bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

新型コロナワクチン接種の予約に思う日本の矛盾。

私はワクチン接種のクーポンと予約通知を一週間前に受け取りました。申し込みが今日の朝9時からでしたので、その時間に指定のウェブサイトをクリックして数分で2回分の接種予約が完了しました。しかも会場は歩いて数分の所に申し込んでOKです。
そのあとマイページが立ち上がるまでに少し時間がかかりましたが、マイページにパスワードを入れて予約済みの確認ができました。
近くに住む友人や知人も、みなさんスムーズに予約できたそうです。

私は15年前に住民票を熱海に移したので、これは熱海市でのお話です。
ところで、熱海市の別荘所有者には別荘税がかかります。
このため熱海市に居住していなくても住民票を熱海市に移している人が多数おります。
ひょっとして居住者に近い人数になるかもしれません。
熱海の居住者も別荘族も高齢者は多数を占めます。
それにもかかわらずこれほど容易に予約できるのは何故かと友人とメールで意見交換したところ、中央権力より住民優先の県知事の姿勢、熱海はお医者さんが多い、市職員が優秀というところです。つまり、ワクチン数量の獲得力、お医者さんが豊富、予約サイトの回線容量の確保と申込手引き書の簡明さということに落ち着きました。

しかしながら、果たしてこれで良いのかと私は疑問に思うことがあります。

いつもより早く目を覚まし、接種予約のためPCに電源を入れました。PCが立ち上がるまで何気なくPCの奥にある書棚に目をやると古びた背表紙が目に止まりました。「きけわだつみのこえ」です。
ハットしました。老人が先を競って同胞を出し抜くことにこれは値するものなのか、こんなことでいいのだろうか。
かって有為な若者を無謀な戦争で無駄死にさせた国。
その屍を乗り越えて築き上げた平和な国。そこに生を受け生涯を通じ戦火とは無縁できたボケ老人が仲間を蹴落とし我先にワクチン接種に血眼になってる場合か。

少子高齢化で老齢化した国家は社会保障費の捻出にも四苦八苦という。であれば、高齢者優先のワクチン接種とは、おかしくないか。ワクチン接種は国家の将来を託す若者とくに子育て者そしてフロントライナー(front  liner)たる警察官や自衛官、駅員、店員、宅配員など顧客(国民)対応の最前線に働く人を優先すべきではないか。高齢者はその後回しでいいではないか。

無益な同胞の生存競争を煽り、国民の生命をオモチャにする無能な国家。しっぺ返しに、できることなら有為の若者か子育て者に予約権を譲ってやりたいと思う。この国では、こんなことは無理だと承知のうえの偽善者気取りなのだろうか。

反日という自己撞着


最近は街の本屋さんがめっきり少なくなりました。
大型書店やアマゾンの利便性と品揃えが街の本屋さん減少の大きな要因かと思います。かって文化の香りを漂わせた街の風景が変化し長閑かな戦後の庶民の雰囲気が消滅していく寂しさを感じます。

ここ数年、お店で目を引くのは店頭に平積みされた、
いわゆる「日本凄い」と「嫌中・韓」本の類いです。
平積みされた本を数冊ほど手にとり拾い読みをしてみました。そこで流れる通奏低音は「自虐史観」と「反日」という二つの言葉が聞こえてきました。
この二つの言葉は根源が同一で「日本は万古不易にして不正なき無謬の国である。したがいこの国を批判することは日本人として許しがたいことである」といった発想からきているように思えました。 

私は同じ日本人を反日と呼ぶことに対して撞着の矛盾という論理性よりも、まず感覚的な違和感を覚えました。

なぜならば、私たちは敗戦後の教室で「戦争により他国に被害を与えたことを反省し二度と戦争は起こさないと誓いました。その誓いが憲法の精神です」と教わり日本人として育ってきました。
この教育に依拠する非戦の理念から歴史を回顧して意見を表明する。それに対して自虐史観と一方的に断じて反日やら非国民というのであれば、戦後の日本人教育そのものが間違っていたということなのでしょうか。

