bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

沖縄県知事かく戦えり

平成最後の夏に翁長沖縄県知事が亡くなられた。

オール沖縄のスローガンを掲げて前知事を破り沖縄県知事に就任してから約4年。まさに孤軍奮闘そして獅子奮迅の政府との闘いであった。日本全土の0.6%に過ぎぬ沖縄の土地に在日米軍基地の70%が配置されている。基地周辺で頻繁に起こる米軍人の不祥事そして相次ぐ米軍機の墜落事故。しかし米兵の暴行事件で渡米して米政府の国務次官補・国防次官補と交渉しているのは沖縄県知事であった。日本政府は沖縄における米軍基地の存在と派生する諸問題を放置している。米軍人による不祥事や米軍機事故に対しては形だけの政府抗議で一件落着としてしまうのである。日本国憲法の実態的な上位法というべき日米安保条約地位協定がある限りどうしようもないからだ。これら条約の改定交渉もせずに手をこまねいたままの日本政府である。

戦前からこの国の指導者の沖縄に対する姿勢は冷酷だ。あの日米戦が終局に至ると指導者は、一億火の玉となり本土決戦だ、と国民を叱咤激励した。しかし本土決戦を実行したのは一億国民のうち沖縄県民のみだ。そして世界の戦史上類例を見ない軍人と同数に達する沖縄民間人の命が失われた。ところがこの国の指導者は自らは決戦に身を晒すことなくましてや玉砕などまったくせずに無条件降伏してしまった。そしていまだ国民に向かい、とりわけ沖縄県民に対して謝罪の言葉もないまま、この国の指導層は米国への屈辱的な隷属を担保に保身と私利拡大を図っている。そんな永久敗戦国、日本の姿が象徴的に凝縮されているのが沖縄なのだ。

翁長知事はこんな国家に異議を唱え粘り強く米国隷属下にある沖縄の即ち日本の現状打破を訴え続けた。ところが政府もマスコミも翁長知事には冷たかった。さらに沖縄県民を除く大多数の日本国民はそんな訴えにさえ無関心であった。歴史を知らぬのか自分さえ良ければ構わぬということか、同胞として何とも嘆かわしい限りだ。

沖縄玉砕の前夜、沖縄の海軍陸戦隊司令官大田実少将は、沖縄県民の悲惨な奮闘を讃え海軍次官あてに次のように打電した。

「謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

この痛切なる訴えはいまだ日本国と国民には無視されたままだ。

日本国と国民統合の象徴たる天皇皇后陛下は皇太子ご夫妻時代を含め計11回沖縄慰霊のご訪問をなされているというのにだ。

この国の国民に訴えたい。

「翁長知事かく戦えり

 沖縄県民に格別の配慮を賜らんことを」

FIFAポーランド戦に美しい日本の終焉を見た

終盤に至るや見るに耐えない含羞なき同胞の球回し。「勝てば官軍」というが、勝ち敗けの前に道理がある。身を呈してでも道理に殉ずるのが清廉な日本人であったはずだ。相手チームに対する礼節を欠いた身勝手な行為はけっして容認できるものではない。そもそも賊軍が起こしたクーデターを維新と言い換え暴挙を正当化したのが「勝てば官軍」だ。日本チームはこんな卑劣な妄言を錦の御旗にして世界に醜態を晒したのだ。日本人の美徳を犠牲にした勝利になんの意味があるのか。

「政治の変質―理念から取引へ」

ベルリンの壁が崩壊した『歴史の終わり』からすでに四半世紀が経過しました。

しかし、政治の現状をみるにつけこれが歴史に勝利した自由民主主義のあるべき姿なのかと嘆息せざるをえません。第二次大戦後、戦勝国アメリカは自由と民主主義という政治理念を高らかに掲げ自由世界を主導してきました。敗戦後の日本も新憲法の精神にもとづき平和と個人の尊厳という政治理念を確立してきました。

 

ところがトランプが大統領になるとアメリカはデイール(取引)なるご託宣のもと、自由と民主主義の伝道師から一夜にして排他的で保守的なエゴイストに変身してしまいました。

日本では3.11と福島原発の被災を放置したまま安倍首相は地球儀を俯瞰するセールスマンとして世界に雄飛しアメリカに先んじて、政治理念を経済的「取引」に売り飛ばしてしまいました。  

経済的な「取引」を頭から否定することはできません。国家と市民の普遍的な価値を増大させる、その手段としての「取引」であれば肯定されるべきものでしょう。ところが日米首脳の意図は「取引」を経済目的のみでなく自身の政権を維持するための手段として利用しているとしか思えないのです。

いまや政治とは「理念と公益の追及」から「取引という名の私益への手段」へと変質しつつあるように思います。

またこの政治の変質が経済の保護主義化そして文化の保守化を促進しつつあるのではないでしょうか。

 

