bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

自由とは何か。

1.「自由」の語源について

 まず、自由とはそもそも何なのでしょうか。

自由はLibertyとFreedomという二つの言葉に由来(和訳)しており、その語源は、以下のように解釈されています。

 Liberty   ラテン語起源でliber(世帯における自由な成員、つまり特権を意味する)

 Freedom  ゲルマン系言語のfri(拘束されていない)

ここからLiberalismという言葉がうまれ、やがて特権(自由の)の普遍化を意味するようになりそしてFreedomとの融合に至り今では自由主義を広く包括する言葉になったと考えられます。

 

2.自由という概念について

 概念とはなんでしょうか。いざ説明するとなると難しいことがわかります。

そこで私なりの考え方というより愚見を説明します。

「概念とは、人が認知した事象に対して抽象化・普遍化し思考の基礎となる基本的な形態となるように意味づけられたもの」(ウイキペディア)と説明されます。

 

ここで思考の基礎とありますが、思考はどのように行われるのでしょうか。

思考する際の考え方は大きく分けると二つの思想に依拠して、そこから分岐して結論に到達するまでに二つの推論方法があると考えられます。

具体的には相対主義決定論という思想、そして思考の結論に至るまでの手段としての経験的(帰納的)推論と形式的(演繹的)推論です。

 

この思考パラダイムから引き出されるものは、普遍的な定義が成り立たない自由という概念を考えるに際しては、決定論ではなく相対主義の思想で論じるべきだと考えます。

 

 相対論で考えるとなると、自由の対立概念は不自由であり、不自由の概念とは制約や規制です。

 この二つの概念には相互依存性があります、つまり選択や決断の自由な機会を得るためには制約と自由が同時に存在する必要性があるということです。

 これは悪を知らずして完全なる善を知ることはできないという、善と悪との相関関係と同じことだといえます。

 

 ちなみに制約と自由の問題を哲学的思考から論じたのはプラトンの『法律』が最初だといわれています。制度としての自由を社会的な視点から尊重するギリシア人の意欲と気概を示し、自由な議論が新しい知恵と知識をもたらすという自由の社会的効果を見出したといわれています。

 そこで不自由と自由の相関関係について考察をしますと、制約や規制のなかにあって

個人の尊厳をもって生まれくる行為(選択や決断)への機会、それが「自由」であり、その過程から自発性、創造、多様性などが生まれてくるものと考えられます。

注意すべきは、その過程において理性にもとづく諸々の価値とのバランスを考慮した「自由」でないといけないと思います。

 

では理性とはなんでしょうか。

 「理性とは、ものごとや人々が何のために存在するのかを理解することで極論すると、

理性=知性+倫理(徳)と考えています。」いわゆる道理というものかもしれません。

 

 しかし、理性とは教室では教えられないものだと考えています。

 なぜなら倫理や徳は教育により習得できるものではないからです。いくら知識があっても徳のない人はいます。逆に知識は乏しくても有徳の人もいます。

しかし知性は、教育により習得できます。

ドクサ(健全な判断)とエピステメー(厳密な知識)というギリシア哲学(イソクラテスプラトン)に発する二律背反を統合した(リベラルアーツ)知性育成の教育が典型です。それは中世ヨーロッパの大学で確立された以下の自由学芸7科です。当時における知性を養うに必要にして十分なものかと思えます。

   3学 文法、修辞学、論理学

   4芸 算術、幾何、天文学、音楽

 

3.二つの自由概念

 自由の概念を具体化して「自由論」として発表されたものでは、ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』(1859年)が有名です。その要点は次のようなものです。

  

「自由とは国家の権力に対する諸個人の自由であり、これを妨げる権力が正当化される場合は他人に実害を与える場合だけに限定され、それ以外の個人的な行為については必ず保障される。なぜならば、文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。」(ウイキペディア)

 

 この自由論を普遍的に援用することには問題があります。

それは(私が)下線を引いた部分です。ミルはここから発展して「戦争は抑圧よりもよい

し、年間500ポンド以上の収入を持つ者すべてを殺害する革命はものごとを大いに改善

するであろう」としています。

この弱い者いじめと進化至上主義の論理に私は納得できません。

 

私はアイザイア・バーリンの『自由論』(1958年10月31日オックスフォード大学の講

演、)に準拠して自由という概念を考えています。

 

バーリンの要点は二つの自由という思考です。

それは「消極的自由と積極的自由という二つの自由概念」です。

 

バーリンは、自由の基本的意味を次のように説明します。

「鎖からの、投獄からの、他人からの自由。

自由になろうと努めることは妨害を取り除こうとすることであり、個人の自由のために戦うとは、その人の目的ならぬ他人の目的のために、他人に干渉され搾取され隷属させられるのを抑制しようとすることにある。」

 

200以上に及ぶといわれる多種多様で錯綜した自由の定義の中から、核心(本質)である二つの自由を区別すること、それが自由概念の要点であるとバーリンは主張します。

 

 その考えを下敷きにした私なりの自由概念論を以下に記します。

 

消極的自由:

自分の選択を他人から妨げられない自由。

・・・からの自由、Liberty from。

他人に干渉されない範囲が広がるにつれてその人の自由も拡大される。

言い換えると、「私生活の範囲」と「公権力の範囲」のどこに境界線を引くのかという問題が出現する。さらに「公」環境と「私」経時の変化を線引きの補助変数として考慮する必要がある。(したがい、自由の普遍的な定義は不可能というのが私の論理)

 

英国近代史における自由への戦いのなかから育まれた概念。

 

積極的自由:

 自分は何を選択できるか。・・・する自由。

 自分自身の主人公でありたいという個人的願望に基づく自由。 

 独立自尊としての自由。自己決定の自由。

 

ルソー以来のフランスにおける社会思想の伝統のなかで育まれた概念。

 

(私の自由概念)

一元論でなくバーリンの二元発想、しかし決して中庸に陥らずつねに理性をともなう自由を思考するもの。しかし問題は「私」と「公」の境界線の線引き、その困難さです。

そして是認すべき良い自由とは理性的自由であり、否認されるべきは非理性的自由だと考えています。

 

バーリンの自由論は、みすず書房から1971年に出版された(1979年に新装版)『自由論』に基づいたものです。