この論議はさておき、反日自虐史観のパッケージ論調が最近とみに顕著になったように感じます。
さらに昨今の日本政府は、この風潮を抑えるどころか国民の声とばかり安倍首相などは聴衆の日本国民を前にして「こんな人たち」と演説し、政策批判を封じエセ右翼の歓心を買うありさまです。政権与党はポピュリズム誘導へと政治をエスカレートさせているのかとさえ思います。

こんな風潮のせいか、いつのまにか日本社会に「日本凄い」という病気が蔓延してしまった気がします。

当初、私はこの自己賛美について次のように考えていました。
戦前の日本が絶頂期を迎えた日清戦争以降、常に格下の国と見くびっていた中国や韓国が地道な精進を重ねて実力を蓄えてきたのに対し、日本は戦後の高度経済成長の遺産を食いつぶしバブルの夢から抜け出せず、ゆでガエル状態のまますでに幾星霜、いまや両国との国力格差は開くばかりです。
そこで国民の自信を取り戻すためには一時的な精神安定剤として、昔日の夢に浸り手放しの自己賛美もしばし悪くはないのかもしれない。

しかし、いつの間にかそれが麻薬となり依存症となり、多くの日本人があらゆる不都合から目を逸らすようになってしまったのではないかと思います。
自分の凄さを証明するため、近隣諸国の粗探しに熱を上げ、罵詈雑言を浴びせ侮蔑することで傷ついた自尊心と劣等感を癒して優越感に浸っているのではないでしょうか。
それゆえに、健全な批判精神を自虐と見なしたり、他国の文化や技術さえも日本のパクリだなどと独善的に見なしてしまうように思います。

私は、祖国に愛着を持つ「自尊」の態度は尊重すべきものだと思います。
しかし他国の文化、歴史や主張を尊重しなければ、自尊とはたんなる主観による思い上がりに過ぎず、過去の失敗の歴史を再現することにもなりかねないでしょう。
これは人間においても同じことです。
自尊をしたいなら、まず「他尊」をするのが筋だと考えます。


また国家ビジョンなき為政者に率直な疑問を呈して何が反日なのでしょうか。対外政策を批判することが何故に非国民と呼ばれるのでしょうか。

かって江戸の町人たちは首を賭けて権勢を誇る将軍や役人すら嘲笑の対象にしました。
「 役人の 子はにぎにぎを 能く覚え」
こんな批判と揶揄が粋というものだと町人は拍手喝采で迎えました。


私は日本文化とは、理論的に体系化された西欧文化とは異なる複雑系の文化だと思います。
同じ言葉が幾つかの意味を持ったり、一つの事象を表現するのに心象風景に沿って異なる言葉を用います。たとえば「自虐」とは「謙虚」という言葉と表裏一体のものですが、TPOにより用法が異なります。しかしながら日本文化の機微がわからない人には的確な言葉の選択が難しいのだと思います。

古来より「秘せずば花なるべからず」と言い伝えられ、謙虚さは日本人の美徳として誇るべき日本の文化です。
日本人は人にものを送るときに「つまらぬものですが」とか身内を「愚息」と言ったりします。
これらの表現をもって自虐であるとは、日本人であれば言わないことでしょう。
であれば過去の恥ずべき自国の言動に対してこれを批判し「愚国」と言ってもなんら反日などと誹られる筋合いはないでありませんか。

