bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

真珠湾の罠

歴史に「もし」は禁物というが、もし大本営ハワイ諸島を手に入れ米国本土攻撃への前線基地とすることで「距離のハンデイの克服」に戦略目的(大戦略)を定める、すなわち真珠湾攻撃が海陸両用作戦であったならば、米太平洋艦隊の打撃は甚大で態勢立て直しには多大の時間を要したことであろう。そして情緒と空気が大勢を支配する日本軍は一気呵成に対米戦のみに集中し、形勢有利な隙に早期講和への活路を見いだし得たかもしれない。

しかし、大本営はこのような大戦略など考えて戦争に望んでいなかった。

陸軍は、南方のシンガポールを陥落し、フィリピン、蘭領インドネシアへ。海軍は、ハワイ作戦とイギリスの東洋艦隊を叩く。そのあいだに盟友ドイツはロシアを叩きイギリスに上陸しているだろう、そしてイギリス植民地に乗り込んだ日本は容易に自給線を確保できる。このように楽天的で他力本願の機会主義的な戦術が大本営の考えであった。したがって、奇襲作戦以降に次ぐ第二段階の戦略などまったく考えてはいなかった。

 

近代の戦争で開戦当初から陸海軍が一斉に戦線拡大する戦術を実行したのは日本だけである。ドイツ、ロシアなど大陸国家は陸軍に注力、イギリス、アメリカなどの海洋国家は海軍中心の軍事戦略をとっていた。だからこそ地勢と経済を効果的かつ効率よく活かして軍事大国となったのだ。地政学に立脚したランドパワーとシーパワーそれぞれの発展戦略である。

ところが日本軍は陸海軍が一斉に戦線拡大を計った結果、真珠湾から始まり昭和17年春までに予想外の勝利を収めた。ところが次はどうすればよいかわからなくなった。大本営が考えていたのは第一弾作戦のみで第二段階以降の作戦など立案されておらず、ましてやドイツが敗退する可能性や拡大する兵站線の確保など長期戦略などまったく考えていなかったのである。

 

そもそも日本軍の体質には大きな問題があった。軍上層部には大戦略など論じる空気はなく、それを考える人がいなかった。たとえば海軍の機動部隊の長官をハンモックナンバー1番の南雲忠一を選んだが、彼は魚雷専門で飛行機のことなぞ全く知らなかったという。また補給線を確保する兵站参謀は、陸軍大学校の成績下位の者で、成績優秀者は作戦参謀や情報参謀になり兵站参謀を馬鹿にして兵站計画など聞く耳を持たなかったともいわれる。いわゆる平時の人事そのままで戦争に臨んだのである。

 

 

戦争目的とその勝利の定義が不明確な戦争を継続し、ついには日本軍を滅亡に誘導したのは「真珠湾攻撃の成功」という不滅の金字塔であったのではないだろうか。

 

海軍軍令部総長永野修身連合艦隊司令長官山本五十六という海軍の戦略と戦術を統括する責任者は開戦前からじっくりと話すことなく何ら打ち合わせもせずに真珠湾攻撃に突入したという。山本五十六は、真珠湾攻撃が承認されなくば辞めると啖呵をきり一年半程度は暴れてみせると言ったという。そこまで言うならやらせてみてはということで真珠湾攻撃が決定されたといわれる。

 

陸軍では中国戦線の収拾の目処がつかぬまま、蒋介石支援ルート壊滅と石油確保という一石二鳥を狙って対米英戦争に活路を見出そうとした。したがい大戦略(戦略と政略の統合)なき戦争の方針は、戦争の局面を見計らって講和のに持ち込む戦略であった。しかし、真珠湾の成功は「緒戦の短期的な戦況を長期的かつ世界的、全軍的な情勢である」とする大本営の伝統的な独善判断を助長し講和の機会を逸してしまった。

日本軍は外部に対しては論理性を無視した自己陶酔と膨張本能をむき出しに、内部では二・二六事件後に残った皇道派軍人への粛清と報復をおこない人材不足を来し二流将官ばかりの軍隊と成り果て、最期まで戦争目的が不明確なまま国家を破滅に追い込むことになった。

大戦略なくして平時の人事で戦時に臨んだにもかかわらず、日本軍は初戦で予想外の戦果を挙げた。大本営はこの局地的な戦局をすべての戦線にわたる戦局情勢と判断して兵站を無視して戦線拡大を続けた。日本軍の独善的な主観判断はミッドウエイ海戦など戦術の失敗による敗戦であるにもかかわらず問題の本質を隠蔽したまま、楽観的で非自律的な機会主義(ドイツの勝利などアナタ任せの天祐)が破綻をきたすと、転進という欺瞞の文脈が主たる戦術となり最後には死ぬことが目的の戦争にならざるを得なくなった。

問題の本質は、大本営が戦いの「目的」と「地政学」そして「人」を理解していなかったことである。この三要素を編集することで大戦略(グランド・ストラテジー)が構想されるものゆえ、大戦略なき戦争になったのは当然である。

たとえ、歴史に「もし」が存在しても所詮日本軍に勝ち目はなかったであろう。