bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

反社会的勢力

今朝の朝日新聞によると、

「政府は10日、首相主催の『桜を見る会』に出席していたとされ問題になった

『反社会的勢力』について、『あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難』

とする答弁書閣議決定した。」と報じています。

 

この記事でまず気になったのは「限定的かつ統一的に定義」という文章です。

そもそも定義とは、概念や用語の意味を正確に「限定」し「区別」することをいうものでしょう。

区別とは、複数にわたる事象間の差異を認識して仕分けることですから、その結果として区別された事象は自ずと統一的な事物(性質や品質など)となるはずです。

 

この解釈が正しければ、閣議決定された答弁書は「定義」という言語の同義反復をしたうえでさらに言語の定義を放棄しているのです。

釈明のための言い訳が馬脚を現したともとられる呆れた答弁書だと思います。

 

ところで、国家の統治者である政府が言語の定義をできないということは大変な問題だと思います。

 

なぜなら言語は社会のもっとも基底的な制度だからです。

言語は社会の中で私たちが生きていくために不可欠なコミュニケーションの重要かつ不可欠な基盤です。

民主主義の概念も法治国家の制度も言語によって(言語を基底として)創造されたものです。

言語の定義が不明確であれば為政者や権力者の恣意的な解釈がまかり通ることになりかねません。

 

その言語の定義ができないという政府に私たちの社会や国政の運営を任して良いものでしょうか。

また言語定義を放棄した政府に国家統治の正統性はありうるのでしょうか。

 

 

それでも経済成長は必要か?

1941年ロシアの秋、破竹の進撃を続けたヒットラー軍はクレムリンまであと十数キロのところまで迫っていた。しかし例年より早い冬の到来が招いた泥濘と降雪が進撃の足を止め、世界で最も近代的な機械化部隊はその攻撃の成功にもかかわらず農業用荷車しか持たぬ歩兵部隊に頼らざるを得ない状況に陥り敢え無くヒットラー軍は敗退した。1812年モスクワ入城を果たすも

冬将軍と食糧欠乏によりロシアからの撤退を余儀なくされたナポレオンの二の舞であった。

 

この敗退の原因は兵站戦術の失敗であった。
兵站戦術とは軍隊を動かし、かつ軍隊に食糧弾薬や他の戦争必需品を補給する実際的方法である。すべての戦需品の消費量予測と補給基地から前線部隊までの搬送手段、距離などを問題に不確定要素をも加味して専門家が叡智を尽くし研究した結果の戦術それが補給線である。

 

ナポレオンとヒットラーの戦争は、その電撃作戦が敵陣に与えた衝撃が大きく攻撃は成功したかにみえた、しかし進軍速度に追いつかない補給線の限界が進撃を停止させ思わぬ敗退を招いた。

 

近世前半における戦争の戦需品は主に食糧であり前線での現地徴収が可能であった。このため補給線としての兵站戦術は戦力増強と戦線拡大策に追従すれば事足りることが多かった。


しかし近世後半以降の戦争では、科学技術の発展により兵器、輸送手段が強化され前線速度の高速化を可能にした。また科学技術はかっての食糧と弾薬のみでなく現地調達が困難な自動車、重火器、燃料など幾何級数的な戦需品の多様化と増大をもたらすことにもなった。そこで兵站戦術=補給線戦略が戦争の勝敗を左右する影の主役に躍り出たのである。

 

20世紀初頭、補給線が世界の注目を集めた出来事がある。それは日露戦争における日本の補給線である。日本側が勝利するたびに日本公債が売られたのである。その理由は、ロシア軍が後退することで日本の補給線が伸びる、その補給線リスクの方がロシア敗退の可能性より大きいと世界は読んだからである。

 

しかし日本は日露戦争に辛くも勝利した。日清戦争に続く連戦連勝は国民に神国日本の不敗神話を生み出させることになった。

いっぽうではこの神話は日本失敗への布石ともなったのである。日本軍をいや日本国民が夜郎自大になってしまった。

満州事変に端を発した日中戦争以降、日本軍の戦争は日清・日露戦への神話的信仰に執着するあまり補給線への配慮を徹底的に欠いていた、あるいは無視し続けていた。これが大東亜戦争にまで戦線を拡大し続けた大きな要因ではなかっただろうか。

 

