bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

12月8日の神話

いまから77年前の1941年12月8日(現地時間12月7日)大日本帝国軍は真珠湾に奇襲攻撃をおこない太平洋戦争の幕を切って落としました。

この奇襲攻撃を巡ってはローズベルト大統領が当初から知っていたとするアメリカの陰謀説が広く日本国内に流布しています。

そこで陰謀が本当にあったのかと疑問を持ち関連する書籍をいくつか読んできました。

そのうちでも興味ある二冊の内容をご紹介させていただきます。

 

ところで昨年NHKが全国の18歳と19歳、1,200人を対象に行った世論調査によりますと、日本が終戦を迎えた日について、14%が「知らない」と答えました。

12月8日についても同様な認知度でしょう。

 

「歴史とは民族の愛おしい誇りと美しい誤解が織りなす神話ではないでしょうか。

 神話であればこそ後世に語り継いでいくことが必要ではないでしょうか」

 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

  • 『「開戦神話」 対米通告を遅らせたのは誰か』

著者は開戦当時小学5年生の井口武夫、外交官。父君は開戦当時の在米日本大使館ワシントン勤務の外交官でした。

フランクリン・ルーズベルト大統領(FDR)は真珠湾攻撃を事前に知っていたが何の行動も起こさず日本を悪者にして日米戦争に引きずり込んだという陰謀説があります。

この本ではFDR陰謀説に懐疑的な背景と開戦通告を遅延した日本の問題が指摘されています。 

FDRの日本挑発については、「アメリカ政府は日米開戦直前までドイツがヨーロッパを席巻しないかと憂慮していた。日本への危機は二次的な関心にすぎなかった。だからこそ経済制裁で日本を屈服させられると考え日本の不意打ちにあった」と記しています。 

ハル・ノート」については次のような説明がされています。

「日本の最終提案には、アメリカが全面的に受諾すべき最終期限が付せられており、それ以上交渉をつづけない明確な意思表示をしている点では、交渉期限を付していないハル・ノートよりも国際法上の最後通牒の性格に近い外交文書であった」

「しかし、ハル・ノートが出された結果、禁輸緩和の最終交渉に入れないまま戦争に突入したので、日本軍部の期限付きで独断的に交渉を打ち切ろうとした態度の是非が、戦後の日米交渉史の批判的検証から外され、ハル・ノートによる対日戦の意図的な挑発という日本軍部に都合の良い通説が定着した」

 

またFDR陰謀説の背景として以下の二点を挙げています。

アメリカ学会の修正主義史観

 英国を助けて独国を破るため苦肉の策としてFDRが日本に先制攻撃をさせ対独参戦の大義名分を得るため。

・英中陰謀説

 ヒトラーに対して敗北寸前のチャーチルと国民党内に対日宥和派が出現し狼狽する蒋介石が語らってルーズベルトを巻き込んで対日独戦に持ち込んだ。

 

いっぽう日本側には対米通告が遅れた問題があります。 

・外務省から在米大使館へ開戦日の朝に到着した電報の謎。

対米通告の発信が大本営、政府連絡会議で「12月7日午前4時」に完了されるべく決定があったにもかかわらず外務省からの発信は12月7日午後4時と12時間も遅れた理由が解明されない。

・親電押収事件。

 FDRが開戦直前、昭和天皇に戦争回避を訴えた親電が長時間陸軍に押収された。

 親電の解読工作こそが対米通告の発信を保留させられた問題に絡んでいる。

 12月7日正午に中央電信局に入った親電は参謀本部通信課の戸村盛雄少佐により10時 間差し押さえられた。親電が、日本を悪者として世界に宣伝して袋叩きにする謀略工作だと考え参謀本部作戦課の瀬島龍三少佐と協議した独断的な行動だった。

 

著者はアメリカのノンフィクション作家、クレイグ・ネルソン。

真珠湾」をめぐる日米の諸相を網羅しこれぞ真珠湾大全と謳う800ページの大著です。

この本では想定外を想定する指摘がいくつかありますのでご紹介します。

 

・ロンドン・ディリー・テレグラフ紙の海軍特派員、ヘクター・C・バイウオーターが1925年「The Great Pacific War」という仮想戦記を上梓しました。

これをニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューが第一面で取り上げ同紙は「もし太平洋戦争が起きたら」という見出しを掲げた。

この小説には真珠湾アメリカ艦隊が日本によって奇襲攻撃される場面が描かれており、そのさい日本側はグアム島フィリピン諸島のリンガエン湾とラモン湾同時攻撃するとしている。

なんと同書が出版された時期に、山本五十六が海軍から派遣されて駐米日本大使館に勤務していたのです。

 

・1938年1月10日、エドワード・マーカム大佐は米陸軍省のためハワイの軍事力に関する調査を行い次のような結論に達しました。

日本との戦争はある日突然、なんの前触れもなく起きるだろう。歴史の最も明白かつ最も重要な教訓は・・・(中略)その統治形態ゆえに日本の陸海軍は危機が迫った場合、文民統制から独立した形で陸海軍関連の作戦を開始・遂行できる・・・(中略)もし仮に合衆国と日本国とのあいだで敵意が高まった場合、ハワイ諸島が真っ先にその行動の対象となることに疑問の余地はなく、日本はこれら諸島に対する強力かつ決然たる攻撃を、その利用可能な人力および資源をもって実施するであろう。

 

・つぎにあげるのは日本でもよく知られている話です。

1941年1月半ばペルーの駐日大使、リカルド・リヴィエラ・シュライバーはアメリカ大使館を訪れて次のように述べた。「合衆国との間で問題が生じた場合、日本の軍部はそのもてる軍事的装備をすべて用いて、真珠湾に大規模な奇襲攻撃を敢行すべく計画中と、数多くの情報源から聞いたので一応伝えておく」

グル―駐日大使は1月27日、意外な新事実として国務省に伝達した。

 

著者曰く、「後世の人間はこういう話を聞くと、どうしてハワイの軍幹部は12月7日以前にいかなる脅威も感じなかったのかと不思議な気分になる。まさにこれこそが真珠湾以前におけるアメリカの一般的空気だった。」

 

真珠湾をめぐる最大のミステリーが運命の日直前の12月5日に起きています。

 南雲艦隊が12月5日に外国船と遭遇した。

それはソ連トロール漁船「ウリツキ―号」でオレゴン州ポートランドウラジオストクの間を行き来していた。

南雲はなぜこの漁船を撃沈しなかったのか?

同漁船は南雲艦隊を見たことをどこかに報告していたのか?

それならなぜモスクワはワシントンに告げなかったのか?

 

・そして対日戦の大勢が決したアメリカでは真珠湾の総括をおこなうべく10人の連邦議   員(民主党6人、共和党4)からなる上下両院合同真珠湾攻撃調査委員会を立ち上げま   した。

 1944年7月20日から10月20日にかけて151人の目撃者から証言を聴取した9,754ページの調書、証拠物件469件からなる報告書をまとめて1946年7月16日、FDR陰謀説に対しては次のように最終報告をしています。

 

ローズヴェルト大統領、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長、ノックス海軍長官が「米国を攻撃させようとして日本を騙し、挑発し、扇動し、甘言を弄し、強要した」証拠はない。