そこでこのような政治の変質を来した「要素」は何かと考えてみました。

その主なるものは二つあると思います。

一つ目はグローバリズムです。

1.経済的グローバル化によりもたらされたもの。

 ・国家が市場に組み込まれてしまった。そして政治は市民よりも市場の力に耳を傾けるようになりやがて政治が市場に支配されるようになった。

・国際化で恩恵を受けた市民がいる一方で不遇に陥る市民がより多く生じ市民の経済格差が拡大をつづけている。

2.社会的グローバル化によりもたらされたもの。

インターネットの普及によりヴァーチャルな世界市民が誕生した。ボーダレスなネットワークは世界の出来事をリアルタイムの映像で世界市民に提供する。

そして市民が知ったことは、多数派は市民の一般意思を必ずしも代表するものではないこと、つまり民主主義は普遍的な価値ではないことだった。

3.ヒトの視点が欠けたグローバル化によりもたらされたもの。

モノとカネにフォーカスされた国際化の大きな欠陥は経済三点セットの最も重要な要素であるヒトを欠いていた。モノとカネで再構成されたグローバルな社会秩序、それは民族や宗教による迫害と貧困からの難民を大量生産しはじめた。

 

このような状況から、国際化することが恩恵をもたらすという経済学神話に立脚した政治公約への期待が裏切られ、かつ皮肉にも経済的不平等は経済機構の産物ではなく自ら意図した政治的選択の結果であることを市民は知ったのです。人の視座を欠いた政治権力は市場という経済的優越性に屈服してしまったのです。

グローバル化された世界の普遍的な価値とは、民主主義などという空虚な理念ではなく、カネだと認識せしめられた市民は非人間的な金主主義への傾斜を強めることになりました。

かってのマルクス・レーニン主義流の寡頭支配は、ロシアではなく日米欧の新自由主義者が継承したのです。

 

二つ目は「知性」に対する「知能」の優勢化です。

根源的な問題は教育にあります。

初等・中等教育で蓄積した知識を基礎に高等教育が請け負うべき責務が機能していないのです。問題は高等教育が知性や創造性を発展させるためのものではなくなり、体制順応や既成概念の尊重など受験・就活エリートを助長するだけの知能教育になってしまっていることです。

その結果もっとも教育を受けた人がどんどん知性的でなくなってきていることです。

知能とは、かなり狭い直接的に予想可能な範囲に適用される頭脳の優秀さで諸動物がもつひとつの特徴です。いっぽう知性は頭脳の批判的、創造的側面であり広い範囲でものごとを熟慮して理論化する人間のみの特質であり人としての尊厳でもあるといえます。したがい「知能」は本質的に「私」との相性がよく「知性」は「公」になじみやすいものといえます。

知能はIQテストなどである範囲までの数量化や可視化が可能です。ヒトは見える効果には弱いものです。たとえ短絡的であっても要領のよさを発揮する知能はムラ的な組織内で評価されてきました。さらに目に見える成果を短期的に達成することが要求される政治において、知性に対する知能の絶対的な優位化をもたらしています。なぜなら予想可能で狭い範囲の目的達成の「取引」に普遍性や論理的な知性は阻害要因でしかないからです。その場かぎりでいいから要領のいい使い捨て知能が最適なのです。

ここまでみてくると「取引と知能」、「理念と知性」には緊密な相関関係があるといえます。

「取引」とはアップサイドを自分のものにしてダウンサイドを他人に押し付けることです。そこには長期的な展望や普遍性など不要です。知能と「私」が主導する世界といえます。

「理念」とは自由や平和という普遍的価値のために他人のダウンサイドをあえて背負い込む、または共有するものです。それは知性と「公」の世界なのです。

政治の変質によって国家は政治的意思を喪失してしまいました。その国家では市民のエネルギーは「私」をいかに享受するかに向けられています。

公益を図り他人と共有する政治意識は置き去りにされ、もはや自由民主主義は形骸化して空虚なテーゼにしか過ぎなくなってしまったようです。

「開戦神話」-対米通告を遅らせたのは誰か-書評

 

著者は開戦当時小学5年生の井口武夫、外交官。父君は開戦当時の在米日本大使館ワシントン勤務の外交官でした。

フランクリン・ルーズベルト大統領(FDR)は真珠湾攻撃を事前に知っていたが何の行動も起こさず日本を悪者にして日米戦争に引きずり込んだという陰謀説があります。

この本ではFDR陰謀説に懐疑的な背景と開戦通告を遅延した日本の問題が指摘されています。 

FDRの日本挑発については、「アメリカ政府は日米開戦直前までドイツがヨーロッパを席巻しないかと憂慮していた。日本への危機は二次的な関心にすぎなかった。だからこそ経済制裁で日本を屈服させられると考え日本の不意打ちにあった」と記しています。 