翻って現代は金権至上主義に堕ちた新自由主義の経済戦争真っ盛り。かっては奇跡的な高度経済成長でジャパン・アズナンバーワンと世界に勇名を馳せたわが国は昔日の栄光を懐かしみ前例を踏襲するまま激動する世界情勢を横目に安逸な日々を過ごしてしまった。そして行き場のない閉塞感が充満する今の日本がある。
政府も多くの論者も日本停滞の原因は経済成長の低迷だと言う。なぜ経済が低迷しているのだろうか。需要と供給の論理から成り立つのが経済だとすれば、日本の産業界には十分な供給力はあるはずだ。問題は需要が無いのか、または需要を喚起、創出できないのではないか。そこで需要の論理だが、これはいうまでもない人の欲望の表象化である。食欲と知識欲とを比較すれば分かるように、人のモノへの欲望は有限でありコトへの欲望は無限である。アナログ経済の勝者たるゆえか日本はこんなことに気付くのが遅過ぎた。それゆえ無限の欲望を個で把握すること、つまりデジタル・ビジネスの本質がわからぬまま太平洋対岸で進むプラットフォームやデータベース構築の大競争など情報産業の傍系かという程度の認識で終わっていた。


世界の経済は、電子・金融業界を中心とするIT技術の進化がもたらしたモノのコモディティ化と情報と知識の集積化と多様化、その結果として実物経済(アナログ社会)からサイバー経済(デジタル社会)へと経済システムのパラダイム転換の激動期であろう。然るに、知の補給線〜教育と人材育成〜が延び切ったこの国では、いまだ経済成長こそ国家の生命線と叫ぶアナログ資本主義の亡霊が徘徊しているようである。 荒野と化した知のインフラ土壌にバブルの塔を建てるかの如きである。

いっぽう社会インフラは腐敗しつつ老朽化、民主主義は陳腐化して政治の専横化を看過、社会システムそのものが制度疲労を起こしている。さらに国民の道徳律の劣化は止まるところを知らぬ状況である。

 

政治の失敗、企業の無策を見て見ぬ振りをし騙し騙され続けてきた官民共謀の弥縫な延命策は知的遺産と経済資産を食いつぶし米櫃の底が見えて来た。今や万策尽きたのではないか。
国家の絶頂期に策定した政策は福祉政策を含めそのほとんどが規制緩和の美名のもと新自由主義の市場に供され、持てる者のみの自由主義が横行する国家となった。いまや中間層は崩壊して国民国家はその態を成しえず瀕死状況にあるのではないだろうか。

 

経済成長が国家至上の命題であり、そして経済成長が進歩であり幸福や善だと国民が信じ切っていた時代は昭和で終焉したのではないだろうか。

デジタル庁を作ったところで、この国にサイバー時代における国家成長の戦略を企図する能力がどこにあるのだろうか、さらに成長を支える補給線の構築が可能なのだろうか?

バブル破綻からの失われた20年それに続くアベノミクス狂奏曲すべて兵站戦術の失敗とその連続ではなかったのか?

いや、そんなことを論じる前に本当に経済成長が日本の最大課題で国民が幸福になれるのだろうか。

過去の遺物に過ぎぬ物量経済という山頂を極めてからはや30年が経過したいま、身の丈に合った知的装備を整え経済損失を最小限にとどめいったんは下山の途につくべきだろう。


そして新自由主義の呪詛を排し沈着に国家能力とその周囲環境を把握し知力と見識を磨きモノからコトへの時代における価値(叡智)創造の戦略を考えるべきであろう。
令和とは、新たなる山頂はどこか見極めて補給線を万全に整えた登山計画を胆力を持って練る雌伏の時期ではないだろうか?

アゾレス紀行

                           

「アソーレスって知ってる」と家内から聞かれたのはこの春だった。

アソーレス?一瞬、何のことかわからず家内に聞くと、カナダに在住する次女の家族が遅れた夏季休暇を過ごす場所らしい。そのメールを見てみるとアソーレスとはポルトガル語アゾレス諸島のことだとわかった。9月にそこに旅行するので一緒に行かないかとの誘いであった。

アゾレスか、とつぶやくと怪訝な顔で家内が知っているのか聞いてきた、私は迷うことなく謎の大陸アトランティス、その残跡といわれ大西洋の真ん中にあるんだと答えていた。 

一万二千年前、一夜にして海中に埋没したといわれる地上の楽園、さんさんと降り注ぐ陽光のもと葡萄、あらゆる香料や主食の穀物が採れ豊かな川や湖そして家畜や野生動物に豊富な餌を提供する草原、また豊かな森林と地下資源に恵まれたアトランティス。 

