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石原慎太郎論ー嫉妬と羨望そして「あらまほし」

父を亡くした長男の石原慎太郎公認会計士をめざして勉学に励む傍らで弟裕次郎がくり広げる奔放で野放図なブルジョア的青春。

それは日夜机に向かう慎太郎の羨望を秘かに掻き立てたに違いない。

そのプライドゆえに自分にはできようもない破天荒で反倫理的な弟の行動にたいする羨望と身内ゆえの嫉妬も否定できないものがあったと思われる。

 

慎太郎が会計を捨て文学に青春の活路を転換したその原点は弟への羨望と嫉妬をみずからの「あらまほし」青春像に純化しえたことにあるのではないだろうか。

 

「俺のほうがはるかに賢くハンサム」なのになぜだと既成社会にその怨嗟を叩き付ける彼の文学に経済復興の恩恵に与れぬ苦学生や貧しい若者たちもなぜにわれわれは不遇かと行き場のない不満と感情のはけ口を見出したのだった。

彼の粗削りな文章は若者のささくれた心に食い込んでいった。

 

その躍動的な文体を匕首にして彼は既成文壇の障子紙を突き破ったのであった。

そのまま終われば社会への理由なき反抗を描いただけの風俗小説にすぎなかった。

 

しかし「処刑の部屋」から「乾いた花」へと怨嗟の情念を価値紊乱者の行動哲学へと高めることに成功した石原文学は儒教的社会を否定してプラグマティズム社会へという「あらまほし」社会像を描き出し戦後世代の支持をえたのである。

 

国民的人気を得て「あらまほし」社会を実現する国家を建設すべく政治に進出した慎太郎は

1968年参議院全国区に出馬し史上初の300万票を得てトップ当選。

 

そのあとは衆議院に鞍かえして環境庁長官、運輸大臣を歴任するも議員勤続25年の表彰を受けたその当日に辞職表明をした。

大向こう受けを狙ったつもりだったのだろうが彼の文学に心酔した若者たちはいまや多くが社会の窓際族であった。

 

結局は政治家となりながら慎太郎は羨望して止まぬ総理大臣の座を射止められなかった。

野望は潰えず東京都都知事選挙に出馬して四選を果たして「あらまほし」社会の具現化を目指した。

 

ところが彼は大きな間違いをしでかした。なぜかわからぬが首相と都知事を混同させてしまったのだ。

首都東京のトップとはいえ所詮は地方自治体の首長であり日本国首相とは地位も権限も桁違いに異なる。

また文章の追加削除や修正が可能な小説と違って政治はやり直しができない。

これは小説と政治の混同だ。

 

その最たる錯覚が国家としての対応事項であるべき尖閣諸島の購入であった。

また新銀行東京もその設立意図は理解できるものの地方自治体の体力と金融知識では無理筋の企画であり国家施策として取り組むべきものであった。

 

なぜこのような錯誤をきたしたのか。それは弟への嫉妬と羨望から「あらまほし」青春像を具象化した価値紊乱の行動哲学の成功体験であろう。

その既視感をそのまま政治の世界にも引きずり続けてしまったからだ。

首相の座への嫉妬と羨望から都知事の分際にもかかわらず「あらまほし」国家像を東京都政の現場で具現化してしまったのである。

 

慎太郎の公式サイトのタイトルは「宣戦布告」である。

3月3日の豊洲問題では「座して死を待つよりは」と記者会見に臨んだが要領を得ぬままで終わってしまった。

会場に入るその心もとない足取りはかって国立駅前で彼の演説と雄姿に心ときめかせた私の青春を葬り去ってしまった。

 

政界入りするや国士を気取り話題を提供してきたがその末路は時代錯誤のパーフォーマンスと勇ましい言葉の羅列でありなんら国民を鼓舞することなく「あらまほし」国士にはなりえなかったのである。

しかしながら栄光ある文士を国士としての失敗ゆえに否定してはならない。

 

慎太郎が少年時代から耽溺したフランス文学風にペダンチックにいう、私が慎太郎に学んだのは「あらまほし」勇者のルサンチマンか・・・さようなら慎太郎。

             

森友学園騒動の本質は何か。

 
日本国民の社会的統合性は精神的にも経済的にも四半世紀前に解体が始まっていたと思われます。

敗戦に打ちひしがれた国民の意気を投合させたのは1964年東京オリンピック、1970年大阪万博でした。精神的には国民の祭典としてまた経済的には国家再生事業の象徴として先の戦争とは異なる国民全員参加の総力戦でした。

