bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

『日本人の「戦争」』



日本人の精神構造からあの戦争とはなんだったのかを抉る。その論考は哲学的深淵に至る名著。

楠正成、織田信長の戦から明治へと身分差別を打破して国民の時代を築いた日本。
日清・日露は「国民の戦争」を戦うことができた日本。

しかし文明開化は欧米人でもないのにひたすら欧米人であるかのごとく振る舞う欧化主義者の拡大を招き、昭和に入ると財閥を先頭に政治家、官僚のなかに英米派と呼ばれる勢力が伸長。彼らは労働者の失業、農民の飢餓をよそ目に濡れ手で粟の巨利を得て金権政治に奔走。

やがて大部分の人にとって大日本帝国とは空虚な抽象となり結果、国民の戦争ではなくなった日中戦争。その戦局は硬直化、国内では貧富の差が拡大し多くの国民は窮乏の奈落へ。

充満する国民の不満エネルギーを外に向けるべく指導者層は革命よりましだとあの戦争をそして敗戦を選択した。

英米化とは抽象化(タテマエ)であり日本古来の哀歓やら共感という実感化(ホンネ)との距離縮小と同一化作業、それは鹿鳴館で始まり日露戦争で終わったのか。

やがて抽象の魅了が与える金銭・主義・制度に翻弄されタテマエとホンネを乖離させ自ら自己分裂した近代日本人。
その行き着く先は祖国をこのような空虚な抽象としてしまった自らとも自らの敵とも戦わねばならぬ必敗の戦争だった。こう解しなければ特攻、玉砕は説明がつかないと著者はいう。

それにしてもあの戦争の真の責任者は誰なのか、タテマエという精神の官僚化にさらに腐食されたこの国。あの戦争の総括は未だ終わらない。