はるか昔、少年雑誌で目にしたのはアトランティスの楽園が一夜にして海中に埋没するという極彩色の地獄絵図だった。その夜は布団に入ってもなぜか興奮して眠れなかった。それからというもの好奇心に駆られ私はアトランティスに関する書物を漁ってはむさぼり読んだ。

友人からも親からもからかわれながら、ひたすら空想の世界で幻のアトランティスを構築しその再現を夢想していた。その当時からアトランティス埋没の跡といわれていたのがアゾレス諸島であった。

小学校卒業を控えたある日、物知りの友人が教えてくれた。海洋調査と科学技術の発展によってアトランティスそのものの存在が科学的に否定されたのだという。そして中学生になりやがて私の脳裏からアトランティスは消え去っていた。 

次女のメールから私は少年時代の夢を瞬時によみがえらせた。科学的な実証論はともかく少年時代の神話をいまこそアゾレス諸島に追ってみようと思った。 

 

プラトン

そもそもアトランティスについて伝えたのは哲学者のプラトンだ 。プラトンは 「対話篇」と呼ばれる著作群でアトランティスに触れている。アトランティスについて語られているのは、プラトン晩年 (BC350年代 )の対話篇、 『ティマイオス』と 『クリティアス』においてである。

その情報源はアテナイのソロンに遡るといわれる。ソロンは、BC594年にアテナイで民主的改革をおこなった人物で古代ギリシアの「七賢人」の一人でもある。このソロンがエジプトへ旅した際、ナイル川河口の西にあった都市サイスの神官から、アトランティスの物語を聞いたというのである。

そしてクリティアスの曾祖父ドロピデスがソロンからその物語を聞き、クリティアスの祖父に伝え、クリティアスは幼い頃に何度もその話を聞いたのだと述べる。クリティアスはあとで、ソロンが書きとめた記録が手元に残されているのだともいっている。エジプトの神官によると、アトランティスが存在したのは、ソロンの時代から九千年以上前で、ソロンがエジプトを訪れたのはBC593頃と伝える記録がある。つまり、いまから一万二千年ほど前ということになる。人類史の区分ではまだ石器時代のその頃であり、科学的には国家の存在は確認されていない。

アトランティスはどこにあったのか)

クレタ島西インド諸島がその残蹟だという説があるがいずれも私の少年時代には否定されている。

なによりもエジプトの神官がソロンに向けて語っている 。 「… あの大洋 [大西洋]には──あなた方の話によると 、あなた方のほうでは 『ヘラクレスの柱』とこれを呼んでいるらしいが──その入口 (ジブラルタル海峡)の前方に、一つの島があったのだ。そして、この島はリビュアとアジアを合わせたよりもなお大きなものであったが、そこからその他の島々へと当時の航海者は渡ることができたのであり、またその島々から、あの正真正銘の大洋をめぐっている対岸の大陸全土へと渡ることもできたのである」その向こう側 (前方)に存在したというので、アトランティスは大西洋にあったということになる。

そしてアトランティス島は、リビュアとアジアを合わせたより大きい島であったといわれている。 「リビュア」とは当時の北アフリカ一帯、「アジア」は小アジアすなわち現在のトルコあたりを指している。また古代では、大西洋の周りを取り囲んで陸地が存在すると思われていたようである。

「しかし後に、異常な大地震と大洪水が度重なって起こった時、過酷な日がやって来て、

その一昼夜の間に、あなた方 [アテナイ人]の国の戦士はすべて、一挙にして大地に呑み込まれ、またアトランティス島も同じようにして、海中に没して姿を消してしまったのであった。そのためにいまもあの外洋は、渡航もできず探険もできないものになってしまっているのだ。というのは、島が陥没してできた泥土が、海面のごく間近なところまで来ていて、航海の妨げになっているからである。」(『アトランティス・ミステリー プラトンは何を伝えたかったのか』庄子 大亮著(PHP新書)からの要約。下線は筆者が追加)そうか!島が陥没してできた泥土それがアゾレス諸島なのだ、そう思い込みつつ胸躍らせてアゾレス諸島に向かった。

 

アゾレス諸島について)