その成果ともいえる経済的繁栄は1990年沸騰点に到達してバブルが破綻しました。
弾けたバブル泡沫の水面下で潜行していた価値の多元化と貧富の格差がその残酷なまでの姿を現すと祝典後の祝宴を維持できなかった政府の無策に落胆した国民の心の中で国家とは空虚な抽象となり果てていきました。

1980年代TV番組「8時だよ!全員集合」の中で「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょ〜」という替え歌が子供から大人まで大流行してカラスをXXXに主体変更することで国民の価値観の格差拡大を見せつけました。
価値とは相対的なものですがその象徴としての「主義」の拡大解釈化と絶対的格差の具現化としての「金銭」この二つの持つ魅力に国民は憑かれていきました。

かっての国民の祭典では一致していた日本人の存在(タテマエ)と心(ホンネ)をこの二人の魔女は乖離させやがて魔女共存の困難さの果てに自己分裂の奈落に落ち込んだ国民はいつの間にか統合性を失い分離をかさね離散していったのです。

いっぽう政治では国民総力戦の余勢を駆って首相に上り詰めた平民出身の田中角栄がその強力な統率力とカリスマ的個性により国民的人気を博し経済発展を中央から地方へと拡大していきました。

ところが列強に比肩するまでに成長した資本主義体制と挙国一致の角栄人気に一元的な全体主義へと急傾斜する日本ファシズム再現の兆しをみた米国は真珠湾を回避して今太閤を轟沈させてしまいました。
それに恐れをなしたか米国の愛妾首相が国家目標なく単なる経済的成長の波乗りだけの国家運営をこなす政冷経熱状態が続きました。

ところが1982年栄えある旧帝国軍人の中曽根首相は組閣するや靖国神社に戦後首相として初の公式参拝を行い返す刀で米国レーガン大統領との間に親密関係を構築し日米安保協力の強化に努め再生日本の国家資本主義体制の礎を築いたのです。政熱経熱に転換した国勢は熱い政治の時代を迎えそのあとにつづく歴代の為政者はこの国家資本主義体制化のシナリオに沿い官業民営化、構造改革規制緩和という美名のもと戦後新生国家の公私にわたる構成組織を分断して再組織化し国家資本主義体制にむけて体質転換を図ってきました。

かたや法制的には2003年の武力攻撃事態対処法による自衛隊イラク派遣からはじまり有事法制3法、安保関連法案と平和憲法を実質的に死文化、2005年施行の個人情報保護法、特定秘密情報保護法、個人番号法そしていわゆる共謀罪法と国家主義的情報統制制度を整備してきています。

つまり35年の長きにわたり政府は戦後レジームの破壊を続けることで国家体制を自由民主義体制から国家資本主義体制に転換してきたのです。その結果として国民のレーゾンデートルである国家体制の変質は国民の存在と心をなし崩し的に無力化し虚無化させていると思えます。もはや異議申し立てを唱えるべき組織的手段(強力な労働組合や学生組織など)もなく法的手段もなくなりつつあるのです。

戦後の焼け跡闇市から大阪万博まで国民精神総動員運動を成功させたのは一貫して陰に陽にまたインテリから貧困層までを包括して陰で支えてきた組織、それは日本再生に燃えた戦前派ノーブレスオブリージが活躍した旧中央官庁であり労働者組織でありまたときには意気に殉ずる任侠組織でもありました。

しかし政府はこのような組織を普遍的合理性という美名のもとにタテマエとホンネとを混同させ勝手な法解釈で解体再編または消滅させてきたのです。

いまや体系化された力を持つ組織といえば凌ぎの多い新自由主義的グローバル企業そして税制特権と強権的集票力を併せ持つ宗教団体、この二つの組織のみではないでしょうか。
この二組織はいずれも「一元的な価値観と絶対権力」つまりファシズムの基幹構成要素であり国家資本主義体制を効率的に整備するのには最も効果的であります。
そして情緒と空気に支配されやすくファッショ化することに自虐的快感を覚える日本国民には非常に親和性が高い組合せといえます。

タテマエとホンネ(主義と金銭、どちらが該当するかはともかく)のはざまで統合失調症にある国民を尻目に経済団体との伝統的癒着は言わずもがな自公合体に象徴される宗教との融合を画策してきた政府はいまや現閣僚の大半を日本会議メンバーが占めると国家宗教の黙認を公言するやに至っています。?
世界に類なき平和憲法国民主権を平穏理に無力化したいま戦後体制の打破はようやく総仕上げの段階に到達したのです。安倍首相が誇らしげに国家目標としての「戦後レジームからの脱却」を世界に向けて宣言したのも当然でありましょう。

