「3.11」とサッカー
駒沢のジムで汗を流してシャワーが終わると同時に’黙禱’のアナウンス。一瞬の静寂を裂いて隣接する駒沢オリンピック競技場からJ2ファンの大歓声が飛び込んできた。更衣室の窓から目をやると公園で散歩をする老夫婦も手作りのお弁当を開いた家族も黙祷をしている。
なんとこの時にサッカーは競技を続行しているのだ。
失われた20年の間に 日本サッカーは一流国の仲間入りを果たした。どうもこの国では国家の盛衰とサッカーのそれは見事に負の相関関係が成り立っているようだ。
サッカーの原点は中世イングランドで討ち取った敵将の首を敵の城門めがけて向けて蹴り込むことに始まった。これは中学でサッカー部の先生から聞いた話である。我が国はかっては礼節を知る民族であったが・・・。私も中高とサッカーをやっていた。武士道の精神に欠けるのはそのためかと時に思う。
『語られざる真実 (「戦争と平和」市民の記録)』
あの戦争で学徒召集され敗戦後にもかかわらず俘虜となり帰国後自殺した哲学者、菅季治。その誠実で悲惨な人生を菅のソ連抑留記、日記でたどる。さらに帰国後に彼のシベリアでの行為をめぐって開かれた衆参特別委員会の議事録と当代の知識人を結集した座談会「菅季治の死をめぐって」を収録する。捕虜生活から帰還した哲学者 の軌跡をたどることから敗戦国日本と日本人の信義を抉る重い一冊。
菅は京都大学大学院で哲学を学ぶ学徒であったが、見習士官として満州第1124部隊(鞍山)に配属された。そして現地で敗戦を迎えた菅は武装解除と共にカザフ共和国カラガンダの俘虜収容所に収容されそこで通訳として4年を過ごすことになった。
哲学専攻の菅が通訳に任命されたのは、日本軍のロシア語通訳士官が二人ともその役割を辞退したからであった。そして主人公はロシア語を独習して日本人俘虜千人の命綱として懸命に尽くした。
菅は4年にわたる収容所生活を通して抑圧的な軍隊の中にあっていかに敬愛すべき人格や優れた能力が日本兵の中にいるかをみることになる。やがて菅は収容所においてこそ軍隊で失われた人間としての誇りと真実を守り抜こうと決意する。
やがてその努力が実のり非情な上官もお人好しの兵もいつかみんなの心が通い合い民主的なコミュニティが形成されていった。やがて主人公は日本に帰還することになった。帰国した主人公は念願の学問の道に戻ろうとする。
しかし冷戦構造の中で日本政治の眼となった「徳田要請」問題に巻き込まれてしまう、というよりも真実を追求する菅は自らを渦中に投ずることとなる。
問題とは収容所内で「われわれはいつ帰れるか」という日本人俘虜の質問にたいしてソ軍政治部将校が答えたーいつ諸君が帰れるか?それは諸君にかかわっているーという回答であった。菅はそのままを通訳した。「諸君がここで良心的に労働し真正の民主主義者となる時、諸君は帰れるのである。」ところが日本共産党書記長トクダは通訳の菅は「諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国するよう「期待」している。」ーと言ったという。
この発言を共産党はそもそもそんなことはソ軍に言っていないと否定、辛苦を共にした兵たちは民主主義者=共産主義者にならぬと帰国できないと理解した、その理由は主人公が通訳したのは「期待」ではなく「要請」であったからだと申し立てた。
かって身を粉にして尽くした兵たちに裏切られたのかでは並みの話、主人公は死をもって真実を語ろうとしたのか、はたまた通訳の言葉尻をとらえて政争の具とする政治の汚さを暴こうとしたのか。
ビューティフル・マインドはひっそり消えていく。
菅の死から二か月後マッカーサーの指示により日本共産党幹部の追放がおこなわれ更に二か月後には警察予備隊が創設された。
歴史にタラレバは禁物だがソ軍がポツダム宣言を遵守していたなら捕虜はただちに送還され有為な哲学者を失うこともなかった。
そもそもポツダム宣言を受諾した国家はソ軍や占領国にいかなる異議申し立てをしたのか。
真実には目を伏せお人好しで勤勉な庶民はビジョンなき国家で今日も生き続ける。
『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち 』ー書評
幼いころ明治生まれの祖父の膝の上で映画「明治天皇と日露大戦争」をみてなぜか目頭が熱くなった記憶があります。
数十年ぶりにその感動が明治の日本人像という記憶で蘇りました。...
