bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

アゾレス紀行

                           

「アソーレスって知ってる」と家内から聞かれたのはこの春だった。

アソーレス?一瞬、何のことかわからず家内に聞くと、カナダに在住する次女の家族が遅れた夏季休暇を過ごす場所らしい。そのメールを見てみるとアソーレスとはポルトガル語アゾレス諸島のことだとわかった。9月にそこに旅行するので一緒に行かないかとの誘いであった。

アゾレスか、とつぶやくと怪訝な顔で家内が知っているのか聞いてきた、私は迷うことなく謎の大陸アトランティス、その残跡といわれ大西洋の真ん中にあるんだと答えていた。 

一万二千年前、一夜にして海中に埋没したといわれる地上の楽園、さんさんと降り注ぐ陽光のもと葡萄、あらゆる香料や主食の穀物が採れ豊かな川や湖そして家畜や野生動物に豊富な餌を提供する草原、また豊かな森林と地下資源に恵まれたアトランティス。 

はるか昔、少年雑誌で目にしたのはアトランティスの楽園が一夜にして海中に埋没するという極彩色の地獄絵図だった。その夜は布団に入ってもなぜか興奮して眠れなかった。それからというもの好奇心に駆られ私はアトランティスに関する書物を漁ってはむさぼり読んだ。

友人からも親からもからかわれながら、ひたすら空想の世界で幻のアトランティスを構築しその再現を夢想していた。その当時からアトランティス埋没の跡といわれていたのがアゾレス諸島であった。

小学校卒業を控えたある日、物知りの友人が教えてくれた。海洋調査と科学技術の発展によってアトランティスそのものの存在が科学的に否定されたのだという。そして中学生になりやがて私の脳裏からアトランティスは消え去っていた。 

次女のメールから私は少年時代の夢を瞬時によみがえらせた。科学的な実証論はともかく少年時代の神話をいまこそアゾレス諸島に追ってみようと思った。 

 

プラトン

そもそもアトランティスについて伝えたのは哲学者のプラトンだ 。プラトンは 「対話篇」と呼ばれる著作群でアトランティスに触れている。アトランティスについて語られているのは、プラトン晩年 (BC350年代 )の対話篇、 『ティマイオス』と 『クリティアス』においてである。

その情報源はアテナイのソロンに遡るといわれる。ソロンは、BC594年にアテナイで民主的改革をおこなった人物で古代ギリシアの「七賢人」の一人でもある。このソロンがエジプトへ旅した際、ナイル川河口の西にあった都市サイスの神官から、アトランティスの物語を聞いたというのである。

そしてクリティアスの曾祖父ドロピデスがソロンからその物語を聞き、クリティアスの祖父に伝え、クリティアスは幼い頃に何度もその話を聞いたのだと述べる。クリティアスはあとで、ソロンが書きとめた記録が手元に残されているのだともいっている。エジプトの神官によると、アトランティスが存在したのは、ソロンの時代から九千年以上前で、ソロンがエジプトを訪れたのはBC593頃と伝える記録がある。つまり、いまから一万二千年ほど前ということになる。人類史の区分ではまだ石器時代のその頃であり、科学的には国家の存在は確認されていない。

アトランティスはどこにあったのか)

クレタ島西インド諸島がその残蹟だという説があるがいずれも私の少年時代には否定されている。

なによりもエジプトの神官がソロンに向けて語っている 。 「… あの大洋 [大西洋]には──あなた方の話によると 、あなた方のほうでは 『ヘラクレスの柱』とこれを呼んでいるらしいが──その入口 (ジブラルタル海峡)の前方に、一つの島があったのだ。そして、この島はリビュアとアジアを合わせたよりもなお大きなものであったが、そこからその他の島々へと当時の航海者は渡ることができたのであり、またその島々から、あの正真正銘の大洋をめぐっている対岸の大陸全土へと渡ることもできたのである」その向こう側 (前方)に存在したというので、アトランティスは大西洋にあったということになる。

そしてアトランティス島は、リビュアとアジアを合わせたより大きい島であったといわれている。 「リビュア」とは当時の北アフリカ一帯、「アジア」は小アジアすなわち現在のトルコあたりを指している。また古代では、大西洋の周りを取り囲んで陸地が存在すると思われていたようである。