ハル・ノート」については次のような説明がされています。

「日本の最終提案には、アメリカが全面的に受諾すべき最終期限が付せられており、それ以上交渉をつづけない明確な意思表示をしている点では、交渉期限を付していないハル・ノートよりも国際法上の最後通牒の性格に近い外交文書であった」

「しかし、ハル・ノートが出された結果、禁輸緩和の最終交渉に入れないまま戦争に突入したので、日本軍部の期限付きで独断的に交渉を打ち切ろうとした態度の是非が、戦後の日米交渉史の批判的検証から外され、ハル・ノートによる対日戦の意図的な挑発という日本軍部に都合の良い通説が定着した」

 

またFDR陰謀説の背景として以下の二点を挙げています。

アメリカ学会の修正主義史観

 英国を助けて独国を破るため苦肉の策としてFDRが日本に先制攻撃をさせ対独参戦の   大義名分を得るため。

・英中陰謀説

 ヒトラーに敗北寸前のチャーチルと国民党内に対日宥和派が出現し狼狽する蒋介石が語らってルーズベルトを巻き込んで対日独戦に持ち込んだ。

 

いっぽう日本側には対米通告が遅れた問題があります。 

・外務省から在米大使館へ開戦日の朝に到着した電報の謎。

対米通告の発信が大本営、政府連絡会議で「12月7日午前4時」に完了されるべく決定が

あったにもかかわらず外務省からの発信は12月7日午後4時と12時間も遅れた理由が解明されない。

・親電押収事件。

 FDRが開戦直前、昭和天皇に戦争回避を訴えた親電が長時間陸軍に押収された。

 親電の解読工作こそが対米通告の発信を保留させられた問題に絡んでいる。

 12月7日正午に中央電信局に入った親電は参謀本部通信課の戸村盛雄少佐により10時間差し押さえられた。親電が、日本を悪者として世界に宣伝して袋叩きにする謀略工作だと考え参謀本部作戦課の瀬島龍三少佐と協議した独断的な行動だった。

 

日大アメフト部騒動にみる義理の悲劇

日大アメリカンフットボール選手のレイト・タックル事件が巷の話題となっている。

昨日おこなわれた本人の記者会見をみると愚行はどうも本人の意志ではなかったようだ。

この不祥事にたいする日大の一連の対応はあの戦争末期に起きた特攻隊の悲劇を想起させる。

特攻は志願制だったといわれたがそれは当初だけのことのようだ。

特攻作戦を開始した直後、散華した若者とその戦果は華々しい美談に仕立て上げられ国民歓呼の声に特攻は迎えられた。しかし、それは特攻予備軍たる若者への無言の「義理の強制」となったのではないだろうか。彼らに対する国を挙げての好意と信頼にたいする「お返しとしての義理」さらには軍隊の仲間内では臆病者といわれたくないという自己への体面保持という「意地の義理」である。この絡み合った義理への忠義立てが若者を家族、恋人への想いを断ち切らせ、死への恐怖から無理矢理にでも自らを死地に向け奮い立たせたのではないか。そして、最後に彼らの背中を押し出したのが「俺も後からつづく」という上官の一言だった。

ところが、その上官は敗戦を迎えるや手のひらを返して特攻を断罪し民主主義者に変身し悠然と戦後を生き延びたのである。

義理は日本人の美徳のひとつである。それを逆手に取り背徳の担保としたのである。

大学運動部は上下関係が厳格で上位者は神聖にして絶対的な権限を有するというその組織構造が軍隊に近似しているという。

モリカケ騒動で腐敗が顕著になった行政機関も同様の組織構造ではないだろうか。

私は続発する官僚組織そして大企業の醜聞に「義理の理想化による非人間化」という組織のレガシーを垣間みる。

大人の世界を模倣するようにいまや大学運動部までも唾棄すべき哀れなレガシーが若者を蝕んでいるようだ。

 

北朝鮮をめぐる地政学的考察と日本の失敗

北朝鮮をめぐる国際情勢の動きは地政学的なアプローチだけでなく地経学的分析も必要だと思います。

まず地政学の本質が領土の征服から接続優位性に変化していることに目を向けるべきです。

先の大戦で明らかになったことは領土征服が必ずしも国益にはならず領土の維持コストが利益を超過する損失リスクを必然的に抱え込むということでした。とくに中国戦線では補給線の欠如が征服した領土を「持つことのリスク」を知らしめました。いっぽう中国はドイツから優秀な軍人を雇用して軍事力の強化を図り援蒋ルートという補給線を構築して英米からの強力な支援を確保したのです。その結果はご存じのとおりです。領土征服への執着が領土を放棄してでも補給線を維持した接続性に敗北したのです。持つことより繋がることの重要性を知らされたのです。

