bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

ニ・二六事件 外伝(後)

3月5日この日、入院将校中の最上席者であった金岡中佐から昼食をともにしたいと申し出があり、寿はありがたくお受けした。最後の昼食をとったあと中佐あてに残した歌がある。

 ”武士の道と情を盛り上げし 昼餉の味のいとど身にしむ”

 

入院以来、寿に付き添っていた付添婦は朝から何か予感があったようで寿に終始付き添っていたが、三時過ぎに階下の事務室に下りて行った。その間隙を縫うように寿は素早く白衣を軍服に着替えて縁側から病室をぬけ出た。

 

病棟の横の低い垣根を越えて左手の山林に入ると病院との境界を画する板塀から10メートルほどのところに大きな松の木がある。

木立を通して崖下に蒼く輝く熱海湾が見下ろせる。

その松の根元に端座して東方皇居を拝し上着を脱ぎ果物ナイフを持ち作法にのっとて下腹部を真一文字に割き切り返す刃で頸動脈を突いた。一刀、ニ刀、さらに数刀が加えられた。鮮血が軍褌に滴り落ち寿の肉体はその中に崩れ落ちた。

 

病室に戻った付添婦は寿の姿が見えず、整頓された白衣を見つけると軍服がないのに驚いて直ちに院長に報告した。

院長の指示で捜索にとりかかったが院内に見当たらず構外にでた一班が自決現場を発見した。駆け付けた瀬戸院長が寿を抱き起すとまだこと切れていなかった寿は頸部を指して「まだ切れていませんか」とたずねた。院長が首をかしげるのを見て寿は鮮血にまみれた右腕を振り上げ最後の力をふり絞り一刀を頸部に加えたという。

すでに周囲に病院の人々が集まるなか院長は止血法を行おうとすると寿は「よしてください」と力ない腕を振って拒否した。

 

院長は担架を命じて元の病室に戻した。

寝かせる位置を打ち合わせる声が「北枕に」と聞こえたらしく、突然意識を取り戻した寿は大声で「皇居に向かって東向きにしてください」と叫んだ。感に打たれた人々が静かに東向きに寝かせると、満足げにかすかにうなずいて意識を失った。

寿はその後も意識をおりおり回復して「刃物が鈍かった」などと断片的に語りながら昏睡状態に陥ていった。翌六日の午前三時ごろには全く意識を失ってしまった。

 

病院からの急報で東京第一衛戍病院から田辺院長が自動車で駆け付け最後の処置がとられた。

白いカーテンを張った縁側の外が明るくなり始めるころ、脈拍を診る田辺院長から静かに臨終が告げられた。六時四十分であった。

 

割腹後、十六時間の長きにわたり生を保ちながら、一言半句も苦痛を漏らさず苦面すら呈せず従容として死についたという。

 

机の上に整然として多数の遺書が置かれていた。

和紙に毛筆でしたためられていた。そのなかに瀬戸院長あてのものがあった。

 ”あを嵐過ぎて 静けき日和かな”

 

遺書は国民、陸軍大臣、同士一同それぞれに宛たものがあった。

河野司は記す。

「この遺書三通は、自決前日、病院を訪れた所沢飛行学校副官に、死後における善処方を委嘱してあった。弟はその遺書がそれぞれの宛先に、確実に伝達されることをくれぐれも依頼し、副官もまた確約を与えたという。私もこの三通を確認し、全文を複写して手許に残した。本文は3月6日熱海分院に来院した飛行学校川原教官に託して学校に持ち帰ってもらった。その後、それがいかに処置されたかは知る術がなかったのを遺憾とする。国民に宛た遺書はぜんせん発表されなかったのはもちろん、同士に宛た遺書も獄中の同士に渡された形跡は全くない。・・・私はその後、この三通の遺書を謄写して近親と関係有志に送ったが、その一部が当局の手に入り、当時のいわゆる怪文書として追及され、以後その頒布を厳禁されることとなった」

 

追記

「たしかにニ・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった」(三島由紀夫