日本を発つ前に現地に関する予備知識を仕入れようとアマゾンでガイドブックを探した。

地球の歩き方」は無理としても何かあるだろうと思っていたがなんと一冊のガイドブックもヒットしない。探し当てたのはアゾレスの郷土料理に触れたポルトガル料理の本と女子美大教授で美術批評家の杉田敦のエッセイ「アソーレス、孤独の群島:ポルトガルの最果てへの旅」の2冊であった。購入して読んでみたが料理本はともかくとして杉田敦のエッセイはポルトガルとアゾレスに惚れ込んだ大学教授のバックパッカー的な紀行文でそれなりに参考にはなったが旅のガイドブックの用は果たさなかった。ネットサーフィンの結果、ようやく手にした情報は次のようなものである。

 

ポルトガル西方約 1200kmの北大西洋上にある群島。ポルトガル語でアソレス諸島 Arquipélago dos Açoresという。ポルトガルに属し,1976年の憲法によって自治地方となった。群島は三つのグループに分かれ,南東群はサンミゲル,サンタマリアの各島,中部群はファイアル,ピコ,サンジョルジェ,テルセイラ,グラシオサの各島,北西群はフロレス,コルボの各島からなる。サンミゲル島の南岸にあるポンタデルガダ自治地方の行政中心地となっている。 15世紀前半にポルトガル人によって植民が開始された。火山性の島でしばしば地震に見舞われ,どの島も山が迫り周囲は断崖絶壁が多い。最高点はピコ島のポンタドピコ (2351m) 。夏の平均気温 22℃,冬は 15℃程度と温和なところから,保養地として有名。かつては捕鯨が重要な生業であったが,現在は,マグロ,ボラ,カツオ漁が中心。パイナップル,魚の缶詰,刺繍細工を輸出。またピコ島では,15世紀以降ブドウ栽培が行なわれ,島に広がるブドウ畑の景観は,2004年世界遺産文化遺産に登録された。面積 2247km2人口 24万 1592 (1991推計) (『ブリタニカ国際百科事典』)

2009年には「生物圏保護区」としてユネスコに登録。

 

そんなわけで私はほとんど予備知識を持たずして、9月になり家内を伴い次女夫婦が暮らすトロントに旅たった。三年ぶりのトロントはちょうど国際映画祭が終わったばかりであったが、空港近辺からダウンタウンまですべてのハイウエイでは車があふれかえり建築中も含め高層ビルが乱立してそのめざましい発展ぶりにはただ驚愕するばかりであった。

トロントで最大のビジネスは移民ビジネスでおそらく次はITとシネマビジネスとの地元の噂は本当のようだ。

 

サンミゲル島

トロントからアゾレス航空に乗り5時間半でポンタデルガダ空港に到着。

九つの島からなるアゾレス諸島ポルトガル自治領であり最大の島サンミゲルにキャピタルのポンタデルガダがある。

サンミゲル島ポルトガル人により1427年に発見されたといわれ東西に90km南北に8-12kmの横長の島である。島の南西海岸沿いに空港がありポンタデルガダは空港から数キロ北東に位置し市街地は海岸線に平行して横長にほぼフラットに広がる。

ポンタデルガダで買い求めたガイドブックによると人口は68,809人。

アゾレス諸島の総人口は約24万人でサンミゲル等にその半分、その半分がポンタデルガダに居住していることになる。

太陽がいっぱいの島サンミゲル。気温は夏の最高気温が23度、冬も同じく23度と現地の人はいう。島のどこでも温暖なところかというとそうでもない。土産物屋には「Four seasons One day」と書かれたTシャツやキーホルダーが並んでいる。本当かと疑ったが、一日のうちで四季ーー日本の感覚では春夏秋そして冬は初冬という程度だがーーを経験することが確かに可能なのである。

 

空港からは予約済みのレンタカーVWを走らせ15分程度でホテルに着いた。

一週間宿泊する島の南部中央にあるホテルQuinta de Santa Barbara Cases Turisticas だ。帰国後知ったがなんとExpediaの評価4.9。ところが中世の城壁のごとき石塀に囲われたホテルのゲートは閉まっており呼び鈴をいくら押せども何の応答もない。あきらめて車に戻りかけたところ門扉の脇の小さなくぐり戸から老女が出てきた。門扉は夜の10時から朝の9時まで閉鎖されている。「チェックイン時間の9時においで」彼女はそっけなくいう。