日露戦争を陰で支えた黒子ともいうべき高橋是清、獅子奮迅の物語です。
決してエリートではない高橋がロンドンに乗り込み国際金融の世界ではまだヒヨコに過ぎぬ日本の公債発行を艱難辛苦のうえ初めて成功させます。
ところが日露戦争で日本が勝利するたびに日本公債は売り浴びせられますがロシア公債は変動しません。敗戦でロシアが内陸に撤退するリスクより日本軍の戦線が拡大し補給線が伸長するリスクのほうが大きいと世界は判断したためでした。
予想外の戦線拡大で日本の戦費はかさみ、そのつど高橋は公債の発行にロンドンのみならずニューヨーク、パリへと飛んで資金調達に奔走します。
ようやくバルチック艦隊殲滅により日本の勝利で公債価格もプレミアがつくほどの人気、しかし戦勝の賠償金は取れず戦時発行の公債償還と撤兵費用を捻出すべくまたもや高橋は公債発行の世界旅に。
そして高橋はかってない好条件での公債発行に大成功し日本の金蔵もはじめて安泰します。
高橋も偉いが彼に縦横に任せた大日本帝国指導部も偉い。
明治の日本人の国際的明るさと至高の意気に乾杯!
《二・ニ六事件の謎》
『政治の起源』–書評
「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマの著書。
新世紀の幕開けを告げたオレンジ革命もアラブの春もその思惑とは異なり政治の迷走がいまだ止まない。ベルリンの壁の崩壊にともない期待された歴史の終わりは訪れず、勝利したはずの民主主義は今やますます混迷を深めていく感さえする。
私は先進国の歴史から経済的発展と民主主義の成長は強い相関関係があると思い込んでいた。しかし決してそうではないことをこの本は構造論的に歴史を解析して教えてくれる。
民主主義政治の確立には3つの主要素が必要だと著者は論ずる。それは権力を統合し執行できる「国家」、権力行使が予見可能な「法の支配」、共同体全体の利害を反映した民主主義的な「説明責任」だとする。そしてこの3つがバランスよく揃うためには3つの力が必要であり、それは経済成長、社会的動員、正統性と正義に基づく国家認識だという。つまりそれぞれ3つの主要素と補助要素は分散独立したものであり相互の補完や影響関係で成立したり成長するものではないということなのだ。
結果にすぎぬ事象から各要素の相関関係を主観で想定したうえ因果律的に歴史を解釈していた我が身は恥じ入るばかり。
なるほど「法の支配」も「説明責任」も放り出し、ひたすら独断と偏見からなる独善と主観を客観的合理性と言い換え権力を統合し執行する「国家」、そこではさらなる経済成長が必ずしも大きな自由と民主主義もたらすわけでない、そんな政治の起源をアベノミクスは身銭を切って演じているのか。それにしても国民にとっては高い代償だ。
二・二六事件とは何だったのか。
この事件は陸軍を二分した「皇道派」と「統制派」の内部抗争に端を発した軍部クーデタだった。そしてクーデター失敗により失墜した皇道派にかわり陸軍の覇権を掌握した統制派の独裁が進展した。その結果が軍部の暴走を招いた,
というのが通説です。
私はこの事件の本質は国体護持を錦の御旗とした「天皇制官僚システム」が軍部クーデタを逆手にとった「カウンター・クーデタ」であったと思います。この事件で軍部は戦略なき国軍という醜態を天皇制官僚システムの目の前に晒してしまいました。通説では事件を契機に暴走したのは軍部とされますが、暴走の陰の主役は軍部を機動力に組み込むことに成功した天皇制官僚システムではないでしょうか。満洲支配を完成して満鉄や満映を成功させ朝鮮では失敗した植民地主義の実験に一応の成果を見たといえます。敗戦後の日本を統治したのはGHQでした。戦後の混乱や暴動を静圧して平穏に統治する最善の手法として彼らが選択したのは現人神、天皇を生き延びさせることでした。そのため東京裁判では軍部とくに陸軍を悪者にして天皇を平和主義にすり替え国民の歓心を得ました。やがて日本が独立国家となると戦犯をのがれた天皇制官僚の一人が日本の首班となりました。そして日米安保条約の改定という虚飾ナショナリズムのもとに従米強化をおこなっていったのです。今に至るもこの国の首相は米国大統領のオトモダチになることが最大の関心事のようです。この国の実権を握るのは為政者ではありません。戦前は天皇制官僚システム戦後はGHQ官僚システムではないでしょうか。