衆をたのみ勢いに乗じた薄っぺらな反日自虐史観という画一的なレッテル貼り、これを日本の文化では野暮というのではないでしょうか。

日本文化は、高度な諷刺や諧謔には分からないものには分かりはしないのだという拒絶を含有していると思います。

同じ国民の謙虚な反省や批判に対して、その意気や粋が分からぬ社会の何が凄いのでしょうか、誰が美しい日本だと言えるのでしょう。

福島原発の汚染水処理は愚行だ

本日のニュースを聞いて三度びっくりしました。
 
政府は、「東京電力福島第一原子力発電所で増え続ける放射性物質を含む
処理水を国の基準を下回る濃度に薄めて海洋に放出する」ことを決定したというのです。
 
一つは、菅政権の外交オンチです。
バイデン大統領との日米トップ会談を数日後に控えて、
なぜ日本にとり不利な交渉材料をあえていま公表するのかまったくわかりません。
 
二つめは、危機管理オンチです。

安倍前首相は、2013年の東京五輪パラリンピックの招致演説で、福島第一原発の汚染水状況について「アンダーコントロール」と世界に向けて断言しました。今回の菅首相発言はこの安倍前首相の断言と矛盾しています。
中国は、この汚染水の海洋放出を環境汚染問題として取り上げて、待ってましたとばかり
「日本は国際テロ国家」だとロシアなど結託してと針小棒大なキャンペーンを張ってくるかもしれません。
 
政府はトリチウムを含む汚染水は基準を下回る濃度で人体への影響はないと説明していますが、
世界の海洋に生存する生態系の安全性など海洋環境への総合的な影響については言及していません。
これでは、カーボンフリーやSDGなど借り物の概念をわが物のごとく振りかざすものの、日本政府は環境問題のイロハさえ理解していないのだと世界中から失笑を買うのではないでしょうか。
 
科学的合理性が社会的道徳観をいつも凌駕して人を説伏するとは限りません。
 
中国の軍事的な脅威より恐れるべきは世界から沸き起こる日本バッシングかもしれません。
世界的な日本排除運動になっては中国包囲網どころではありません。
 
三つめは、政府と東京電力の無能です。
福島原発の被災後すでに十年経過するにもかかわらず、東京電力汚染水をひたすらタンクに
貯蔵するだけで、政府ともども国内での処理策を構築も実施もできませんでした。
政府ともども時間をかけて処理策は検討したようですが、その結果が出せなくては政治とは言えません。
 
東京電力は当初から原発被災のリスク排除と予防策に明らかな不備があったにもかかわらず、
想定外の一言で逃げ回り、その結果として生じた汚染水を自己解決できず海洋に垂れ流すという始末です。
震災被災者への対応を含めて過去十年の東京電力と政府の無責任で無節操な振る舞いは、
まったくお粗末でアホとしか言いようがありません。
 
汚染水の海洋放出は、無能な政治と無責任な東京電力(過去の栄光に生きる大企業)が演じた日本社会の悲劇です。
しかし、悲劇の本当の主人公は私たち日本国民であると思います。
 

新型コロナ感染に思うこと。

COVIDー19感染が社会的問題となり一年を経過した。
この間の日本政府の対応は決して褒められるものではなかったと思える。よく言えば臨機応変、悪くいえば無節操、その結果として国民は右往左往させられてきたと言えるのではないだろうか。結局のところ今や頼みの綱はワクチン接種しかないというのが政府の本音とみえる。そして国民あげてワクチンへの神頼みに陥っているように思える。しかし、ワクチン接種については、ファイザー製ワクチンにはアナフィラキシーショックアストラゼネカ製ワクチンでは血栓ができるなど問題が発生している。またワクチン接種を行う肝心の医療関係者すべてに対するワクチン接種が完了していないようである。ところが、首相は来週から高齢者への接種を始めると言う。いかに国民の不安を和らげるためとはいえ、ワクチン接種を受けたか否か不明の医療関係者が存在するなか、ワクチン接種による人体への影響をクリアせず重症化リスクの高い高齢者からワクチン接種を受けさせるとは、あまりにも能力の限界を超えひたすら願望のみを優先する話ではないだろうか。こんな国民の願望と歓心を買うだけの政府の方策を鵜呑みにして生命をリスクに晒しかねないワクチン接種、その予約に殺到する人がいるとはなんとも不思議に思える。

こんな日本の社会状況をみて思うことは、あの戦争で明確になったように、「無限になり得る願望と有限の能力」そのバランスとマネジメント(国家戦略)がコントロールできない社会、それゆえ近視眼的に手段を目的化することに卓越した社会になってしまったのだろうか。
長期的展望を持たず節度のない生き方をすること敗戦から75年この間に営営と築きあげた日本とは「戦略なき主権者不在の国民国家」そのモデルだったのだろうか?