スマホを見ると確かにまだ8時前だ。そこで荷物だけでも置かせてほしいと頼みだしたらオーナーらしき中年の男が奥から出てきて門扉を開けて車を内部に誘導してくれた。とりあえず荷物だけは預けて周囲を散策、するとすぐ近くにスパーマーケットがありその前の緩やかに傾斜した道路の先には大西洋の大海原が見える。ふしぎなことに海辺の空気は湿気がほとんど感じられずさわやかだ。

スーパーに入りまず海産物と果物の品数の多さと量に圧倒される。とりあえず飲料水そして朝食のパンとサラダ、ハムなど買い求めたが安いし量も多い。おそらく日本の半分ぐらいだろうと家内はいう。ホテルに戻りの部屋に入るとテーブルに日本茶のティパックが置いてあった、驚いたが後日その理由がわかって納得した。

 

おおむね食事は日本人の舌に合う。街中のレストランで昼食10ユーロ、夕食20-30ユーロ。高級ホテルの昼食30ユーロ、夕食が40-50ユーロ程度。食事はエビやカニをはじめとする魚介類が中心だが地元産ビーフも美味しい。多品種のワインや乳製品を地場生産しており欧州域内ではアゾレスの乳製品は特に人気が高いそうだ。ワインは赤白なんでもいけるがとにかく安い。チーズはソフトゴートのスパイス入りが格別。デザートにはアイスクリームとパイナップルがお勧めでパイナップルは大きな輪切りで数枚提供される。欧州でパイナップルが採集できるのはアゾレス諸島だけらしい。

飲み物は炭酸入りのパッションフルーツジュースがポピュラーでKIMAブランドがお勧め。

 

現地の人は温厚で優しい、英語は通じるが「ボン・デイア」「オブリガード」だけでも用は足せる。私の宿泊したホテルの隣町ラゴアはサンミゲルに移住したポルトガル人最初の居住区の一つであり16世紀のカソリック教会が点在しそのまわりには小さな陶器工場が散在する。栄華を誇った繊維工場の跡がそのまま放置されている。しかしその工場跡の裏手に広がる工場労働者の宿舎と思しきアパート群は清潔で悲壮感というより秘めたる生活力を感じる。

 

島の北部にはサーファーの聖地といわれ第一回世界サーフィーン大会が開催されたリベラ・グランデがある。そこから車で20分ほど走ると島の北東部ファーナスに至る。そこには標高千メートル近い火山がありふもとは広大なお茶畑、そして高級ホテルのテラ・ノストラがありここでランチを楽しむと無料で広大な植物園と温泉が楽しめる。

お茶は200年ほど前に中国人の豪商が栽培を始めていまではサンミゲルの主要産物となっている。

 

西端のセテ・シダデスの町には直径5km水深30mというカルデラ湖がある。その湖は透き通るような青色と美しい緑色と二つの水面に分割されその境界を道路が走る。

その道路は400メートルほどの高さまで山頂を上り展望台に至る。そのふもとには広大な牧場がひろがり白黒まだらの牛がのどかに牧草を食んでいる。

 

島の中央部、標高300-1000メートル超ほどの高地にはいたるところに整備されたトレイルが20か所ほどある。アスリート向けから家族連れ向けまでセグメントされたトレイルを選んで歩きだすと枝葉色づく秋から霧雨の初冬へと移り変わる風景と気候が楽しめる。

 

400年前の首都ヴィラ・フランカ・ド・カンポにはポンタデルガダ港から出発するホエールウオッチング(クジラかイルカどちらかが必ず見ることができるとの保証付きでもし見ることができなかったら無料)の船で行くのが便利だ。

なだらかな坂道の多い古都を手作りのケイジャーダ(卵とミルクを豊富に使ったクッキー)片手にめぐり港からフェリーに乗り10分すると大きな岩をくり抜いたような不思議な海水浴場がある。そこでは大きな波の影響はなく小さな子供から老人まで安心して海水浴を楽しめる。

 

ほとんどの観光客は白人でありアジア、アラブ、アフリカ系は数人見受けただけである。大型観光船が寄港した直後を除きポンタデルガダの繁華街ですら観光地特有の雑踏は見られない。唯一の心残りはファドを聴きに行く時間がなかったことだ。しかし最大の発見は・・・

 

アゾレスとは夢見たアトランティスとは異なり時間が停止するほど心休まるリゾートであった。

東京オリンピック札幌会場は国民の責任

IOCは16日、東京五輪の暑さ対策の一環として、マラソン競歩を北海道札幌市で実施することを計画していると発表した。そして東京オリンピック組織委員会の森会長は「われわれが駄目だと言えるのか」と見栄を切った。その通りである。

