bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

年金の財政検証に何の意味があるのか。

年金制度の仕組みはすでに破産が明白である。

しかし厚生労働省は27日、公的年金制度の財政検証結果を公表した。経済成長率が最も高いシナリオでも将来の給付水準(所得代替率)は今より16%下がり、成長率の横ばいが続くケースでは3割弱も低下する。60歳まで働いて65歳で年金を受給する今の高齢者と同水準の年金を現在20歳の人がもらうには68歳まで働く必要があるとの試算も示した。(日本経済新聞、2019年8月28日朝刊)

年2%のインフレ目標さえ2年で達成するといいながら6年経過しても達成のめども立たない状況にある。また産業構造が金融資本主義からデータ資本主義に移行しており国民の勤労形態や所得構造も大きな変動が予測される。

かような経済状況のパラダイムシフトを示さず根拠なき経済成長率のみを前提にして、将来の給付水準を予測することにいかなる意味があるのか。

エリートの無責任な自己満足でしかないのではないか。

やるべきは現行システムの手直しなどではなく年金制度の新しい仕組み作りであろう。しかし国家ビジョンがなくてはその発想も生まれない。国家の大計なき日本の悲劇だ。

 

強制される忖度

飛行機や新幹線に乗ると通路側の席につくのが私の常である。理由は出入りが楽なこと、それに狭い通路とはいえ密閉空間の息苦しさを和らげてくれるからである。

 


新幹線を利用した時の出来事である。

読書に熱中していた私の横に初老の男が立ち尽くしていた。そこで、窓側の座席が空いていたので「こちらですか」と聞くと無言のまま私の膝を跨いで隣に座った。失敬な、と思いつつ男がバッグパックから取り出した本に目をやった。歴史旧跡のガイドブックである。そういえば名勝地への玄関口がこの先にあったなと思った。再び読書に戻った私は、列車がその駅に到着したことに気がつかなかった。その男は立ち上がると無言で私の膝を乗り越え去っていった。

そこで本を隣の空席に置いて、乗車駅で求めた駅弁を開け昼食をとり始めた。するとまた横に人が立っている。今度は妙齢の女性だ。口をへの字にして隣の席を指差している、こちらと聞くと無愛想な顔から「エエ」と甲高い声が返されてきた。

本を取り上げ、もう一方の手で弁当を本の上に置き片手で座席前のテーブルを跳ね上げると読みさしの本が床に滑り落ちた。その本を靴のつま先で横に払い優雅な身のこなしで私の前を通過して女性は横の空席に座った。本を蹴るとはとむかっ腹が立ったが食事が不味くなるので怒りを抑えた。

そして終点を告げる車内アナウンスと同時に私は席を立って降車ドアに向かった。

 

どこに座っていようと、人間は置き物ではないのである。「すいません」の一言がなぜ言えぬのだろう。

 

日本人はいつから他者への思いやりを忘れ、逆に他者が自分に配慮するのが当然だと思うようになったのだろうか。謙虚さを失い忖度を他者に強制する社会など御免被りたいものだ。

国民国家とグローバリズム

現代政治の主要な概念は国民国家グローバリズムそして民主主義であろうと思います。

この三つの概念のうち二つは共存が可能であるが三つともに共存することは難しい、

と政治のトリレンマを説いたのはダニ・ロドリックの「グローバリゼーション・パラドックス」でした。

たしかに「グローバリズム国民国家」そして「グローバリズムと民主主義」は仲睦まじく進行してきたように思えました。

ところが、グローバリズムの旗手である米国は半導体や製造装置の新たな対中国輸出の規制強化策に乗り出し、

グローバリズムの恩恵を享受していた西欧では極右政党が台頭するなど、グローバリズムが行き着く先では

民主主義とも国民国家とも折り合いが悪くなってきたように思われます。

 

国民国家は国境という他国との明確な物理的線引きをもって形成される国民の想像共同体といえるものですが、

グローバリズムとは国境を越えることで形成される資本の共同体といえるのではないでしょうか。

越境したグローバリズムつまり資本共同体と国民国家は共謀・結託することで民主主義政治を市場化してしまったように思えます。

そして国家の市場化つまり植民地化に成功したグローバリズム新自由主義という高邁な理念をかなぐり捨て資本の収奪的な本質

つまり帝国主義イデオロギーを普及すべく、国民国家の分断と解体に傾注しているように思われます。

 

グローバリゼーションがもたらした資本と雇用の流動化は今後あらゆるもの(価値)を金融化して

国民国家における労働(人)価値の低下を助長するものと思われます。

グローバリゼーションというユートピア物語は国民に国民主権システム(国民国家)を意識させない(忘却)させることで

グローバリズムという資本帝国主義システムを構築してきたのではないでしょうか。

財政健全化は必要なのか。

返済不能な債務や毎月の収支が継続的に赤字だと個人生活の継続はできない。

 

