bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

天皇陛下の譲位と国体

日本国憲法の第1章は「天皇」です。その第1条(天皇の地位、国民主権)には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基く。」とあります。

 

しかしもっとも重要な第1条に国民の権利・義務や戦争放棄ではなくなぜ天皇に関する条文が配置されているのでしょうか。

 

さらに不思議なことに日本国憲法は連合国軍統治下で公布されています。

つまり独立国ではない占領下での憲法公布なのです。

 

1945年9月2日から1952年4月28日まで日本は連合国軍(米軍統治部隊)占領下にあり日本国憲法は1946年11月に公布されました。

連合国軍占領開始から1年余で日本国憲法が公布されています。

 

そこで太平洋戦争が敗色濃厚となった1945年初頭から無条件降伏そしてマッカーサー連合国軍最高司令官の日本赴任直後までの期間に限定して状況分析をしてみよう、占領下での憲法公布と憲法第1章「天皇」との関係やその背景が見えるかもしれないと思い歴史を紐解いてみました。

その結果「国体」と「天皇制」がキーワードとして浮上してきたのです。

その経緯を参考にした書籍からの引用で物語風に綴ってみました。

*『 』は書籍からの引用で( )は書名と著者です。

 

一、敗色濃厚となり降伏まで昭和天皇の最大の懸案事項は国体の維持、存続であった。

 

『1945年2月14日、近衛文麿は敗戦必至の見地から「英米輿論は今日までの所、国体の変革とまでは進み居らず・・・国体護持の建前より最も憂ふるべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起こることあるべき共産革命に御座候」と上奏した。(「昭和史」遠山茂樹、他)』

 

これにたいして天皇は敗戦後に予想される英米からの国体の変革要求を回避するには

 

『「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」(「木戸幸一関係文書」)』

 

とのお言葉で

 

『戦争の継続に固執する天皇の(昭和天皇)姿勢に顕著なのは「不名誉」な降伏忌避と自らの地位及び「国体」の護持に対する強い執着(「天皇の昭和史」藤原彰、吉田裕、他)』

がうかがわれます。

 

1945年7月26日のポツダム宣言を黙殺し原子爆弾が投下された後も次のように国体護持への固執を見せます。

 

『1945年8月12日の皇族会議「朝香宮が、講和は賛成だが国体護持が出来なければ戦争を継続するかと質問したから、私は(昭和天皇)勿論だと答えた。」(「昭和天皇独白録」寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー)』

 

その2日後には一転して国体護持には不安なしとしてごポツダム宣言受諾に至ります。

 

『1945年8月14日御前会議天皇昭和天皇)「国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ、毛頭不安ナシ」(「敗戦の記録」参謀本部)』

 

ちなみにポツダム宣言から宣言受諾の間には次のような経緯があったといわれています。

日本側からは「天皇統治の大権」が無条件降伏の条件に含まれていないことを条件に受諾を申し入れ「天皇および日本政府の統括権限はsubject to連合国軍最高司令官」で最終決着。

 

二、降伏後は昭和天皇の戦争責任回避と占領統治に天皇制利用という日米の思惑が結合した日本統治。

 

日本国憲法誕生のとき日本の指導層とマッカーサー連合国軍最高司令官にとりもっとも難しく重要であったのは天皇の処遇問題であったと思います。

 

なぜなら無条件降伏時点で日本軍は内外に700万余名の兵力が残存しており武装解除から降伏まで難航が予想され1945年8月15日終戦詔勅前夜でさえ終戦反対派のクーデター未遂事件が発生しました。

天皇のもと一億火の玉と一度は本土決戦を決意した日本国民が天皇の処遇次第では何時反乱や暴動が起きるかもわからぬ状況にありました。

 

そこで日本政府は次のような手を打ちました。

 

『1945年8月15日鈴木貫太郎内閣総辞職、後継首相に皇族の東久邇宮稔彦王が推され16日東久邇宮内閣成立。皇族を首相にすえ天皇側近のナンバーワン近衛文麿を副総理格として皇室を前面に押し出し天皇の「権威」と「御仁慈」によって国民を統合し「国体護持」をはかろうとする支配層の送り出した最後の切り札(「天皇の昭和史」藤原彰、吉田裕、他)』

 

この切り札で無条件降伏に対する軍部や民間の不満や不平分子への懐柔と制圧に乗り出しました。

 

かたや

マッカーサー東京裁判の開廷に前後して全く相反する「天皇発言」を裁判対策として実に巧みに駆使した。

すなわち極東諮問委員会の代表団やライフ誌,NHKなど表舞台においては、自分は戦争に反対であったが軍閥や国民の意志に抗することができなかったとの天皇発言を活用、

だからこそ天皇に戦争責任はなく免訴されるとのアピール、

他方裏舞台においては戦争が自らの命令によって行われた以上は全責任を負うとの天皇発言がキーナンや田中隆吉に内々に伝えられることで天皇を出廷させてはならないという覚悟と決意(「昭和天皇マッカーサー会見」豊下楢彦)』

*キーナン:ジョセフ・キーナン、東京裁判の米国側首席検事

 田中隆吉:元日本国陸軍少将、東京裁判の検事側証人

 

を日本指導層に植え付けて

 

東京裁判が東条らに全責任を負わせる一方で天皇の不起訴をはかるという「日米合作の政治裁判」(「昭和天皇マッカーサー会見」豊下楢彦)』

 

とすることで米国の占領統治のために天皇制を残して昭和天皇を利用する間接統治を選択したのです。

 

この統治戦略は統治終了後もマッカーサーの大手柄でした。

下記に引用するごとく占領統治の終了後も日本国内でのあらゆる反体制、革命運動は先天的に失敗を運命づけられ敗戦をいまだ直視できない国民国家の日本としたのですから。

 

『「国体」とは自主的決意による革新・革命の絶対的否定を意味するものである以上、国体護持を実現したかたちでの敗戦は、敗北という外見に反して、その実、革命に対する華々しい勝利にほかならなかった。(「永続敗戦論」白井聡)』

 

三、以上の経緯から日本国憲法の三原則は国民主権基本的人権、平和主義といいながら憲法の第1章が「天皇」であるのは以下の理由によるものと推測します。

 

日本国初めての敗戦に際し昭和天皇が原爆を投下され続けても固執した「国体」、一方ではマッカーサー占領軍の天皇制活用による統治戦略この二つの思惑が「国体の象徴としての天皇」という日本国民の心情にすんなりと入り込み憲法第1条「日本国と日本国民統合の象徴」の中に幻の「国体」が明文化され入れ子のごとく組入れられているからではないでしょうか。

 

天皇陛下の譲位について、さらには憲法との関係を論ずるには「国体」を考慮すべきと思う所以でもあります。

 

追記

日本人は権力と人権に対する一定の諦観をもっており(人権の反対語としての神権)

現人神への情緒的帰属観をもつのではないか・