まず事件当時の日本の状況はどんなものだったのでしょうか。
ニ・ニ六事件当時の社会状況と経済格差を反映する二つの実証をあげてみます。
一。刑死した高橋太郎少尉の獄中手記。
「ともに国家の現状に泣いた可憐な兵は、今、北満第一線で重任にいそしんでいることだろう。雨降る夜半、ただ彼等の幸を祈る。食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中は如何ばかりか。この心情に泣く人、幾人かある。この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにしては置けない筈だ。殊に為政の重職に立つ人は。国防の第一線、日夜生死の境にありながら戦友の金を盗んで故郷の母に送った兵がある。これを発見した上官はただ彼を抱いて声を挙げて泣いたという。・・・」
NY発の世界恐慌の波をまともに受けて深刻な不況になり、凶作から農村が荒れて間引きや娘の身売りなどが頻発、満州事変以降の戦線拡大による若者の徴兵強化、これらが農村の困窮化を加速していきました。貧困にあえぐ農村から娘たちは女郎屋に働き手の男たちは軍隊に身を投じて残った家族をなんとか食いつないぐことに精一杯でした。
ところが、軍事産業を中心とする財閥系企業は戦時活況を呈し空前の繁栄を享受していたのです。その状況を事件当時の陸軍大将宇垣一成が記録しています。
ニ。事件当時の陸軍大将宇垣一成が当時を振り返った日記。
「・・・その当時の日本の勢いというものは、産業も着々と興り貿易では世界を圧倒する・・・英国をはじめ合衆国ですら悲鳴をあげている・・・この調子をもう5年か8年続けていったならば日本は名実ともに世界第一等国になれる・・・だから今、下手に戦など始めてはいかぬ。・・・」
このような経済格差の拡大に拍車をかけるように五・一五事件や血盟団事件などのテロも頻発し日本社会は暗い空気が流れていた時代であったのです。
農村出身の兵たちに同情した皇道派の青年将校は経済格差の拡大を阻止すべく財閥、財閥と結託した天皇制官僚組織に反旗をひるがえしたのです。
事件は彼らの異議申し立てに対し、昭和天皇のご聖断で彼らを賊軍とすることで皇軍相撃つことなく決着をみました。
政治の失敗による行き詰まりに対処するため国民の視点を外部に振り向けることは貧困な政治の常套手段です。
貧富の格差の幾何級数的拡大に行き詰まった政府は、この事件を暗黒裁判で葬り去り、国民の関心を国内社会問題から領土拡大による富の拡大という幻想を打ちだしたのです。つまり行き詰った対中戦線を拡大し植民地経営に活路を見出す契機として逆用したのです。それはストック資源を「持たざる国」としての行動の正統性=追い込まれた戦争=を担保するものでもあったのです。
しかし、国民生活が極度に悪化する一方、当時の財閥の隆盛が示すとおり植民地貿易を核とする輸出額は英国を抜き去り世界一になるなど世界が羨む経済というフロー資源を「持てる国」=戦線を拡大する理由なき戦争=であったのです。
けっして「持たざる国」ではなかったにもかかわらず為政者は、日露戦争以降大儲けを続ける財閥や天皇制官僚と結託して、二・ニ六青年将校の屍を乗り越え人民の血涙を横目に栄華の巷を闊歩したのです。