bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

《二・ニ六事件の謎》

今日は二・ニ六から82年目の2月26日。
 
この事件が未だ謎であることを指摘してみます。
 
歴史教科書では、次のような説明をしています。
「政治的発言力を増した陸軍の内部では、隊付きの青年将校を中心に、直接行動による既成支配層の打倒・天皇親政の実現をめざす皇道派と、陸軍省参謀本部の中堅幕僚将校を中心に、革新官僚や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制樹立をめざす統制派が対立していた。
 1936(昭和11)年2月26日早朝、北一輝の思想的影響を受けていた皇道派の 一部青年将校たちが、約1400名の兵をひきいて首相官邸・警視庁などをおそい、斎藤実内大臣高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らを殺害し、国会をふくむ国政の心臓部を4日間にわたって占拠した(二・二六事件)。首都には戒厳令が布告された。このクーデターは国家改造・軍部政権樹立をめざしたが、天皇が 厳罰を指示したこともあり反乱軍として鎮圧された。
 事件後、統制派が皇道派を排除して陸軍内での主導権を確立し、陸軍の政治的発言力はいっそう強まった。岡田啓介内閣にかわった広田弘毅内閣は、閣僚の人選や軍備拡張・財政改革などについて軍の要求を入れてかろうじて成立し、以後の諸内閣に対する軍の介入の端緒となった。」
 ※石井進五味文彦笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2003年)
 
以下にこの説明への疑問点を述べます。
事件当時の国内社会状況や世界情勢に関する記述は一切なく陸軍内部の対立に起因するクーデターとして片付けている。しかし国民生活や社会状況の背景とその連係分析がなくしてクーデターの定義はできないはずだ。
また天皇親政の実現をめざす皇道派の決起に対する天皇の対応だがなぜ厳罰の指示で反乱軍となるのか。
しかも失敗したクーデターを惹き起こした陸軍の政治的発言力が一層強まったとしている。本来ならば陸軍の発言力は低下するのが当然だがなぜに強まったのかいずれもその説明はない。
この事件は不可解そのものです。