bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

日大アメフト部騒動にみる義理の悲劇

日大アメリカンフットボール選手のレイト・タックル事件が巷の話題となっている。

昨日おこなわれた本人の記者会見をみると愚行はどうも本人の意志ではなかったようだ。

この不祥事にたいする日大の一連の対応はあの戦争末期に起きた特攻隊の悲劇を想起させる。

特攻は志願制だったといわれたがそれは当初だけのことのようだ。

特攻作戦を開始した直後、散華した若者とその戦果は華々しい美談に仕立て上げられ国民歓呼の声に特攻は迎えられた。しかし、それは特攻予備軍たる若者への無言の「義理の強制」となったのではないだろうか。彼らに対する国を挙げての好意と信頼にたいする「お返しとしての義理」さらには軍隊の仲間内では臆病者といわれたくないという自己への体面保持という「意地の義理」である。この絡み合った義理への忠義立てが若者を家族、恋人への想いを断ち切らせ、死への恐怖から無理矢理にでも自らを死地に向け奮い立たせたのではないか。そして、最後に彼らの背中を押し出したのが「俺も後からつづく」という上官の一言だった。

ところが、その上官は敗戦を迎えるや手のひらを返して特攻を断罪し民主主義者に変身し悠然と戦後を生き延びたのである。

義理は日本人の美徳のひとつである。それを逆手に取り背徳の担保としたのである。

大学運動部は上下関係が厳格で上位者は神聖にして絶対的な権限を有するというその組織構造が軍隊に近似しているという。

モリカケ騒動で腐敗が顕著になった行政機関も同様の組織構造ではないだろうか。

私は続発する官僚組織そして大企業の醜聞に「義理の理想化による非人間化」という組織のレガシーを垣間みる。

大人の世界を模倣するようにいまや大学運動部までも唾棄すべき哀れなレガシーが若者を蝕んでいるようだ。