bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

擬似西洋国家の没落

1989年秋あの歓喜と自信に満ちたベルリンの夜明けはどこに行ってしまったのか。世界をリードしてきた西洋はなぜ没落しつつあるのか。公的債務は若者にツケを回し古い世代が安逸に暮す手段と化し、本来なら活気ある社会では革命を起こす力を持つエリート層はただの寄生虫でしかなくなった。いまや市民社会は企業の利害と大きな政府に挟まれ空虚な無人空間に変わり果てつつあるようだ。根本的な制度疲労市民社会の沈滞で西洋は過去500年の成果を帳消しにしつつあるようだ。いっぽう明治維新から150年を迎える日本では疑似西洋国家のメッキがはげ落ちつつある。西洋から遠く離れた東洋の涯てのわが国は西洋帝国主義の魔手を地政学的に逆用してきた。英仏の植民地化政策を米国の黒船で抑えた 徳川幕府の功績を薩長が台無しにした。その倒幕クーデターを維新と言い換え富国強兵、大東亜共栄の美名のもと政治、経済、行政と西洋の仕組みを巧みに取り入れて成長と繁栄を遂げてきた。しかし今世紀に至るや栄誉ある西欧社会の秩序を崩壊させたハイパー・グローバリズム(超・新自由主義)の奔流はわが国を巻き込むや否や制度疲労をきたしていた国家システムに怒涛のごとく襲いかかり、いまや国家そのものがシステム不全に陥入りつつある。栄枯盛衰、昭和と共に邯鄲の夢はついえ、若者は怠惰極まりなき既成権力に慷慨悲憤の気概すら失い、ひたすら現状維持を自己目的化する中高年層と結託して無欲中間層を形成してきた。老年層はあまりにも長きにわたり西洋の経済成長モデルを追い求め奇跡を呼んだ戦後インフラに執着するあまり足もとの人心荒廃を放置してきた。その果てに行きついたのが市民社会の定常状態である。つまり世の中への無関心という名の諦観から産み出された奇妙な安住感を伴う先細り共生社会である。模倣すべきモデルを失った擬似西洋国家はこれから何処に向かうのか。いま明確に言えることが一つある。それは独善と主観のもと刹那的で瑣末な弥縫策をあたかも国家戦略のごとく断行する為政者、彼らにこれから先の舵を取らせてはならないということだ。