しかし国家の場合は、民間部門と政府部門そして海外部門それぞれの収支があるのだからこの三部門の総収入と総支出が同じであれば国家は存続できるはずである。

そうであれば、

民間部門の収支+政府部門の収支+海外部門の収支­=0

であればいいことになる。

すなわち、政府部門の(赤字)額=民間と海外部門の総計(黒字)額

であれば国家は存続できる。

 

ここで国家存続のため政府政策により収支が操作できる部門を考えてみる。

 

海外部門は為替レートの要因に加え輸出先の経済状況や政策に輸入も国民所得の変動などに左右される。このため政府が海外部門の収支を操作することには限界がある。

 

政府がある程度裁量的に操作できるのは政府部門の支出(財政出動)と民間部門の支出(増税)しかない。

(政府の収入となる増税政策は、税率は操作できるが収入=税収額は操作できない。政府の支出となる減税政策も同様)

 

つまり政府部門の赤字は民間部門の黒字を相対的に増加させることになり、財政の健全化を目指すことは逆に民間部門を苦境に追い込むことになる。

 

悪化する日韓関係に思う

 

たぶん日本の言い分は正論なのであろう。

しかし正論を貫き通さんがためいささか礼節を欠いてはいないだろうか。

 

かって自由と民主主義というあたかも正義を装う看板を表に掲げながら裏では植民地化政策を巧妙に進めたのが欧米列強の外交であった。そんなダブルスタンダード外交に赤子の如くあしらわれたのが大日本帝国の潔白な正論外交だった。ところが国際外交のステージでは大日本帝国の外強硬な正論はタテマエとホンネを使い分けできない脆弱性となり、やがてそれは日米開戦一つの要因にもなった。正論の拳を振り上げたのはいいが落としどころを間違えたのである。

 

そんな状況は今も変わらないようだ。グローバリズムというタテマエと自国主義というホンネそんなダブルスタンダード外交を政府は使い分けたつもりだろう。しかし、いま韓国では生きるか死ぬかの瀬戸際で国家運営をしている。ここで経済が崩壊し始めたら国が引っくり返るという状況にある。そんな彼らをなだめる方法はいくらでもあるのに、その逆に火に油を注いでいる硬直的な外交のやり方は、実に幼いと思う。窮鼠猫を噛む状態に陥っている韓国と喧嘩をしていたところで、日本国民には何の得にもならないだろう。

 

感情に溺れて憂さ晴らしに走るのは、国民が地理以外に団結する拠り所を持たない国家の宿命か、

深謀なく短慮ゆえに敵を作り自滅して行く。こんな歴史はもう終わらせなくてはいけない。

 

品性ある国だった日本

第一次世界大戦に勝利した連合国の一員として大日本帝国は1919年パリ講和会議に出席して人種差別撤廃を提案しました。ちょうど100年前のことです。

しかしイギリス、オーストラリアが強力に反対しアメリカも中途半端な対応をしたので提案は拒絶されました。

また大日本帝国第一次世界大戦の反省から創立された国際連盟の有力メンバーとして話し合いによる国際紛争の解決に注力して、軍縮会議では自国に不利になる条約を締結するなど国際平和維持に努力を払いました。

英米が建前として述べる理想を性善説に依拠する日本人は額面通り受け止めていたのでした。しかし英米列強は理想とは裏腹に決して植民地主義を放棄しませんでした。

その現実に気づいたとき、日本人は列強のダブルスタンダードに騙されたと悟り憤慨しました。

そこで、そのような二重基準のいかさまゲームをやるより、没他あって没自なく公益あって私益なき道義を導入して新たなゲームをすることにしたのです。それが大東亜共栄圏の構築でした。

 

自衛隊の違憲論議に思う


私は憲法論議の前に国家ビジョンがあるべきとの意見ですので多くの皆様とは基本的スタンスが違います。
(内外の情勢変化と周囲環境に合わなくなった家を修理改善するのではなく家そのものを立て直す)

現行憲法日米安保条約日米地位協定の実態的な下位法であり、対米従属を保身の手段ではなくいまや自己目的化してしまった国が日本だと考えています。


ここにおいて議論すべきことは改憲云々の枝葉ではなく根幹としての国家ビジョンの設定であるというのが私の立場です。

現行憲法が正当な自主独立国家における正統性を有する憲法であれば、自衛隊違憲状態にあるという指摘は正論でしょう。
この議論は今に始まったことではなく自衛隊発足以来の未解決課題だといえます。
その理由は米国を触媒とした国家保全という不可視な不安状況(永続的敗戦状況)を可視化した自衛隊という代替で満足するという昭和の同時代性を持つ官民の共謀的黙認があるからではないでしょうか。

また現行の憲法は米軍占領下いうならば非独立状態において公布し施行されたものであり、1959年砂川判決で最高裁は「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」としての統治行為は、司法審査の対象から除外される(統治行為論)として憲法の司法判断を放棄しています。

もし違憲訴訟を起こしても対米追従国家のもと最高裁は何の司法判断もしないことでしょう。