bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

反日という自己撞着


最近は街の本屋さんがめっきり少なくなりました。
大型書店やアマゾンの利便性と品揃えが街の本屋さん減少の大きな要因かと思います。かって文化の香りを漂わせた街の風景が変化し長閑かな戦後の庶民の雰囲気が消滅していく寂しさを感じます。

ここ数年、お店で目を引くのは店頭に平積みされた、
いわゆる「日本凄い」と「嫌中・韓」本の類いです。
平積みされた本を数冊ほど手にとり拾い読みをしてみました。そこで流れる通奏低音は「自虐史観」と「反日」という二つの言葉が聞こえてきました。
この二つの言葉は根源が同一で「日本は万古不易にして不正なき無謬の国である。したがいこの国を批判することは日本人として許しがたいことである」といった発想からきているように思えました。 

私は同じ日本人を反日と呼ぶことに対して撞着の矛盾という論理性よりも、まず感覚的な違和感を覚えました。

なぜならば、私たちは敗戦後の教室で「戦争により他国に被害を与えたことを反省し二度と戦争は起こさないと誓いました。その誓いが憲法の精神です」と教わり日本人として育ってきました。
この教育に依拠する非戦の理念から歴史を回顧して意見を表明する。それに対して自虐史観と一方的に断じて反日やら非国民というのであれば、戦後の日本人教育そのものが間違っていたということなのでしょうか。

この論議はさておき、反日自虐史観のパッケージ論調が最近とみに顕著になったように感じます。
さらに昨今の日本政府は、この風潮を抑えるどころか国民の声とばかり安倍首相などは聴衆の日本国民を前にして「こんな人たち」と演説し、政策批判を封じエセ右翼の歓心を買うありさまです。政権与党はポピュリズム誘導へと政治をエスカレートさせているのかとさえ思います。

こんな風潮のせいか、いつのまにか日本社会に「日本凄い」という病気が蔓延してしまった気がします。

当初、私はこの自己賛美について次のように考えていました。
戦前の日本が絶頂期を迎えた日清戦争以降、常に格下の国と見くびっていた中国や韓国が地道な精進を重ねて実力を蓄えてきたのに対し、日本は戦後の高度経済成長の遺産を食いつぶしバブルの夢から抜け出せず、ゆでガエル状態のまますでに幾星霜、いまや両国との国力格差は開くばかりです。
そこで国民の自信を取り戻すためには一時的な精神安定剤として、昔日の夢に浸り手放しの自己賛美もしばし悪くはないのかもしれない。

しかし、いつの間にかそれが麻薬となり依存症となり、多くの日本人があらゆる不都合から目を逸らすようになってしまったのではないかと思います。
自分の凄さを証明するため、近隣諸国の粗探しに熱を上げ、罵詈雑言を浴びせ侮蔑することで傷ついた自尊心と劣等感を癒して優越感に浸っているのではないでしょうか。
それゆえに、健全な批判精神を自虐と見なしたり、他国の文化や技術さえも日本のパクリだなどと独善的に見なしてしまうように思います。

私は、祖国に愛着を持つ「自尊」の態度は尊重すべきものだと思います。
しかし他国の文化、歴史や主張を尊重しなければ、自尊とはたんなる主観による思い上がりに過ぎず、過去の失敗の歴史を再現することにもなりかねないでしょう。
これは人間においても同じことです。
自尊をしたいなら、まず「他尊」をするのが筋だと考えます。


また国家ビジョンなき為政者に率直な疑問を呈して何が反日なのでしょうか。対外政策を批判することが何故に非国民と呼ばれるのでしょうか。

かって江戸の町人たちは首を賭けて権勢を誇る将軍や役人すら嘲笑の対象にしました。
「 役人の 子はにぎにぎを 能く覚え」
こんな批判と揶揄が粋というものだと町人は拍手喝采で迎えました。


私は日本文化とは、理論的に体系化された西欧文化とは異なる複雑系の文化だと思います。
同じ言葉が幾つかの意味を持ったり、一つの事象を表現するのに心象風景に沿って異なる言葉を用います。たとえば「自虐」とは「謙虚」という言葉と表裏一体のものですが、TPOにより用法が異なります。しかしながら日本文化の機微がわからない人には的確な言葉の選択が難しいのだと思います。

古来より「秘せずば花なるべからず」と言い伝えられ、謙虚さは日本人の美徳として誇るべき日本の文化です。
日本人は人にものを送るときに「つまらぬものですが」とか身内を「愚息」と言ったりします。
これらの表現をもって自虐であるとは、日本人であれば言わないことでしょう。
であれば過去の恥ずべき自国の言動に対してこれを批判し「愚国」と言ってもなんら反日などと誹られる筋合いはないでありませんか。

衆をたのみ勢いに乗じた薄っぺらな反日自虐史観という画一的なレッテル貼り、これを日本の文化では野暮というのではないでしょうか。

日本文化は、高度な諷刺や諧謔には分からないものには分かりはしないのだという拒絶を含有していると思います。

同じ国民の謙虚な反省や批判に対して、その意気や粋が分からぬ社会の何が凄いのでしょうか、誰が美しい日本だと言えるのでしょう。