この国の体制は国家資本主義体制が整い(存在—タテマエ)国家体制の変質を見抜き政府意向を忖度する報道機関の体制翼賛化(心—ホンネ)もあいまっていまや微動だにせぬ超資本主義的国家体制の体裁を確立したと言えます。

森友学園の戦前回帰教育や国有地売却疑惑などいくら国民が騒ぎ立てようが違法性が証明されぬ限り政権には何ら毀損なく逆に中央官庁の管理不行き届きを根拠にして情報管理の徹底など国家独裁管理体制を強化する手がかりとするのではないでしょうか。

資本主義国家体制における国有地とは国民不在の恣意的国策処分地であり、また戦前回帰教育の問題などを首相のパーソナリテイに還元したところで一時の憂さ晴らしにはなっても本質的な問題をなんら解決するものではないでしょう。
ミニ国家ともいうべき東京都政を回顧すれば一目瞭然、為政者が誰になろうと確立された体制はそう簡単には転換できません。

いまや政財宗の三位一体による蜜月体制は国家権力を規制すべき憲法を実質的に死文化して立憲民主主義を無力化させつつあります。
森友学園の経営者は敏感にその目指す方向性を嗅ぎ取り天皇を錦の御旗とした戦前の軍部を模倣し首相夫人を錦の御旗としたのです。神輿に担がれる人物が容易にシナリオに乗る軽薄性も戯作者に見透かされています。?

つまり森友学園騒動が意味するところとは次のようなことではないでしょうか。
国家体制に賛同し協賛する宗教団体(新自由主義的企業)であれば政府は憲法や国民など度外視していつでも互恵の精神で優遇した対応を取る。それゆえ国家の目指す「美しい国」の再興(大東亜戦争敗戦で未完に終わった日本ファシズムの完成)に向け手を携え頑張ろう。

問題の本質はこの国では立憲民主主義体制はすでに壊滅状態にありタテマエとホンネを統合した国家資本主義体制が確立されつつある。しかし国民はタテマエとホンネを統合できぬままに国家への異議申し立てをすべき物理的手段はもぎ取られて放置されてありまた精神的強靭さを支えに連帯して立ち上がる意志もない。国家資本主義体制ではすべてお見通しということではではないでしょうか。
 

日本文化論

私は、文化というものは伝統や芸術など民族の歴史から派生した生活様式を総括した呼称だと思います。そこで生活様式の基本、または、原点というべきものは何かというと、それは「思考様式」であろうと考えます。そして思考様式とは次に述べるようなものではないかと愚考する次第です。思考そのものは個人により形成されるものですが、民族の思考様式とは、個々人の思考にみられる共通多数項の歴史的集積であると思います。

その共通項は何かと考えたものが以下です。


日常生活では、数値や言語による検証と確認(形式 知)を嫌い、過去の経験や言わぬが花などと阿吽の呼吸(暗黙知)を好む傾向にあり、それはやがて議論や論争を回避する姿勢を美徳化して、革命、内乱が稀有な歴史を築き挙げ、ものごとを判断するにあたっては、その場の雰囲気や情緒に流され易く(人情)、主観と独善(暗黙知)を合理的と言い換え、その価値を美的評価に高める傾向が強く(義理や茶道、華道などの…道)その行き着く先は、道を極めた孤高の…などと「唯我独尊」の境地を日本の美の極致(神風、万世一系の神国日本など)とまで賛美しかねない 科学性も合理性もなく客観的ですらないニヒリズム

ニヒリズムとは突き詰めると孤高の精神の昇華であり、それが芸術のみならず精神構造の共通項として美的評価に連動して構築された日本文化はそれなりに素晴らしいものだと思います。

英国のEU離脱

EUを主導するのは名実ともにドイツであることは言を俟たないと思います。
昨今のドイツ隆盛の主因となったのは、ソ連崩壊というロシアの「陰の協力」と宿敵フランスの「陽の協力」という歴史のアイロニーだとの名言があります。
この言葉はまさにEUの本質を言い当てていると言えます。
EUの本質とは経済云々ではなく異文化の野合がもたらした意図せぬ結果としてのドイツ文化圏の強化と拡大であり、
その現状はユニコーンたるドイツの帝国化とその他加盟国のドイツに対する服従と怨嗟の抜き差しならぬ絡み合いだと思います。
 