「しかし後に、異常な大地震と大洪水が度重なって起こった時、過酷な日がやって来て、

その一昼夜の間に、あなた方 [アテナイ人]の国の戦士はすべて、一挙にして大地に呑み込まれ、またアトランティス島も同じようにして、海中に没して姿を消してしまったのであった。そのためにいまもあの外洋は、渡航もできず探険もできないものになってしまっているのだ。というのは、島が陥没してできた泥土が、海面のごく間近なところまで来ていて、航海の妨げになっているからである。」(『アトランティス・ミステリー プラトンは何を伝えたかったのか』庄子 大亮著(PHP新書)からの要約。下線は筆者が追加)そうか!島が陥没してできた泥土それがアゾレス諸島なのだ、そう思い込みつつ胸躍らせてアゾレス諸島に向かった。

 

アゾレス諸島について)

日本を発つ前に現地に関する予備知識を仕入れようとアマゾンでガイドブックを探した。

地球の歩き方」は無理としても何かあるだろうと思っていたがなんと一冊のガイドブックもヒットしない。探し当てたのはアゾレスの郷土料理に触れたポルトガル料理の本と女子美大教授で美術批評家の杉田敦のエッセイ「アソーレス、孤独の群島:ポルトガルの最果てへの旅」の2冊であった。購入して読んでみたが料理本はともかくとして杉田敦のエッセイはポルトガルとアゾレスに惚れ込んだ大学教授のバックパッカー的な紀行文でそれなりに参考にはなったが旅のガイドブックの用は果たさなかった。ネットサーフィンの結果、ようやく手にした情報は次のようなものである。

 

ポルトガル西方約 1200kmの北大西洋上にある群島。ポルトガル語でアソレス諸島 Arquipélago dos Açoresという。ポルトガルに属し,1976年の憲法によって自治地方となった。群島は三つのグループに分かれ,南東群はサンミゲル,サンタマリアの各島,中部群はファイアル,ピコ,サンジョルジェ,テルセイラ,グラシオサの各島,北西群はフロレス,コルボの各島からなる。サンミゲル島の南岸にあるポンタデルガダ自治地方の行政中心地となっている。 15世紀前半にポルトガル人によって植民が開始された。火山性の島でしばしば地震に見舞われ,どの島も山が迫り周囲は断崖絶壁が多い。最高点はピコ島のポンタドピコ (2351m) 。夏の平均気温 22℃,冬は 15℃程度と温和なところから,保養地として有名。かつては捕鯨が重要な生業であったが,現在は,マグロ,ボラ,カツオ漁が中心。パイナップル,魚の缶詰,刺繍細工を輸出。またピコ島では,15世紀以降ブドウ栽培が行なわれ,島に広がるブドウ畑の景観は,2004年世界遺産文化遺産に登録された。面積 2247km2人口 24万 1592 (1991推計) (『ブリタニカ国際百科事典』)

2009年には「生物圏保護区」としてユネスコに登録。

 

そんなわけで私はほとんど予備知識を持たずして、9月になり家内を伴い次女夫婦が暮らすトロントに旅たった。三年ぶりのトロントはちょうど国際映画祭が終わったばかりであったが、空港近辺からダウンタウンまですべてのハイウエイでは車があふれかえり建築中も含め高層ビルが乱立してそのめざましい発展ぶりにはただ驚愕するばかりであった。

トロントで最大のビジネスは移民ビジネスでおそらく次はITとシネマビジネスとの地元の噂は本当のようだ。

 

サンミゲル島

トロントからアゾレス航空に乗り5時間半でポンタデルガダ空港に到着。

九つの島からなるアゾレス諸島ポルトガル自治領であり最大の島サンミゲルにキャピタルのポンタデルガダがある。

サンミゲル島ポルトガル人により1427年に発見されたといわれ東西に90km南北に8-12kmの横長の島である。島の南西海岸沿いに空港がありポンタデルガダは空港から数キロ北東に位置し市街地は海岸線に平行して横長にほぼフラットに広がる。

ポンタデルガダで買い求めたガイドブックによると人口は68,809人。

アゾレス諸島の総人口は約24万人でサンミゲル等にその半分、その半分がポンタデルガダに居住していることになる。

太陽がいっぱいの島サンミゲル。気温は夏の最高気温が23度、冬も同じく23度と現地の人はいう。島のどこでも温暖なところかというとそうでもない。土産物屋には「Four seasons One day」と書かれたTシャツやキーホルダーが並んでいる。本当かと疑ったが、一日のうちで四季ーー日本の感覚では春夏秋そして冬は初冬という程度だがーーを経験することが確かに可能なのである。

 

空港からは予約済みのレンタカーVWを走らせ15分程度でホテルに着いた。

一週間宿泊する島の南部中央にあるホテルQuinta de Santa Barbara Cases Turisticas だ。帰国後知ったがなんとExpediaの評価4.9。ところが中世の城壁のごとき石塀に囲われたホテルのゲートは閉まっており呼び鈴をいくら押せども何の応答もない。あきらめて車に戻りかけたところ門扉の脇の小さなくぐり戸から老女が出てきた。門扉は夜の10時から朝の9時まで閉鎖されている。「チェックイン時間の9時においで」彼女はそっけなくいう。