民主主義日本の国民は為政者の森会長に恫喝されたのである。

なぜか、そもそも真夏の東京でオリンピックなど狂気の沙汰であることは日本人の常識である。それを目先のパンとサーカスに目がくらみ東京オリンピックを唯々諾々と黙認してきたその結果だからである。すなわち金権強欲主義に国民は民主主義を売り飛ばしたのだ。もちろんカネ欲しさに強行してきた東京都も政府も悪い。しかしこんな愚行の誘致疑惑を放置して必然性なき国立競技場の建て替えなど一過性の投資に血税を浪費され何ら異議申し立てをしなかった国民が一番悪いのではないか。森委員長のみならずIOCそして世界から民主主義精神の劣化とオモテナシとは真逆の無責任さを指摘されても仕方ないではないか。

為政者がオリンピックを真夏の東京で開催することを決めたこと自体が間違ってる。

デフレに加えて連続する災害の渦中に消費増税をするのは更に間違ってる。

最も間違ってるのオリンピックも消費増税大きなリスクがあることを一番よく知りながら異議申し立てを行い為政者にNOを突きつけなかった多くの国民である。

国会前に出向かずともスマホが身体の一部となりSNSが庶民の井戸端となった今日、

如何様にも反対の狼煙はあげられる。

他国を中傷誹謗する暇があるなら一度でいいから国民の責任とはなにかを考えてほしい。人はパンのみにて生きるにあらず。瀕死の民主主義を放置してはならない。

ようやく動いた北陸新幹線

 

台風の影響を受け例年より参加者の少ない同窓会が終了し実家に戻ったのはまだ暗くなる前だった。そして13日午後から北陸新幹線は動くだろうとのニュースを微塵も疑わず明日の帰り仕度をして床についた。ところが13日朝のTVに映ったのは水没した長野の新幹線車両基地である。北陸新幹線は富山ー東京間での復旧目処立たず、とのテロップが流れた。
急遽ウェブでJR東日本を開いてみると何と上田駅は「避難指示解除まで閉鎖」とあるではないか。これはまいった。JR高速バスも終日運休だ。上田バス、千曲バスも運休。しなの鉄道も全線ストップ。手の打ちようがない。そこで13日に東京に戻るのは諦めて14日の手立てを見つけることにした。まず上田駅に電話をしたが繋がらない。数度かけてみたが繋がらない。そうか避難してるなら駅員は駅に居るはずがないのだ。仕方ないので手当たりしだいにウェブをサーフィンしてこれはと思うところに電話しまくった。そして軽井沢からJRバスが横川まで定刻で運行していること、さらに長野県内では運休の信越線が横川から高崎まで間引き運転していることがわかった。高崎から先は高崎線が動いてる。よし明日はこれを使おう、しなの鉄道が動くことが前提だがと決めると心が軽くなった。

 

さて空いた一日をどうしようかと手を頭にやり散髪に行こうと思った。海外旅行で散髪に行く時間がなくこの際ちょうどいい機会だと高校まで行きつけの理髪店に行ってみた。ここで半世紀ぶりに理容師の新チャンと感動の出会いをしたがこの話はまたの機会に。散髪が終わり上田駅に電話をしてみたが、やはり繋がらない。お昼になったのでサイゼリヤでパスタを食べて外に目をやるいい天気だ。少し歩こうとJAでお花を仕入れて墓参に向かった。菩提寺の境内では住職の妹さんが台風で吹き荒らされた落ち葉を拾っていた。軽く会釈をすると、カナダからお見舞いのメール頂きまして誠にありがとうございます、と言う。なんのことかわからず、咄嗟にどういたしまして、と答えてすれ違った。そうか次女の住むトロントから家内が台風見舞いのメールを出したのかと気がついて振り向くと妹さんは門の陰に消えていた。寅さんの妹さくらさんのような人だ。爽やかな秋風が頬に心地よい。墓参を終えてまた上田駅に電話をしたが出ない。むかっ腹が立つのでコンビニでナナコを使いレッドブル仕入れ飲みながら上田駅まで歩いて向かった。駅に着くと数人が駅正面に張り出された通知を見ている。ウェブに記載された文章が貼ってある。「避難指示解除まで閉鎖」誰が避難指示をしてるのか?上田駅以外に閉鎖している駅がいったい何処にあるのか。上田市のほとんどが昼には避難解除になっている。アホらしい。無駄な詮索はやめて実家に戻り錆びついたコックをひねり熱いシャワーを浴びながらスマホでラジコを聞いていた。すると北陸新幹線は長野と東京の間で臨時便を出したと言う。何だと人をおちょくってるのか?
スマホでJRHPを見ると上田駅閉鎖の通知が消えていた。

