bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

甘えの構造

国民に対する政府の欺瞞を欺くため大日本帝国が掲げた大義名分とは「天皇」であった。

錦の御旗「天皇」のもとあらゆる不条理に耐え時には生命さえ捧げることが大義に殉ずる帝国国民とされた。国民は「天皇」へ没人化して、己の心情に逆らう欺瞞を取り繕うしか術はなかった。

 

天皇」が国家の象徴となった民主主義国家の日本だが、いまや「天皇」に代わり欺瞞の大義名分となったのは「民主主義」のようだ。

国家ビジョンなき機会主義に終始し少数集団に対する利益優先や独断的政策の強行、その説明責任を回避する強権的政府、これがいまの日本政府の実態と思える。

専制的ともいえる政府の横暴を支えている大きな要因は多数決絶対主義であろう。

そもそも民主主義とは専制政治に対する人民主権の政治手法の一つである。

その運営手段の一つが議会制民主主義制度であり、議会代議員の選出方法の選択肢が多数決という(民意の質ではなく量)ことである。

ところが、国民投票で最多数を獲得した政党は国民からの全面的な委任を受けたという国家の暗黙知ともいうべき解釈のもと民主主義政治という名の専制政治(国家全体主義)が動いているのだ。

「民主主義」を錦の御旗とする国民にとり、政府に対する異議申し立ての手段は選挙権に基づく投票しかない、そして議会代議員選挙の投票が終われば権利と義務を遂行したと民主主義的な幸福感に包まれた自己満足で多くの国民が政治参画を終える。

「投票しても世の中は変わらない」という国民は民主主義政治が内包する多数決絶対主義の欺瞞に気が付き、民主主義に愛想をつかしているように思える。されど打つ手はないことも承知しているのである。これでは真剣な選挙民の敗北感と政治への諦観を助長するばかりである。

政府の動向には不平や意義があっても民主主義的手段の選挙結果として容認せざるを得ない。政府は、こんなことはすべてお見通しである。

これは政府と国民による暗黙の狂言芝居ではないだろうか。

政府も国民もいまや「民主主義」に甘えた自己欺瞞に陥っているのではないだろうか。

 

日本人の思考法の特徴を研究した丸山真男は、世界の諸神話にある宇宙創成論の研究から三つの基本動詞があるという。それは「つくる」「うむ」「なる」であり日本神話は「なる」であるとしている。

考えてみると「天皇」も「民主主義」も国民みずから発案し作った象徴や制度ではない。

天皇制や民主主義制度の導入に関する歴史的な議論は多々あれども、このことは否定できない事実といえよう。

いっぽう日本国民の特性として挙げられるのは、他人への思いやり、義理人情、律儀などである。

総論的な表現をすると、場と空気が支配する国民性、といえよう。つまり心情的な国民であり、その心底には「なる」国民国家として同胞の「甘えの構造」があると思える。

成行きに任せていれば、何とかなるだろうということである。

何とかなるとは思えない。

なぜならば問題の本質を理解しているとは思えないからである。

「政治運営手法としての民主主義」と「理念としての民主主義」、この混同が問題の本質だからである。