bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

「政治の変質―理念から取引へ」

ベルリンの壁が崩壊した『歴史の終わり』からすでに四半世紀が経過しました。

しかし、政治の現状をみるにつけこれが歴史に勝利した自由民主主義のあるべき姿なのかと嘆息せざるをえません。第二次大戦後、戦勝国アメリカは自由と民主主義という政治理念を誇らかに世界へ向けて掲げてきました。敗戦後の日本も憲法の精神にもとづき平和と個人の尊厳という政治理念を確立してきました。

 

ところがトランプが大統領になるとアメリカはデイール(取引)なるご託宣のもと、自由と民主主義の伝道師から一夜にして悪辣セールスマンに変身してしまいました。

日本では3.11と福島原発の被災を放置したまま安倍首相は原発セールスマンとして世界に雄飛しアメリカに先んじて、国家の理念を「取引」に売り飛ばしてしまったのです。

国家と市民の普遍的な価値を増大させる、その手段としての「取引」であれば問題はありません。ところが日米首脳の意図は「取引」を政権維持の手段として利用されているとしか思えません。

ここに政治は「理念と公益の追及」から「取引という私益目的の手段」へと変質してしまったと言えます。

そこで、この変質の「背景」を考えてみました。(本来なら原因を究明するべきですが、木を見る前にまず森を観察することにしました)

一つはグローバリズムにあると思います。

1.経済的グローバル化によりもたらされたものは

 ・国家が市場に組み込まれてしまった。そして政治は市民よりも市場の力に耳を傾けるようになりやがて政治が市場に支配されるようになった。

・国際化で恩恵を受けた市民がいる一方で不遇に陥る市民がより多く生じ市民の経済格差が拡大をつづけている。

2.社会的グローバル化によりもたらされたものは

インターネットの普及によりヴァーチャルな世界市民が誕生した。ボーダレスなネットワークは世界の出来事をリアルタイムの映像で世界市民に提供する。

そして市民が知ったことは、多数派は市民の一般意思を必ずしも代表するものではないこと、つまり民主主義は普遍的な価値ではないことだった。

3.ヒトの視点が欠けたグローバル化によりもたらされたものは

モノとカネにフォーカスされた国際化の大きな欠陥は三点セットの最も重要な要素であるヒトを欠いていた。モノとカネで再構成されたグローバルな社会秩序、それは民族や宗教による迫害と貧困からの難民を大量生産しはじめた。

このような状況から、国際化することが恩恵をもたらすという政治公約への期待が裏切られ、かつ皮肉にも経済的不平等は経済機構の産物ではなく自ら意図した政治的選択の結果であることを市民は知ったのです。人の視座を欠いた政治権力は経済的優越性に屈服してしまったのです。

グローバル化された世界の普遍的な価値とは、民主主義などという空虚な理念ではなく、カネだと認識せしめられた市民は非人間的な金主主義への傾斜を強めることになりました。

わたしが「この国は国家社会主義に向かうのか」で書いたように、かってのマルクス・レーニン主義流の寡頭支配は、ロシアではなく日米欧の新自由主義者が継承したのです。

 

「背景」の二つ目は「知性」に対する「知能」の優勢化です。

根源的な問題は教育にあります。

初等・中等教育で蓄積した知識を基礎に高等教育が請け負うべき責務が機能していません。高等教育が知性や創造性を発展させるためのものではなくなり、体制順応や既成概念の尊重などを助長するだけの知能教育になってしまっていることです。

その結果もっとも教育を受けた人がどんどん知性的でなくなってきていることです。

知能とは、かなり狭い直接的に予想可能な範囲に適用される頭脳の優秀さで諸動物がもつひとつの特徴です。いっぽう知性は頭脳の批判的、創造的側面であり広い範囲でものごとを熟慮して理論化する人間のみの特質であり人としての尊厳でもあるといえます。したがい「知能」は本質的に「私」との相性がよく「知性」は「公」になじみやすいものといえます。

知能はIQテストなどである範囲までの数量化や可視化が可能です。ヒトは見える効果には弱いものです。たとえ短絡的であっても要領のよさを発揮する知能はムラ的な組織内で評価されてきました。さらに目に見える成果を短期的に達成することが要求される政治において、知性に対する知能の絶対的な優位化をもたらしています。なぜなら予想可能で狭い範囲の目的達成の政治「取引」に普遍性や論理的な知性は阻害要因でしかないからです。その場かぎりでいいから要領のいい使い捨て知能が最適なのです。

ここまでみてくると「取引と知能」、「理念と知性」には緊密な相関関係があるといえます。

「取引」とはアップサイドを自分のものにしてダウンサイドを他人に押し付けることです。そこには長期的な展望や普遍性など不要です。知能と「私」が主導する世界といえます。

「理念」とは自由や平和という普遍的価値のために他人のダウンサイドをあえて背負い込む、または共有するものです。それは知性と「公」の世界なのです。

政治の変質によって国家は政治的意思を喪失してしまいました。その国家では市民のエネルギーは「私」をいかに享受するかに向けられています。

公益を図り他人と共有する政治意識は置き去りにされ、もはや自由民主主義は形骸化して空虚なテーゼにしか過ぎなくなってしまったようです。