スマホを見ると確かにまだ8時前だ。そこで荷物だけでも置かせてほしいと頼みだしたらオーナーらしき中年の男が奥から出てきて門扉を開けて車を内部に誘導してくれた。とりあえず荷物だけは預けて周囲を散策、するとすぐ近くにスパーマーケットがありその前の緩やかに傾斜した道路の先には大西洋の大海原が見える。ふしぎなことに海辺の空気は湿気がほとんど感じられずさわやかだ。

スーパーに入りまず海産物と果物の品数の多さと量に圧倒される。とりあえず飲料水そして朝食のパンとサラダ、ハムなど買い求めたが安いし量も多い。おそらく日本の半分ぐらいだろうと家内はいう。ホテルに戻りの部屋に入るとテーブルに日本茶のティパックが置いてあった、驚いたが後日その理由がわかって納得した。

 

おおむね食事は日本人の舌に合う。街中のレストランで昼食10ユーロ、夕食20-30ユーロ。高級ホテルの昼食30ユーロ、夕食が40-50ユーロ程度。食事はエビやカニをはじめとする魚介類が中心だが地元産ビーフも美味しい。多品種のワインや乳製品を地場生産しており欧州域内ではアゾレスの乳製品は特に人気が高いそうだ。ワインは赤白なんでもいけるがとにかく安い。チーズはソフトゴートのスパイス入りが格別。デザートにはアイスクリームとパイナップルがお勧めでパイナップルは大きな輪切りで数枚提供される。欧州でパイナップルが採集できるのはアゾレス諸島だけらしい。

飲み物は炭酸入りのパッションフルーツジュースがポピュラーでKIMAブランドがお勧め。

 

現地の人は温厚で優しい、英語は通じるが「ボン・デイア」「オブリガード」だけでも用は足せる。私の宿泊したホテルの隣町ラゴアはサンミゲルに移住したポルトガル人最初の居住区の一つであり16世紀のカソリック教会が点在しそのまわりには小さな陶器工場が散在する。栄華を誇った繊維工場の跡がそのまま放置されている。しかしその工場跡の裏手に広がる工場労働者の宿舎と思しきアパート群は清潔で悲壮感というより秘めたる生活力を感じる。

 

島の北部にはサーファーの聖地といわれ第一回世界サーフィーン大会が開催されたリベラ・グランデがある。そこから車で20分ほど走ると島の北東部ファーナスに至る。そこには標高千メートル近い火山がありふもとは広大なお茶畑、そして高級ホテルのテラ・ノストラがありここでランチを楽しむと無料で広大な植物園と温泉が楽しめる。

お茶は200年ほど前に中国人の豪商が栽培を始めていまではサンミゲルの主要産物となっている。

 

西端のセテ・シダデスの町には直径5km水深30mというカルデラ湖がある。その湖は透き通るような青色と美しい緑色と二つの水面に分割されその境界を道路が走る。

その道路は400メートルほどの高さまで山頂を上り展望台に至る。そのふもとには広大な牧場がひろがり白黒まだらの牛がのどかに牧草を食んでいる。

 

島の中央部、標高300-1000メートル超ほどの高地にはいたるところに整備されたトレイルが20か所ほどある。アスリート向けから家族連れ向けまでセグメントされたトレイルを選んで歩きだすと枝葉色づく秋から霧雨の初冬へと移り変わる風景と気候が楽しめる。

 

400年前の首都ヴィラ・フランカ・ド・カンポにはポンタデルガダ港から出発するホエールウオッチング(クジラかイルカどちらかが必ず見ることができるとの保証付きでもし見ることができなかったら無料)の船で行くのが便利だ。

なだらかな坂道の多い古都を手作りのケイジャーダ(卵とミルクを豊富に使ったクッキー)片手にめぐり港からフェリーに乗り10分すると大きな岩をくり抜いたような不思議な海水浴場がある。そこでは大きな波の影響はなく小さな子供から老人まで安心して海水浴を楽しめる。

 

ほとんどの観光客は白人でありアジア、アラブ、アフリカ系は数人見受けただけである。大型観光船が寄港した直後を除きポンタデルガダの繁華街ですら観光地特有の雑踏は見られない。唯一の心残りはファドを聴きに行く時間がなかったことだ。しかし最大の発見は・・・

 

アゾレスとは夢見たアトランティスとは異なり時間が停止するほど心休まるリゾートであった。