 

14日は朝の3時に起きてJRHPをチェック。上田駅閉鎖の掲示がないのを確認。コンビニコーヒーを飲み5時40分過ぎに上田駅に着いた。切符販売窓口の前には20人ほどの行列ができていた。よく見ると窓口はまだ空いていない。行列の前にいる人に聞くと6時に開くそうだと言う。始発は6時24分と表示されている。私の持つ特急券は13日なので14日に変更が必要だ。だが乗車券は14日まで有効だ。この人数では始発に乗れない可能性が高い。窓口が開いたが一人だけの対応だ。時間が来たら改札を突破してやろう、下車駅で話せば済むことだと決めて列に並んでいた。すると駅員が全席自由席ですから指定席はありません、とアナウンスし出した。なにを今更、表示板に書いてあるではないか。ところが列の前の数人が切符販売機に向かい駆け出した。後ろの人が呟いた。指定席が取れんかったら並んでも仕方ない、この切符で行こうと連れを促し改札口に走り出した。自動販売機で指定席券が買えることを知らない人や列車運行表示板を見ない人がこんなにいるのだ。おかげで列は短縮して何とか特急券を14日に切り替えてホームに上がった。
駅ホームの表示板は12両編成が10両になっている。想定外の事態にコンピュータシステムなんぞと言うものは対応できないのだ。福島原発で白日のもとに晒されたように大企業の雇われ経営者も想定外の事態には対応できないのだ。列車に乗ろうとすると後ろから指定席券を私に見せて嘆く人あり下車駅で払戻し請求したらと言い放ちつつ車内に乗り込むと空席多数おまけに暖房が効いている。車内システムまでも壊れたのか。
もったいないの精神で水没車両は闇雲に廃棄などせず点検のうえ中古車仕立て自由席だけの列車で運行してみたらどうだろうか。お仕着せのおもてなしも切符点検の人手も要らぬぞとJRに言ってやろう。

関西電力の金品受領問題

関電側では恫喝されたと言う。しかし組織ぐるみで長期にわたり脅されていたという、そのことは組織のコンプライアンス問題ばかりでなく事業そのものが世間に対する疚しさなり表面化できない後ろめたい問題を抱えていたのではないか。しかも動いた金の出どころと元手はすべて税金ではないか。
この問題は一企業の醜聞ではなく日本全体を席巻する金権強欲主義の象徴ではないだろうか。金権強欲主義とは文字通り、この世界は金さえあれば思いのまま如何ようにでもできる、金が全ての価値に優先するのだからあらゆる手段を使い金を手にすることを目指すイデオロギーのことである。

このイデオロギーを助長したのが日本国家の収奪システムある。
その原因は収奪的な政治制度(権威主義、独裁的)と収奪的な経済制度(高賦課税、アベノミクスという名の中央指令型計画経済)にある。
さらに為政者の論理性を無視した自己陶酔と膨張本能が収奪制を盤石のものとしてきた。

金権強欲主義の主役は政財官界のエリートだった。ところが今回の主役は町役場の元助役である。強者が権力を盾に弱者から金をはじめとする権益を巻き上げるのが従来の収奪制度だったが今回は弱者ではないものの町役場の管理職が天下の大企業を相手に収奪を行なったようなのだ。まさに下克上であり収奪戦国時代の幕開けを告げるような出来事に思えてくる。

それはまた日本という国家の没落を加速化することになろう。

安倍改造内閣は右翼強硬派か?

安倍改造内閣の新大臣の顔ぶれを見て右翼化という論調があるが本当だろうか。

安倍首相は改造内閣について、安定と挑戦の内閣だという。

そもそも右翼とは過去の視点から現時点を解釈するものであり安定はともかく挑戦などとは水と油である。

また寛容性と多様性が右翼の本質であるが、首相を筆頭に新大臣たちには、とてもそのような様相が見てとれない。

偏狭な主観と独善で異論を封じ込め弱者を切り捨てる国民搾取の内閣である。