bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

街頭から垣間見る新自由主義

コロナ禍の都会を離れ疎開生活に入りはや一年。幾たびか引越しを重ねたが昔馴染みの理容室に今も足を運んでいる。その理容室からの帰り道ふと目にした街頭の景色を契機に思い巡らせたことがある。

店を出て駅に向かう坂道には五十肩の治療に通った鍼灸治療院の跡がある。長らく空き地だったがスーパーの洒落た建築看板が建っている。そのすぐ先の古書店に目をやり一瞬我が目を疑った、古書店の隣に「子ども食堂」がオープンしていたのである。

いまや田園調布の駅前商店街はAmexのステッカーが消えて居酒屋チェーンや安売りのドラッグストアなどが軒を並べ優雅な昔日の面影はなくなっている。そんなご時勢だから、子ども食堂が出現しても不思議でないのかとも思う。 それにしても商店街の変貌と子ども食堂とは異質の風景に思えてならない。

駅周辺では遺産相続した不動産の相続税が払えぬ事態が頻発し、かっての高級住宅街は空き地が目立つバーコード状態、相続放棄された豪邸の跡には一区画を細切れにして住宅が建っている。新自由主義の怒濤は中間層を粉砕し、いまや権力機構と密接な関係を築けない上流階層をも破壊し続けている。

ここで街並み展望から一転、この国の風景に視点を移してみると、東京オリンピックの遂行以外この国の目標は、なにも見えてこない。
国家ヴィジョンが不透明というよりまったく見えないこの国では若者は将来の生活設計が立てられず出生率の維持という民族の再生産さえおぼつかぬ悲惨な状況に置かれている。

新自由主義の論理では、民主主義による意思決定よりも行政命令や司法判断による統治の方がより効率的で好ましい。美しい民主主義政治は、一人一票から一票何万円の金主主義の政治となり、カネに仕える政府、言い換えるとカネで買えるチープな国の様相を呈している。為政者はデフレ脱却とコロナ退治をひたすら経文のごとく唱えるだけで実行策といえば楽観的な状況任せの機会主義でしかない。したがい多くの国民は将来の生活実感と儚い夢すら持てずましてや不要不急の消費をする余裕などありえない。

それにもかかわらず経済成長を唱える政府はDXどころかデジタル経済の本質さえわかろうとしない。経済成長率よりネット接続率が重要な指標なのだ。これは若者の過処分所得に占めるスマホ利用料を見れば一目瞭然のことだ。ましてや魅力ある消費対象がない状況で政府が主導する給料アップやGoto などの泡沫的な消費誘導などといくら御託を並べ机上の戦術論を繰り出しても生活者の財布の紐は緩みようがない。 まずは家計金融資産1700兆円の大部分を国民が安心して使えるようにしない限り、消費拡大による景気回復などあり得ないだろう。

なによりも根源的な問題は、経済一辺倒で成功した戦後の成功体験をいまだ引きづったままの政府と政財官のアナログ精神構造と新自由主義経済のトリクルダウン教条主義だと愚測する。新自由主義は競争の強制力を社会進化の推進力とする。これは明治維新の賊軍が自己を正当化するために掲げた「勝てば官軍」と同根の発想だ。この自己正当化が組織の指導階級のモラル崩壊を誘発してきた。その先にあるのが強者支援と弱者切捨てに象徴される自己責任論だ。さらに悪しきは、公共財を市場化して収奪し社会福祉を個々人の責任に転嫁するのが経済合理性だという強者の論理である。このような論理を支持する金権政治屋とその取り巻き連中を国民はグローバリズムの先導者として特権階級へと持ち上げてきた。その結末が、少数の自由に大衆の自由が拘束されるという不平等きわまる自縄自縛の現状だ。

COBID-19が蔓延するなか、がむしゃらに東京オリンピックを強行する政府の姿勢が、人命より経済を優先する金権政治の象徴と言える。 バブル崩壊から三十年いまだ国家ビジョンを打ち出せず対米追従だけの無為無策の為政者、公益の私益化と私費の公費化を当然のルールのごとく、私利私欲に奔走する政財官の奸漢の横行には人倫地に堕ちたりとただ嘆息するばかりだ。

無能な統治層と強欲な政官財、彼らがその悪しき自由を貫徹すべく野合結託して打ち出した国民の為というお為ごかしの似非国家社会主義、その実は新自由主義という名の弱者に対する強者のクーデタかと思えてくる。
いや、こんな独善と主観の愚考は妄想に過ぎぬのだろうか。
ー国破れ 人倫廃れ 桜咲く
まずは己の心象風景を明確にすることを心掛けよう。