 

もう一つの教訓は地経学です。

兵器に代わる手段としての経済力です。あの戦争で日本が息の根を止められたのはABCD包囲網という経済制裁でした。そして勝てないまでも緒戦の段階で優位な手打ちに持ち込めなかったのはなぜか。真珠湾攻撃の失敗です、なぜ反復攻撃をして徹底的な基地破壊をしなかったのか。なぜなら勝利よりも兵力温存を優先せざるを得ない貧しい国力ゆえでなかったのか。そこで国家が大国となるためには経済力をもってして初めて可能となることを身に染みて知りました。それゆえ戦後の奇跡的な経済成長をもたらしえたのです。

 

日本の教訓を生かしているのは中国です。

一帯一路とAIIBという資源確保のインフラ・ネットワークを構築したのです。

地理や地形など国の自然環境は変えることはできませんが日本を苦しめた地政学上のくびきであった資源はいまや経済力で賄えます。日本も経済力でエネルギー資源を買いあさり繁栄してきました、しかしまたもや補給線という接続性を軽視していたのではないでしょうか。日本をはじめTPP参加国や多くの国が恐れるべきことは、アメリカと中国が太平洋をはさんで戦争をするかではなく中国がインフラ・ネットワークを利用して不平等条約を押し付けてくることです。むかし英国が中国に対して行ったように。

FAAGのプラットフォームを中国はリアルの世界で構築しようとしているのです。

ノードの数に比例してネットワークの価値と効用は増大するという時代からべき乗則で増殖する次元に移行しています。

このままではWinner takes all となりかねません。

 

地政学も地経学も所詮は国益を最大化しかつ国民の繁栄を実現するための戦術論であり手段にすぎません。重要なことは国民が生活基盤を置く国家のビジョンでありその実現を図る戦略です。ところが日本には国家ビジョンがありません。

かってのアメリカには自由と民主主義の伝道師としての理念がありましたが今や「取引」が理念に取って代わってしまいました。

日本にも平和と個人の尊厳(憲法の要旨)という理念がありましたがアメリカよりいち早く

「取引」に理念を売り飛ばしてしまいました。

いまや国家の取引が政権維持の手段と化す有様です。

日本もアメリカも、国家が国民よりも市場の力に支配されるようになり民主主義は金主主義に模様替えしたのです。

中国は民主主義に頼らず国家を反映させる道を示してきました。しかし国民が繁栄を享受しているかは疑問です。

この背景には知性の劣化と不人気そして相対的な知能の優位にあると思っていますが長くなりますのでやめておきます。

「淑女は何を忘れたか」-映画評

この名画が日経の日曜版ではコメデイと紹介されていました。実はコメデイに偽装して戦前のエリートを笑い飛ばした市井映画なのです。
なによりも桑野通子には度肝を抜かれます。
そのハツラツさは小津の遺作「秋刀魚の味」冒頭の岩下志麻を彷彿とさせます。
桑野は関西から東京の叔母の家によく遊びに出てくるお嬢様。絵に描いたような洋装のスラリとした“モガ”黒のロングコートは「テファニーで朝食を」のヘップバーンです。なんと盧溝橋事件の年にゴルフはシングル自動車を運転して清元は抜群なのです。映画のはじまり麹町のお屋敷でタクシーが止まり栗島すみ子が降り立つ。そこには泰明小学校ならぬ学習院の制服を着たお坊ちゃんが佇んでいる。栗島の家に遊びに来た母の飯田蝶子を待っているのだ。栗島すみ子が玄関を開ける。「御機嫌よう」と小津定番の東京ことばの挨拶でひとまずホッとさせる。お茶の間では女友達の吉川満子と飯田蝶子が待っている。栗島は姪である桑野が東京に出てくることを明るく話す。吉川は「私あの子好きさ。清潔な感じがして」と即座に返す。桑野を出さずここまで一気に引きずるローアングルの演出にはただ脱帽あるのみです。東京に出て来た桑野はタバコに酒とおじの東京帝大医学部教授の斎藤達雄を困らせおばの栗島すみ子から叱責されるます。ところがおとなしく言うことなんか聞きはしない。お小言に対して乱暴に反発するのでなく柔らかな関西弁で既成概念をチクリと揶揄するのです。酔っ払って叔父の弟子の東京帝大医学部生との仲を疑われる。ところがこのエリートは家庭教師で分数のかけ算ができないのでした。痛快これまさに昭和の“清潔な感じ”の映画なのです。おっと忘れるところでした、淑女が忘れたのモリカケじゃなくて庶民への忖度だったのです。