今朝の朝日新聞によると、
「政府は10日、首相主催の『桜を見る会』に出席していたとされ問題になった
『反社会的勢力』について、『あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難』
この記事でまず気になったのは「限定的かつ統一的に定義」という文章です。
そもそも定義とは、概念や用語の意味を正確に「限定」し「区別」することをいうものでしょう。
区別とは、複数にわたる事象間の差異を認識して仕分けることですから、その結果として区別された事象は自ずと統一的な事物(性質や品質など)となるはずです。
この解釈が正しければ、閣議決定された答弁書は「定義」という言語の同義反復をしたうえでさらに言語の定義を放棄しているのです。
釈明のための言い訳が馬脚を現したともとられる呆れた答弁書だと思います。
ところで、国家の統治者である政府が言語の定義をできないということは大変な問題だと思います。
なぜなら言語は社会のもっとも基底的な制度だからです。
言語は社会の中で私たちが生きていくために不可欠なコミュニケーションの重要かつ不可欠な基盤です。
民主主義の概念も法治国家の制度も言語によって(言語を基底として)創造されたものです。
言語の定義が不明確であれば為政者や権力者の恣意的な解釈がまかり通ることになりかねません。
その言語の定義ができないという政府に私たちの社会や国政の運営を任して良いものでしょうか。
また言語定義を放棄した政府に国家統治の正統性はありうるのでしょうか。