昭和天皇という人はいつも分限とか格好にこだわり、国民心情とくに貧者や弱者への洞察と寛容には欠けた小心狭量な人物であったと思います。さらには立憲君主主義者でも平和主義者でもなかったのではないかと思われます。
このような推測の根拠となる例を挙げてみます。
人事介入
1939年、阿部内閣組閣の際の陸軍大臣選定への介入をはじめ気に入らない人物への嫌悪をあらわにした陸軍人事への度重なる介入。「石原(石原莞爾)については“東京以外に出せ”とまで指示し、この結果、石原は、京都の第十六師団留守司令部にとばされている。」(板垣征四郎刊行会編「秘録板垣征四郎」)
沖縄発言
1947年9月、宮内庁御用掛の寺崎英成はシーボルトGHQ外交局長を訪ねて次の天皇の意向を伝えた。「天皇は、アメリカが沖縄を含む琉球の他の島を軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることになる。」(進藤栄一「分割された領土」≪世界≫1979年2月号)
開戦
戦争継続への執着
「私が若し開戦の決定に対して『ベトー』をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する者は殺され、私の生命も保証されない」(寺崎英成「昭和独天皇独白録」)これはニ・二六事件での対応と同様に国民ではなく自己中心の保身と価値体系でリスク判定する思考です。
1945年2月14日、近衛文麿の有名な上奏。近衛はこの上奏で「敗戦はもはや必死である。しかし、降伏は直ちに国体の変革を意味しない。むしろ国体護持の観点から見たときに敗戦よりも恐るべきは、それに伴って発生する可能性のある共産革命である。この最悪の事態を回避するため、いまはなによりも和平交渉を急ぐべきである」と率直な意見を述べました。しかし、天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々難シイト思フ」とのべて近衛の提案に消極的な姿勢を示している(「木戸幸一関係文書」)
また同じ2月には中村俊久侍従武官に「この戦争は頑張れば必ず勝つと信じているが、国民が耐えられるだろうか」と語った。(秦郁彦「裕仁天皇五つの決断」)
戦争責任
敗戦後、天皇は木戸侍従長に開戦時は立憲君主ゆえこれを阻止できなかったと弁明して「天皇に対する米国側の論調(極刑を要求)につき頗る遺憾に思召され、之に対し頬被りで行くと云ふも一つの行方なるが、又更に自分の真意を新聞記者を通して明にするか或いはマ元帥に話すと云ふことも考へられるが如何」(「木戸幸一日記」)として戦争責任追及の世論をかわそうと画策していたことがわかります。
しかしマッカーサーとの会見直前ニューヨーク・タイムズ特派員フランク・ルイス・クルックホーンと会い「朕は真珠湾攻撃当日の宣戦の詔勅を、東条がそれを用いたような意味でなすつもりはなかった」と述べ、自らの開戦責任をあいまいにしています。また「朕は武力をもってしては恒久的平和は樹立されもしなければ維持もされないと信ずる」として、自らが平和主義者なることをアピールした。(由利静雄・東邦彦「天皇語録」)いっぽう、1975年10月31日におこなわれた訪米帰国後の記者会見で戦争責任についての考えを問われると次のように回答しています。「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないのでよくわかりませんから、そういう問題については、お答えができかねます。」さらに米国での記者会見では、広島への原爆投下について質問され「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒ではあるが、やむをえないことと私は思っています。」
昭和天皇の自己保身と弁明はかって何度か書きましたがこれで止めておきます。
今上天皇には頭が下がります。