bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

自由から逃避する日本の若者

 
「革命」と「自由」...この二つの言葉は若者にもっとも相応しい言葉でした。ところがこの国の若者にとり革命が死語となってからほぼ半世紀こんどは自由が死語になりつつあります。
 
いったい自由とは何でしょうか。
 
他のものから拘束や支配を受けずにそのもののあるがままであること、それが自由の定義です。
 
しかし1足す1が0にも3にもなるのが人間社会の常でものごとの定義と本質は往々にして異なるものです。
 
自由についても同様のことが言えましょう。
 
自由の本質とは孤独、 不安、無力感です。
 
この本質と真正面から向き合うことで若者は不可逆的な人生の意味を身をもって知るものだと思います。
 
しかしながら昨今この国で一度でもホンモノの自由経験をしたという若者はSEALDSの消長にみられるようにとても孤独や不安には耐え難いましてや自由な選択の結果としてその責任を負うなどまっぴら御免だと尻尾を巻きj、周囲の若者たちも同様な擬似経験感を抱いているのではないでしょうか。
 
いまや若者の多くは肌身話さずスマホを携行してネット経由で誰かと何かと繋がっていないと生きていけないような状態にあるようにみえます。まさに自由とは真逆の常に拘束された状況に自らを置いているのです。
 
あたかもスマホは自由に振舞えぬリアル社会の窒息状況から逃れる唯一の吸気孔でありバーチャルな社会との接点の様に思えます。たぶんバーチャルな世界のみで通じる責任担保が不要な偽装の自由を享受しているのでしょうか。
 
若者はなぜ現実社会での自由追求を避けて仮想世界の似非自由に光明を見出すかの如き救いを求めるのでしょうか。
 
かって自由を求めて時には不法で暴力的な行動により自由の本質を体得してきた若者が闊歩した時代がありました。彼らを育てたのは戦後の自由な空気でした。
 
ところがその空気は一転してしまいました。
いまや主観と独善を客観的合理性と言い換える反知性主義的な政財官のエリート指導層の指揮のもと自由の空気は高圧的規制ガスに置換されて若者は瀕死の状況に追い込まれています。
 
さらに民族のDNAが生み出す情緒と空気が支配する閉鎖的社会は若者の無力感を助長しています。KYなどという言葉が流行語になる社会で育った若者たちが組織や体制への異議申し立てを行い自由を主張して行動するなど無謀な自殺行為に等しいものでしょう。
 
また現代の若者は歴史からも自由の本質を賢く学んでいます。それはかって日本の若者が自由を求めて展開した労組運動、安保闘争そして学生運動など社会改革運動の惨めな敗北の歴史です。アカシアの雨に打たれた鳩は二度と青空さして飛べなかったのです。
 
若者は先の見えぬ未来に一抹の不安を抱きつつもしばらくはパンとサーカスの日々が続くだろうと信じていたいのでしょう。
それは未来を切り開くべき自由に賭ける若者の特権からの逃避を続けているに過ぎないのではないでしょうか。
 
おそらくは自由な選択がもたらす栄光の不確実性より統治体制が強制的にもたらす不幸という危険性の方が予測可能なリスクの範囲内だとして事あるごとに自己欺瞞を呪文のごとく繰り返しているのでしょう。
 
彼らにとって自由意志の発露としての政治や社会は変革の対象どころか思索の対象ですらなく自己を取り巻くあがらいようもない自然環境なのでしょう。
泥舟とわかっていても一人で大海には飛び込めないのです。それどころか突き落とされてても泥舟に縋り付いてくるのが自由から逃避した若者の実態でしょう。
 
こんな若者が意図せざるもこの国を泥舟全体主義国家に傾斜させていくのでしょうか。