 

街頭から垣間見る新自由主義

コロナ禍の都会を離れ疎開生活に入りはや一年。幾たびか引越しを重ねたが昔馴染みの理容室に今も足を運んでいる。その理容室からの帰り道ふと目にした街頭の景色を契機に思い巡らせたことがある。

店を出て駅に向かう坂道には五十肩の治療に通った鍼灸治療院の跡がある。長らく空き地だったがスーパーの洒落た建築看板が建っている。そのすぐ先の古書店に目をやり一瞬我が目を疑った、古書店の隣に「子ども食堂」がオープンしていたのである。

いまや田園調布の駅前商店街はAmexのステッカーが消えて居酒屋チェーンや安売りのドラッグストアなどが軒を並べ優雅な昔日の面影はなくなっている。そんなご時勢だから、子ども食堂が出現しても不思議でないのかとも思う。 それにしても商店街の変貌と子ども食堂とは異質の風景に思えてならない。

駅周辺では遺産相続した不動産の相続税が払えぬ事態が頻発し、かっての高級住宅街は空き地が目立つバーコード状態、相続放棄された豪邸の跡には一区画を細切れにして住宅が建っている。新自由主義の怒濤は中間層を粉砕し、いまや権力機構と密接な関係を築けない上流階層をも破壊し続けている。

ここで街並み展望から一転、この国の風景に視点を移してみると、東京オリンピックの遂行以外この国の目標は、なにも見えてこない。
国家ヴィジョンが不透明というよりまったく見えないこの国では若者は将来の生活設計が立てられず出生率の維持という民族の再生産さえおぼつかぬ悲惨な状況に置かれている。

新自由主義の論理では、民主主義による意思決定よりも行政命令や司法判断による統治の方がより効率的で好ましい。美しい民主主義政治は、一人一票から一票何万円の金主主義の政治となり、カネに仕える政府、言い換えるとカネで買えるチープな国の様相を呈している。為政者はデフレ脱却とコロナ退治をひたすら経文のごとく唱えるだけで実行策といえば楽観的な状況任せの機会主義でしかない。したがい多くの国民は将来の生活実感と儚い夢すら持てずましてや不要不急の消費をする余裕などありえない。

それにもかかわらず経済成長を唱える政府はDXどころかデジタル経済の本質さえわかろうとしない。経済成長率よりネット接続率が重要な指標なのだ。これは若者の過処分所得に占めるスマホ利用料を見れば一目瞭然のことだ。ましてや魅力ある消費対象がない状況で政府が主導する給料アップやGoto などの泡沫的な消費誘導などといくら御託を並べ机上の戦術論を繰り出しても生活者の財布の紐は緩みようがない。 まずは家計金融資産1700兆円の大部分を国民が安心して使えるようにしない限り、消費拡大による景気回復などあり得ないだろう。

なによりも根源的な問題は、経済一辺倒で成功した戦後の成功体験をいまだ引きづったままの政府と政財官のアナログ精神構造と新自由主義経済のトリクルダウン教条主義だと愚測する。新自由主義は競争の強制力を社会進化の推進力とする。これは明治維新の賊軍が自己を正当化するために掲げた「勝てば官軍」と同根の発想だ。この自己正当化が組織の指導階級のモラル崩壊を誘発してきた。その先にあるのが強者支援と弱者切捨てに象徴される自己責任論だ。さらに悪しきは、公共財を市場化して収奪し社会福祉を個々人の責任に転嫁するのが経済合理性だという強者の論理である。このような論理を支持する金権政治屋とその取り巻き連中を国民はグローバリズムの先導者として特権階級へと持ち上げてきた。その結末が、少数の自由に大衆の自由が拘束されるという不平等きわまる自縄自縛の現状だ。