ドイツというのは偉大な文化国家だとは思いますが人間存在の複雑さを視野から失いがちでアンバランスゆえの強みと恐ろしさがあり、
その権威主義的文化はドイツの指導者たちが専制支配的立場に立つと国民に固有の精神的不安定性を生み出してきたと考えています。
 
いまやEUの盟主となったドイツはその独裁的立場を強化するとともに第二次大戦端緒の電撃作戦を彷彿とさせるするかのごとき
中国への急接近を図りEU枠外へのドイツ圏拡大化に邁進し民族国家としての精神的沸点をEUにまで投射しかねない危険性を覚えます。
 
ドイツとの長年にわたる抗争の歴史から英国がこのような疾風怒濤ドイツへの危惧を持たぬはずはないと思います。
それでも経済的合理性に立脚した判断は国家戦略としてはあり得るかもしれません。
しかし問われているのは国民の意思であり資本主義そのものがその綻びから限界へと死に至る病のいま経済的合理性という即物的判断から
歴史的敗北ともいうべき民族の屈辱に耐えてドイツ支配下のEU圏に残留する価値があるでしょうか。
 
世界の耳目を集めた英国の選択がEU残留となると満天下注視のもとにドイツ国民は「金目ゆえの協力」という不倶戴天の敵からの
これ以上ない皮相的な贈り物を享受し慢心して現代版第三帝国の妄想に走らぬとも限りません。
それはドイツへの勝利の女神の祝福を世界に印象付け、仇敵の繁栄に自らの身を投げ出し延命を図った英国には敗者の烙印を焼き付ける
ことになりかねないからです。
 
英国民が寄って立つべきは金目ではなく世界が認める栄誉ある大英帝国の歴史と不屈の国民精神ではないでしょうか。
それでかっては世界を制覇したのですから。
英国民に骨肉化された大英帝国の誇り、それは経済的合理性という選択肢を葬り去るのではないかと思います。
※ドイツを非難する意図は全くありません。ドイツ好きですので追記します。

日本国憲法について

1。国の在り方または国家ビジョン。
憲法は国民の権利、地位や国家の統治機構およびその運営の根本について定める国の最高法規。つまり国家運営のルールではあるがルール策定と承認そして運用の分離は不可欠。また憲法は国民が統治機構とその運営を監視するツールでもある。ルールとツールはあくまでも明確な目的が存在して意味を持つもの。従いまず検討されるべきは目的。明確な目的とは国民にとり普遍的な価値観を達成するための国家ビジョンではないのか?例え違うとしても先ず国家ビジョンまたは国家の在り方を論ぜずして憲法云々は木を見て森を見ず同様な見当違いではないのか。目標戦略なき手段戦術を独断先行した過去の失敗は繰り返してはならない。
2。憲法の上位法。
憲法の上位法として国連憲章がある?
敵国条項(enemy state clause)は、国連憲章第53条、第107条に規定されている。その内容は、第二次大戦中に連合国の敵国であった国(日本、ドイツ、イタリア、ブルガリアハンガリールーマニアフィンランドの7カ国。しかし日本とドイツを除く5カ国は大戦中に枢軸国側から離脱しており実質的な敵国は日本とドイツ)が、戦争結果の確定事項に反したり、侵略行為を再現するような行動等を起こした場合、国連加盟国や地域安全保障機構は、国連憲章51条に規定された安保理の許可がなくとも当該国に対して軍事制裁を課すことができる、としている。

第53条の執筆者である米上院議員アーサー・ヴァンデンバーグは起草委員会の席上で「主要な目的は、ドイツと日本の永久的かつ有効な非武装化であり、それら2カ国の支配である」とのべたと議事録にある。つまり、あらゆる紛争を国連に預けることを規定した国連憲章51条の例外規定として敵国条項に該当する国が起こした紛争に対しては自由に軍事制裁を課する事ができるのである。さらに旧敵国との紛争については平和的な解決義務すら負わされていないとされている。

国連創始期から世界情勢は変化し日本も大きな国際貢献をしてきたゆえこの条項は死文化したというのが国内大勢の意見のようだ。しかし国連憲章の解説書によるとドイツはともかく日本は未だ敵国条項 の対象として存続している可能性が高い。何故なら世界80余名の法律家による国連憲章解説書によると、ソ連を含む連合国は第107条にもとづく権利を、少なくとも西ドイツとの関係においては放棄したように思われる。とか、東方政策の諸条約は、西ドイツと東側の隣国との関係において第107条をそして第53条をも無効にした。などの記述があるが、日本に関する記述は一切ないらしいのだ。
最後の敵国条項該当国として日米地位協定憲法の上位法ゆえに、沖縄における米軍基地統治の傍若無人な横暴さに切歯扼腕せざるを得ぬのか?

