観をもつのではないか・
明日は要らない今夜が欲しい
離脱派は騙されたと言いますが、この国ではアベノミクスとやらに騙され続け今や虎の子の年金積立まで詐欺まがいの賭場に放られています。ところが庶民は未だに為政者への高い支持を変えようとは致しません。普通の人が理性的に考えれば首をひねるでしょう。ところが資本主義の内在した矛盾から生じた金持ちと貧乏人の二極分化が固定化し更に拡大する一方で破綻した民主主義は庶民の無力感を煽るばかりなのです。近代国家を支えてきた資本主義と民主主義の制度疲労が招来した政治・経済・文化の桎梏状況がいまや先進国では当たり前の姿になっています。将来どころか明日にも希望を持てない多くの庶民は嘘と知りつつ一夜の夢でもいいから騙し続けて欲しいのです。
しかし二極分化の勝者(大企業、中央官僚はじめいわゆるエリート)は理性が意識や行動をコントロールできると信じたい人たちで自ら知識主義者と称し科学的分析論に立脚してEU離脱をして非論理的な理性の欠片さえない反知性主義の勝利などと解説を並べ立てています。しかし戦争や虐殺の歴史を顧みるまでもなく人は決して理性に管理された論理的生き物ではありません。ましてや国民投票や選挙ではその場の空気や情緒が個々人の理性の統制力を凌駕して明日よりも今夜の宴に溺れてしまうことが多いでしょう。宵越しの金なぞ持たぬのが粋なのですね。こんな人間の機微を熟知した方が騙されたと言われようが一枚上手ということなのでしょうね。
知性主義者と名乗る人たちが予期せぬ混乱が来るなどと騒ぎ立てるのは庶民目線からすると何ら不思議はないEU離脱という現象が象牙の塔の理性からは合理的に解釈、消化出来ずに自家中毒を起こしているのでしょう。
EU離脱問題と英国国教会
ちょうど今から500年前トーマス・モアの「ユートピア」初版が刊行されました。その翌年ドイツではルターの「95ヶ条文」から宗教改革の狼煙が上がりました。時を同じくしてイタリアではルネッサンスの華が開花しています。しばらくして宗教改革とルネッサンスは寄り添うように英国に浸透し始めました。このような時代の趨勢を背景に時の国王ヘンリー八世は何度請願しても離婚を許可せぬローマ教皇に愛想を尽かし英国国教会を創設し離婚・再婚を強行します。そして英国内教会からの収入をローマ教皇から国王の懐へと変更したのでした。つまり英国は全欧州の精神的盟主であったローマ教皇に反旗を翻し宗教的にも経済的にも脱欧州を果たしたのです。ところがヘンリー八世の寵愛を受けてナイトの爵位を授けられ大法官の職に就いたトーマス・モアはヘンリー八世の離婚宣言を拒否しローマ・カトリック教会に殉じ絞首台の露と消えていったのです。
その英国、こんどは国王専断ではなく国民の主導でEU離脱の可否を選択するというのです。
EU帰属、離脱派共にその論点はカネと強慾に起因するものらしくトーマス・モアの時代からなんら進歩はないようです。