COBID-19が蔓延するなか、がむしゃらに東京オリンピックを強行する政府の姿勢が、人命より経済を優先する金権政治の象徴と言える。 バブル崩壊から三十年いまだ国家ビジョンを打ち出せず対米追従だけの無為無策の為政者、公益の私益化と私費の公費化を当然のルールのごとく、私利私欲に奔走する政財官の奸漢の横行には人倫地に堕ちたりとただ嘆息するばかりだ。

無能な統治層と強欲な政官財、彼らがその悪しき自由を貫徹すべく野合結託して打ち出した国民の為というお為ごかしの似非国家社会主義、その実は新自由主義という名の弱者に対する強者のクーデタかと思えてくる。
いや、こんな独善と主観の愚考は妄想に過ぎぬのだろうか。
ー国破れ 人倫廃れ 桜咲く
まずは己の心象風景を明確にすることを心掛けよう。

第55回スーパーボール


今度の日曜日にアメリカで開催されるスーパーボールについて、フットボールに馴染みのない方のために独善と主観によるご紹介とご案内をいたします。
お時間がありましたら、TV観戦の一興にしていただければ幸いです。

スポーツ界最大の祝典、NFLスーパーボールがアメリカ現地2月7日(日)フロリダ州タンパのレイモンド・ジェームス・スタジアムで開催される。
NFL(National. Football League)はアメリカン・フットボール・カンファレンス (American Football Conference; AFC)と、ナショナル・フットボール・カンファレンス (National Football Conference; NFC) の2つのカンファレンスから構成され、それぞれ16チームが所属、カンファレンスはさらに東、北、南、西の4つの地区に別れ、4チームずつが所属している。

第55回となる今年のスーパーボールに登場するのは、NFC優勝のタンパベイ・バッカニアーズAFC優勝のカンザスシティ・チーフス。チーフスは昨年のスーパーボール覇者でもある。
また、バッカニアーズは、NFLの歴史上で初めて、自分たちのホームスタジアムでスーパーボウルを戦うチームとなる。

今年の目玉は、なんといってもNFL史上最高のクオーターバック(QB)と言われるバッカニアーズのトム・ブレイディだろう。
ブレイデイの経歴は華麗である。2000年のNFLドラフトで、6巡目の全体199位でニューイングランド・ペイトリオッツから指名を受けプロ入りを果たすと、2年目から先発QBに定着し、同年にチームを球団史上初のスーパーボウル制覇に導いた。以降2020年の昨シーズンまで負け越したシーズンは一度もなく、いずれもQBとしてリーグ史上最多となる17度の地区優勝、14度のNFCチャンピオンシップ進出と10度のNFC制覇、さらには同ポジションでそれぞれ歴代最多となる6度のスーパーボウル制覇と4度のスーパーボウルMVP獲得を達成している。このほか14度のプロボウル、3度のNFL MVPと2度のリーグ最優秀攻撃選手に選出された。リーグMVPとスーパーボウルMVP双方の複数回受賞は、ブレイディと彼の幼少期のアイドルであったサンフランシスコ・フォーテイナイナーズのQBジョー・モンタナの二人しか達成していない快挙である。


ところがトム・ブレイディは昨シーズンが終わるとペイトリオッツを退団、誰もが引退かと思った。しかし彼は新たな機会とフレッシュな再スタートを求めてタンパベイにやってきた。そして大方の予想を裏切り奇跡のNFC優勝を果たした。
実は4年前に彼は日本でトライアウトを行なって私はその場を見学する機会に遭遇した。華麗なフォームから繰り出す正確なパスコントロールは今でも目に浮かぶ。私の選ぶQB 歴代一位は、ボール・スピードとランではデンバー・ブロンコスのジョン・エルウエイ、クレバーな戦略とステップではサンフランシスコ・フォーテイナイナーズジョー・モンタナそしてパス・コントロールでは彼となる。

