bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

「終戦の虚妄を排せ」


特攻に出撃する青年を「俺も後に続くから」と送り出した指揮官が昭和20年8月15日になったとたん「戦後復興に力を尽くすことが大事だ」と言い出す。他人に死を命じながら命を賭した約束を反古にした人間とこれを許容してきた国家、日本の戦後はどんな社会をつくってきたのでしょうか。
極寒を凌ぐ敗残兵が泥水啜り満蒙支那の只中で悪戦苦闘する。それを尻目に戦線から遠く離れた暖房の効いた貴賓室では高級官僚が戦費調達の策謀をめぐらす。泡沫的な戦時経済策の陰でひたすら公益の私益化に励み私腹を肥やした高級官僚は戦犯を免れやがて首相になってしまう。戦線視察などしたこともない作戦参謀は無謀な机上の作戦を強行して多くの部下を死地に追いやるも戦後なんらお咎めはない。生きて虜囚の辱めを受けずと大言壮語した高級参謀は自軍の劣勢を見るや自ら進んで捕虜となって将校待遇で生還すると遺骨収拾どころか同胞、部下の憤死を糧にして大企業の経営者になりあがる。福島原発事故に至っては当事者の無為無策たる人災を天災だと言い換えて為政者ともども失態を隠蔽してしまう。
政治と経済界の指導層が他力本願で先見性がないために生じた失われた20年という国富の損失、これを周囲環境の悪化だと責任転嫁し国民にツケを回して平然と居直る政治家、官僚、大企業経営者・・・。失政、失敗の責任者たちはみな異口同音に、過去の責任清算より復興と再建のため の将来に尽力する、それが使命だと宣わる。そしてやることはおおかた姑息な存命戦術にすぎない。このようなエリート指導層の信義なき偽善が大手を振ってまかり通る無責任社会になってしまったのは何故なのか。
 
現代日本社会の大きな転換点は満州事変から太平洋戦争までの15年戦争、いわゆる大東亜戦争でしょう。この戦争はこの国が始まってはじめて経験した国家総力戦つまり国民総動員の戦いでありながら無条件降伏、その後7年近い米軍統治下におかれたのです。
鍋釜の供出から最愛の子息までをも国家に捧げ尽くし国民が総力を尽くし切った国民の戦争でした。人類史上初めてとなった原子力爆弾を二回も投下された昭和20年8月15日、ラジオから流れる昭和天皇終戦詔書の発表で敗戦を知らされました。
すると一億火の玉となり本土決戦だと国民を叱咤激励してきた国の指導者たちは掌を返したように、昭和天皇と国家に申し訳ない。一億総懺悔せよ、と言い出しました。
大本営報道機関も巻き込み大合唱です。戦争指導者が国民に敗戦の責を押し付けるのですから国民の心境やいかばかりかです。
 
このときから今に至るまで当時の戦争指導者にはじまり現政権の為政者に至るまで、国の指導層からはなぜ戦争になったのかなぜ負けたのかいまだ国民にはまったく説明がありません。それどころか東京裁判で禊は終わったとばかり戦争指導者層はいつのまにか新生日本の為政者に成り代わり、財閥解体から再編成された平時大政翼賛産業と結託して皮肉にもかっての植民地で起きた朝鮮戦争による経済復興を神風にして、もはや戦後ではない、との宣言を発して戦争の総括責任を一方的に放棄してしまいました。
たしかに大東亜戦争の国家としての責任は国際法的には東京裁判で裁かれ戦争と敗戦の対外的ケジメはつけさせられました。しかし誰が見ても戦勝者に押し付けられたことが明白な東京裁判です。この裁判の判決をもって敗戦の総括だと納得した国民がどれだけいるでしょうか。ましてや東京裁判は戦勝連合国が敗戦日本国にくだした国家的制裁です。ところが日本という敗戦国家として日本の国民に対してあの戦争の敗因と責任に関する総括も説明も未だなされてはいません。それどころか謝罪の言葉すらありません。いうなれば民族国家としてのオトシマエ、心のケジメが未だについていない状態なのです。満州事変に始まり太平洋戦争敗戦まで15年にわたり建国史上最大の犠牲者を生じさせたあの戦争。その目的は何だったのか、戦略なき負け戦の政治的、軍事的責任の所在は何処にあったのか。世界にも稀有な自然派生的な国家である民族国家の日本では国家の形と国民の心が同一でなくては国の存立基盤が危ういものになります。
 
問題の本質は終戦という言葉で過去をリセットしてしまったことではないでしょうか。
国民総動員の戦争はとにかく負けたのです。しかも無条件降伏でした。
戦争に勝ち負けはつきもので負けたのは一歩ゆずって仕方ないとしましょう。
しかし戦争がなぜ起きたのか、そしてなぜ負けたのか、国民に対する説明は国家の責任です。この責任を果たさず戦争は終わったー終戦ーでリセットして新生日本がはじまるとしてしまったのではないでしょうか。
毎年繰り返される8月15日の終戦記念日ですが外交文書で正式に戦争が終わった日は昭和20年9月2日です。また講和条約発効まで含めると昭和27年4月28日が終戦の日ともいえます。多くの国民が昭和20年8月15日ラジオからとぎれとぎれに聞こえた昭和天皇の発表の意味さえ理解できなかったようです。勝っても負けても終戦はどちらにも訪れるものです。終戦記念日などという敗残者の自己弁護と戦争指導者の保身の虚妄は断固として排すべきです。
 