(国連憲章)

第53条〔強制行動〕


安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。


本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。

第107条〔敵国に関する行動〕
この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国(例えば日本)に関する行動でその行動について責任を有する政府(この場合、アメリカ)がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。

歴史の終わり

民主主義と自由経済が最終勝利を収めたとフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」に華々しく宣言してから四半世紀を経過しました。この間に自由経済の姿は自由貿易から関税撤廃そして各国内の諸規制撤廃へと進行しいわゆるグローバル・エコノミーへと変貌しました。これで世界経済は拡大し人類はより豊かで幸せな生活が送れる民主主義のさらなる発展により平等で平和な世界が来ると多くの人は夢見ました。ところがいっこうに平和にも豊かにもなりません。グローバル・エコノミーの正体とは単に規制解除をして自由になるというだけの 目的なきネガティヴフリーダムに過ぎない新自由主義に立脚した既得権益層の偽装金権強欲主義であることがようやく分かってきたのです。その象徴的な出来事がOccupy Wall Street運動でした。財力=カネという価値基準だけで不当に差別化、抑圧され生活権をも収奪されかねない市民が金権強欲主義の牙城を占拠したのでした。その金権主義に対する異議申し立てには多くの人が参加していきました。いっぽうで庶民が既得権益層に入り込もうとすると有力大学の肩書きが不可欠その学費は無謀に高額で何とか学生ローンで卒業してもローンの返済に追われるだけの社会人生活。追い討ちをかけるように紛れ込んだ企業はグローバル化で世界中からコストの安い労働力を容易に入手可能で、ここでも金権強欲主義の犠牲とならざるを得ません。

かたや民主主義はどうなったか。そもそも民主主義とは共通の価値観に立脚するからこそ多数決の論理が成立するものですが、カネにすべての価値を置く金権強欲主義では如何なる国でも国民的な共通価値観とはなり得ません。逆説的ですが、それゆえに金権強欲主義はグローバル化し各国の既得権益層と連帯しないと成り立たないのです。そして金権強欲主義が席巻した国ではカネのない市民、つまり経済投票権のないサイレントマジョリティが量産され貧富の格差は時々刻々と拡大していきました。

トランプにサイレントマジョリティ反グローバリズムの勇姿をヒラリーには既得権益層の妄想を見たのでした。

分断と沈黙

米国はトランプ大統領の出現により国内の分断化が、英国はEU離脱によりやはり国内の分断化が危惧されるそうです。

しかしトランプやEU離脱が分断化を引き起こしたのでしょうか。そうではなくこのような事象が発生する以前から経済格差の拡大や移民問題など世論を二分する火種が燻っており真摯な意見が交換されそれぞれの主張が提示されていたのではないでしょうか。その様な議論が白熱化していた所にたまたまこの二つの出来事が発生して日和見主義でないマスコミとジャーナリズムの触媒を経てより議論が沸騰して問題点が明確となり国論の分断化を助長促進したのではないでしょうか。

世論が過熱し国論を分断するまでになるのは国民が国に愛着を持って真剣に国の将来を憂いているからではないでしょうか。その意味では分断化をけっして頭ごなしに否定すべきものではないと思います。

それよりも気になることは我が国の不思議なほどの静けさです。

各種世論調査によれば安倍政権の支持率は60%を超え為政者の意のままで分断化なぞどこ吹く風の感がします。

ところが我が国がかかえるのは逼迫した国家財政、原発処理や社会福祉などの国内問題、中ソ外交やTPPなどの対外課題そして米軍基地をはじめとする対米国戦略など問題は山積みです。本来なら世論が自ずと湧きあがり国論を二分するまでに沸騰するのが自由と民主主義を謳う法治国家の姿ではないでしょうか。

無関心でもなく意見がないわけでもない、しかし真摯な議論などなんとなく面倒くさい、言ってもムダなどいつの間にか国事をあたかも他所の国の他人ごとにして貶めていくような自虐的で冷めた集団心理の下落を感じます。

自由な意見の表出と議論により招来された分断化よりも、国民が笑いもせず怒りもせず沈黙している状態はなぜか不気味でなりません。