もう一つの目玉は、ハーフタイム・ショウに登場するアマンダ・ゴーマンだ。先のアメリカ大統領就任式で自作の詩「The Hill We Climb」を朗読その美しいパフォーマンスで世界の注目を集め、就任式直後に大手モデルエージェンシー、IMGモデルと契約した。スーパーボウルに詩人が登場するのはこれが初めてである。
もう一人ショウに登場するのは、カナダ出身のザ・ウイークエンドだ。二人の出演者はともに黒人でNFLのBLM配慮が伺われる。

またNFLはワクチン接種を受けた医療関係者7,500人を試合に招待、それに一般の観客を合わせた2万2,000人(収容人員の1/3)がスタジアムで観戦する。

分断されるアメリカだが、全米で友人家族がバーベキューを囲みTV画面の一挙手一投足に熱狂する。この日だけは幸せなアメリカ国民として一体感に浸るイベント、それがスーパーボールだ。

NHK BSでは8日の午前8時から実況中継をする。

アメリカ大統領と分断を巡る妄想

アメリカ大統領選挙では、集団心理を利用したバーチャル扇動ゴッコが国の内外を席巻し妄動にかられた方々もおられたように思います。

私はアメリカ大統領選で妄動ならぬ妄想を逞しくしました。

一つは、
あのトランプの後任にもかかわらず新大統領に何ら魅力を感じないのは何故だろうか。
そういえば日本の首相交代は更にお粗末だった。
近頃は政治に携わる人間に高い資質の人がいないのではないか。そんなことは既に国民は了知した上での虚しい政治劇だったのでないだろうか。
だからこそ、史上最高齢の大統領が今頃になって「アメリカの民主主義」の勝利宣言を行い、国民の連帯を連呼せざるを得ないのではないか。これが空虚な政治劇の幕引きか。

反トランプが世論の趨勢であったなら、夢を持って将来の国家ビジョンを語る若い政治家が輩出し、アメリカ民主主義の大義のもと論争に勝利した若者が大統領候補者に選出されても良かったはずだ。
思うにGAFAを筆頭に他の分野で活躍できるような人材は政界には入ってこないのだろう。
破綻した経済のトリクルダウン理論は政治の世界でも成り立たないようだ。

もう一つは、
アメリカ社会の分断はトランプ大統領就任のはるか前から兆候を見せていた、にもかかわらずいままで見てみぬふりをしてそのツケを一切合切トランプ個人に転換するのは、どう考えても理不尽だ。
たった一人の異様な変人が権力を掌握してから四年足らずで大国のアメリカ社会を分断できるはずはないだろう。

そもそもトランプは民主主義的手法に則って選出されたではないか。そんなトランプを選出した選挙民の責任はないのだろうか。国民の良識と知性は問われないのだろうか。
そこでアメリカの大義なる民主主義だが、その理念を支えるのは自由と平等だろう。しかし時には対峙することでその特性を表象する概念でもある。

この概念を並存させたのが民主政治という水平思想。
いっぽう移民に始まる多民族の国民国家、その統合という垂直思想。
この組み合わせはそもそも相性からして良くはなかった。
しかし南北戦争を経験すると指導層は人材の厚みを増した。さらに二つの世界大戦は経済的繁栄と世界のリーダーシップをアメリカにもたらし、水平と垂直思想の交点を確固たるものとした。

ところが自ら旗振りをしてきた新自由主義とグローリズムという創造的破壊ともいうべき二つの理念により、鉄壁を誇った交点は緩んでしまい、自由は平等を凌駕し貧富の格差は拡大して社会の思想基盤が抱える矛盾を露呈し知の亀裂を生じてしまった。
この修復には困難を極めよう。
なぜなら、身から出た錆とも言える自己矛盾なのだから。