敗戦を知った国民が何の騒ぎも起こさなかったのは不思議です。茫然自失の状態だったのでしょうか、それとも国民の象徴となった天皇のお言葉は国民に論理を越え情緒で訴求したのでしょうか敗戦に激怒した国民の暴動などはなかったようです。(映画「日本のいちばん長い日」に描かれたような軍部クーデター計画はいくつかありましたが)
また突然の終戦宣言で動揺した国民が戦争の原因や敗戦の理由を問う余裕がなかったことは容易に理解できます。それからは食うや食わずの焼け跡貧民生活でこの課題は忘却の彼方へと自然消滅してしまったのでしょうか。
 
現代日本の転換点であり出発点となった大東亜戦争
いうまでもなく歴史は気まぐれな教師ではありません、いかに屈辱的であっても過去をゼロにリセットして国民の歴史は紡がれるものではありません。
あの戦争の総括と反省がないままここまできたのは国の指導層の責任でありますが、また国民の責任でもあります。この状態が70年以上も続いたというより放置してきたことが昨今の道理も信義もないエリート指導層を醸成してきたのではないかと考えます。
 
300万人を超える同胞の命を失った敗戦の総括と反省を行うことは国民の義務とも言えるのではないでしょうか。そして敗戦の総括と反省なくしては軸足のないコンパスであり為政者がいかに地球儀を俯瞰しようが国民の心のキャンパスに国家の大計なぞ描けるはずはありません。
 
戦後70有余年未だ国家ビジョンさえ描けない状況における改憲論争など枝葉末節の議論でしょう。こんな木を見て森を見ぬがごとき議論を連綿と続けた結果いまや戦略なきまま盲動するは我が国の因習に成り果てました。このような状況をもたらした要因の一つはやはりあの戦争の総括がないまま再出発した新生日本のヘソがないからでしょう。歴史を紐解くまでもなく本来であれば多大な死者を生じた戦争(内戦、国家間戦争問わず)の後には必ず国家としての総括と反省が行われ、新たな社会契約いうなれば憲法の草案となります。戦争の総括がないゆえに社会契約の議論もされぬままに押し付け憲法云々というまったく本筋でもでない枝葉の議論に振り回されている現状は自ら招いた不始末の結果だと思い ます。新生国家日本の原点である敗戦に立ち返り今こそ戦争責任の検証、総括について国民的議論を尽くすべきではないでしょうか。敗戦の総括により国家と民族に内包された失敗の本質が明徴にされるはずです。
遅きに失してはいますがいまなら戦争経験者がまだ存命されておられいくらかは検証可能な総括が可能でしょう。あの敗戦の総括にもとづく反省から学ぶ姿勢なくしては国民的総意による国家ビジョンなど構築できず未来永劫失敗の歴史を繰り返すばかりです。
 
ここに大東亜戦争の戦争責任に関するアンケート集計があります。60%近い国民は政治指導者、軍事指導者(この中に昭和天皇が含まれるのか不明です)の責任について十分に議論されていないとの見方をしています。つまり日本という民族国家として敗戦の心のケジメは未だついていないと半数以上の国民が考えていると言えるのではないでしょうか。戦後60年にあたる2005年、読売新聞が3000人に聞き取り調査したアンケートです。
質問「あなたは、先の大戦当時の政治指導者、軍事指導者の戦争責任をめぐっては、戦後、十分に議論されてきたと思いますか。そうは思いませんか。」
・十分に議論されてきた 5.6%
・ある程度議論されてきた24.6%
・あまり議論されてこなかった 43.2%
・全く議論されてこなかった 14.7%
・答えない 12.0%
 
混沌とした閉塞国家日本の国民が今こそ問うべきは負けるべく戦を何故始めたのか、その責任は何処にあったのかであります。この総括と反省が為されぬ限り70年の長きにわたり指導者エリート層が構築してきた言の葉のすり替えと責任転嫁システムに絡め捕られた国民は無責任社会というブラックホールに陥落し国家は奈落の底へと転落することでしょう。
 
8月15日は敗戦記念日としてあの戦争の総括と反省の機会にすべきだと思います。

追加) 

敗戦直後の昭和20年10月30日、わが国は戦争への道を自らの手で検証しようと国家的プロジェクトを立ち上げました。閣議決定大東亜戦争調査会という組織がつくられたのです。 

その第一回総会で幣原総裁は次のごとく挨拶をしています。
 「今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗を翳して国際政局の広漠なる野原を
 単独に進み行くのであります。けれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し
 結局、私どもと同じ旗を翳して遥か後方に踵いて来る時代が現れるでありましょう。
 我々はこの際、戦争の原因および実相を調査致しまして、その結果を記録に残し
 もって後世国民を反省せしめ納得せしむるに十分、力あるものに致したいと思うのであります。」
 

幣原喜重郎内閣において幣原自らが総裁に就き、長官には庶民金庫理事長の青木得三、各部会の部長には斎藤隆夫、飯村穣、山室宗文、馬場恒吾八木秀次を任命し、委員・職員は100名ほどという、文字通りの国家プロジェクトだった。

多数の戦犯逮捕、公文書焼却など困難をきわめるなかおこなわれた40回超の会議、インタビュー、そして資料収集。
ところが調査会メンバーに旧帝国軍人がいることをソ連が問題化した。調査結果を利用して次は勝利の戦争へと日本を誘導することを危惧したのだ。戦争調査会として目的を達するために軍人を参加させてこそ趣旨に沿うものであることは自明の理であった。

そこで占領下における連合国のメンバー米ソ中英で議論が交わされた。

最後は日本の精神的独立よりも国際的協調策を選択した米国がソ連に同調した。マッカーサーは戦争調査会の廃止を命じた。
1946年3月の第一回総会からわずか半年後に戦争調査会は調査の経緯も結論も集約することなく静かに幕を閉じたのである。