bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

「この国は国家社会主義に向かうのか」



この数年にわたり気になる問題があります。
それは、おおくの大手企業が増収増益を継続的に達成しているにもかかわらず従業員の賃金が上がらないという。これではデフレ脱却ができないというので政府が賃上げ目標を設定して税控除のニンジンまでぶら下げて企業に賃上げを迫る構図です。

これでは民間企業の財布に平然と手を入れてはばからぬ国家社会主義ではありませんか。

さらに政府のみならず御用学者も口をそろえて、企業の増益と人手不足にもかかわらず賃金が上がらないのはおかしいと騒ぎ立てる始末です。
おかしいことはなく理由は明白です。それは、従業員の生産効率の低さにともない賃金を抑圧せざるを得ぬからでしょう。結果として労働分配に回さぬ利益の行き着く先は余剰資金のブタ積みです。従業員より問題なのはイノベーションどころか新規事業など資金の有効活用など思いもつかぬ怠慢で無能な経営です。いっぽう生産性の低さのおかげで意図せざる人手不足の状態となっており失業率は完全失業率に近づいています。つまり貧しさをみんなで分け合う社会主義的公平性を生み出しているのです。昔のように従業員が春闘など賃上げストをしないでしょう。若者の多くは現状維持の政権を支持しているのです。
つまりこの国の社会は効率性を犠牲にして公平性を擁立しているわけです。

近ごろ為政者が熱く語るのは、「教育無償化」、「ひとづくり革命」そして「生産性革命」です。
いずれもヒトをどうするかのたいへんに重要な課題なのです。
しかし、お上の美辞麗句のその下から透けて見える下心はヒトを「人間」としてではなく「労働力」としてしか見ていないのではないかということです。

教育のおおきな目的は知性と教養を備えた人材の育成といえるでしょう。
そのためにはまず優秀な教育者が必要です。しかし文科省は産業界のニーズに対応した体制整備をおこなうため産業に役立つ理科系に注力するとしており巷では文科系不要論まででています。こんなことで然るべき教育者が育成できるのでしょうか。
理科系、文科系という発想自体ガラパゴスですがあえて文科系的な教育が必要なことの例をあげます。
教育無償化は国民の税金を投入するものですから、教育機会の公平性と投資効果との両面から検討する必要性があります。この問題については2000年のノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・J・ヘックマン教授がある結論を出しています。
公的投資を悩ます公平性と効率性のジレンマは幼少期(3-4歳)介入ではほぼ存在せず損失は利益を上回らないというのです※。しかし、その前提条件は週に一度は先生が家庭を訪問し指導に当たる。その指導は認知的スキル(あえていえば理科系)のみでなく非認知的な要素すなわち肉体的・精神的健康や情動的性質(あえていうと文科系)の養成に充てるというものです。(「幼児教育の経済学」)
*40年間の追跡調査をした結果、被験者は高卒後に持ち家率、平均所得が高く、逮捕者率も低かった(被験者と非被験者のIQは同じ)利益率は6-10%でいっぽう第二次大戦から2008年までの米国株式配当率は5.8%。
幼少期教育はこのようなデータもあるので無償化はうなずけるとしても小学校以降の無償化はまったく理解できません。
教育どころか雑務に追われる小中学校の先生に無償児童の費用負担を転嫁するのでしょうか。高等教育に至ってはまともに教育できる教育者がどれほどいるのでしょうか。
文科省には少なくともヘックマン教授のような検討を行ってみてほしいものです。

それよりも懸念されることは国費による無償化教育では政府主導の画一的な教育が強制される危険性です。この結果うまれてくるのは体制に忖度、奉仕する単なる労働力としてのヒトでありましょう。これが為政者のいう「ひとづくり革命」ではたいへん困ったことになるでしょう。一歩ゆずって政府の言うとおり文字通りに知性と教養に溢れて機械で置き換えのできない「ひとづくり」ができたとしましょう。

そこで問題は「生産性革命」です。
生産性革命とは現在の非効率な生産性を否定して生産効率の極大化を図ることです。
効率性を犠牲にして公平性を選択した大企業とくに従業員は大変なことになります。いままでの価値と生存体系の完全な逆転です、効率性を選択した企業は余剰資金を惜しみなく使いコンピューター化、ロボット化そしてAI化を図るでしょう。そして多くの従業員は路上に放り出されるでしょう。
その結果、幸いにも残された従業員の給与は上がり企業の利益増大と共に税収も増加してメデタシでしょうか。「ひとづくり」で生み出された人はどこにいくのでしょうか。
これ以上は「たられば」ですから止めておきます。

論点です。
「教育無償化」はともかく「ひとづくり革命」「生産性革命」さらには「働き方改革」まで含めて本来は国ではなく民間が自主的に取り組む課題です。

しかもそれぞれの課題はその相互関係に矛盾が見出されます。
ひとづくりと生産性とは整合するものでしょうか。教育無償化と生産性は両立しうるものでしょうか。
このような疑問と矛盾を抱えたまま国会での議論もあるやなしか為政者の意向のまま一気呵成に戦術論は実行に移されつつあります。

わたしが危惧するのは、このままでは公平性と公共性の美名のもとに箸の上げ下ろしまで国が介入してきて個人と企業の自由は束縛され果ては個人の尊厳まで失い国家社会主義にたどり着くのではないかということです。

もっとも重要で本質的な問題。
それは国家ビジョンがないまま繰り返しこのような戦術論が先行するこの国の政治の貧困と血税を投入するにもかかわらず沈黙する国民でしょう。