bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

安倍元首相の国葬に異論あり。

今朝の産経新聞によると、『岸田文雄首相が14日、参院選の街頭演説中に銃撃され死亡した安倍晋三元首相の国葬」を秋に実施する方針を表明した。昭和42年の吉田茂元首相の国葬以降行われておらず、戦後2例目。

政府内にも慎重論があったが、首相が押し切る形で決断した。』岸田首相は「最初から国葬でやると決めていた。法的な問題を詰めていた」との報道。

また法的な問題については、日刊スポーツが『政府関係者によると、内閣法制局などと調整し、実施のメドが立ったのは記者会見前日の13日だった。岸田文雄首相は14日の記者会見で、国葬内閣府が所管する国の儀式で、閣議決定を根拠に実施できると指摘。

「行政が国を代表して行い得る」とも強調した。

内閣法制局とも調整済みだとして、法的には問題はないとの認識を示した。』と報じている。

 

国葬とは、「国家に功労のあった人の死去に際し、国家の儀式として国費で行う葬儀」(デジタル大辞泉小学館)だという。

とすると、国家の儀式として国費で行うからには<主権者たる国民の評価>をふまえて、そのうえで安倍元首相は国家に対する功労があったという判断をしたのだろうか。

メディアの報道ではこの辺の事情が皆目わからない。

 

民主主義の危機を叫んだ岸田首相だが、国葬の決定過程で<民主主義政治の根幹である国民の意向(民意)>は考慮されたのだろうか。

それとも安倍政治を踏襲すると公言する岸田首相は、民意など聞く耳を持たず最初から国葬を決めていたとして民意を押し切る意図であったのだろうか。もしそうであれば、民主主義政治の成立要件である「政府の政策に反対する権利の認識」と「異なる考え方の許容」、つまりその表象としての民意を測ることなき為政者の独断であり、民主主義の基本原則に反するものではないだろうか。

 

安倍元首相の死後、あれほど民主主義の危機だと騒ぎ立てたメディアが今回の国葬報道では民主主義に触れていないのも不思議な気がする。

参院選の応援演説中に起きた衝撃的な銃撃事件を多くのメディアは民主主義への挑戦として報じた。

それは国民をして銃撃死した安倍元首相をあたかも「襲撃された民主主義のアイコン」のごとき幻想と錯覚に陥らせるものではなかったのだろうか。

日本における悲劇的な死とは、人格や業績その功罪を論じることは死者への冒涜であるとして死者無罪放免、とにもかくにも死者を美化する。

それが日本の常識であり美徳でさえあるという人もいる。

昨今の日本メディアはそんな世界の非常識を助長することが仕事のようにもみえる。

 

2020年夏、安倍元首相が体調不良を理由として総理辞任の意思を表明するや否や、「可哀そうに」とコロナ対応への不満から下がり続けていた支持率が大幅上昇した。

この国民反応は、「こんな人たち」と蔑まれいっこうに給料は上がらずお先真っ暗でも今回の「長い間お疲れ様でした」といった一億横並び感情と軌を一にしているように思える。

国葬という国家行為の大義(正統性の論理)が論じられることなく感情論に押し流されてしまう国家の悲哀を感じる。