bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

シグナルとノイズ

年末を迎え一年の重大ニュースが恒例のごとく発表される。今年はどのメディアでもロシアのウクライナ侵攻がダントツでランク一位である。この事態が発生する可能性は昨年末から予想され二月になるとウクライナ国境へのロシア軍隊の集結が頻繁に報道された。この時点でウクライナ侵攻は予測可能なリスクと世界は見ていたように思えた。しかし日本国内では不確実性論が大勢であったように思える。

ある事象をシグナル(警報)と見るか、または単なるノイズ(雑音)と見るか。

人はどのようにしてその際を見分けるのだろうか。

台風や大雪などの気象予報いわゆる自然現象に関する情報はほとんどの人がシグナルとして大きな疑問を抱かずに受け入れる。いっぽう株価や為替などの経済情報いわゆる社会現象は人により景気動向のシグナルとして受け取るケースもあればノイズとして無視する場合もある。

アメリカの統計学者、ネイト・シルバーによると、経済予測の失敗の多くはシグナルとノイズの混同、錯誤によるものであるという。たとえば米政府は45,000もの経済統計を発表する、これらのデータをすべて組み合わせて検証しようとすると10億の仮説を検証することになる。しかし経済の因果関係を示すものは桁違いに少ない。それでも相関関係から予測を試みるのだから錯誤が生じるのは当然かもしれない。またデータが多いということはシグナルを見失うことになりかねない、そしてデータにどれだけ多くのノイズが含まれているのもかわからない。そのため最新のデータに重点を置きすぎるというバイアスがかかるようなのだ。

さらにデータの精査や検証において彼らの関心が原則やモデルにしか向かわないときに予測は失敗に終わることが多いという。

 

最近思う事だが、社会的な事象に関するシグナルとノイズの混同、錯誤が世論を分断しているような気がしてならない。

例えば、北朝鮮日本海に向けた弾道ミサイル発射や中国海警局の艦船が日本領海に侵入したというニュース。

このニュースに関連するデータ取集や分析に特化した人たちつまり国際政治学者や安全保障専門家がなんと言っているか。彼らが異口同音に北東アジアの安全保障に関して予測される危機として指摘するのは、中国による台湾への侵攻や朝鮮半島における南北間での軍事紛争であるという。しかし、これらの危機と関係なく日本だけが突然周辺国に攻撃されるという事態の発生を予測する専門家はまずいない。

このような客観情勢にもかかわらず、日本国内で行われている防衛議論は、北朝鮮が突然日本だけにミサイル攻撃をしてくる事態や、中国が台湾への侵攻時に日本の南西諸島に必ず上陸作戦を行うという事態を想定したものになっているのである。

 

そこで、このニュースから北朝鮮や中国が対日侵略を図っておりそのシグナルであると見る人もいれば両国家権力の示威パーフォーマンスでノイズに過ぎないとみなす人もいる。 

日本侵攻のシグナルと見る人は「力には力」で対抗すべしと国防強化を唱え、ノイズとする人はまず「話し合い」という。

なぜこのような違いがうまれるのだろうか。

「力には力」という人の多くは、自分は暴力的ではないが北朝鮮や中国という国はいまだ野蛮で暴力的な可能性がありうる、そのため対抗上武装して自衛せざるを得ない、いわゆる心理学的にいう「他者に投影された暴力性」という課題に拘束され脱却できない状態にあると思える。この思考の根底にあるのは利己的な遺伝子(行為者の意図にかかわらず他者を忌避して成功率を高める排他性)であり行き着く先は、「主観と独善による独断を客観的で合理的な判断である」と主張して止まない。いわば利己的ポピュリズムであろう。

いっぽう「話し合い」とは力(武力)や勢力には関係なく他者の多様性を理解することで成立する友好と平和を目的するもので、思考の原点は「利他の精神」であり行き着く先は利他的グローバリズムというものになろう。

シグナルとノイズの見分けの相違は、その人の「多様性に対する理解の寛容度」が一つのポイントかと思えてくる。

最近のゼレンスキー大統領の言動をみるに利己的ポピュリズムに陥っているように私は思えてならない。

 

追記

「戦争は進行して行く有期限の過程である。平和は状態である。」

一般に過程は理解しやすくビビットのあるいは理論的な誇りになる語りになる。

これに対して状態は多面的で名付けがたく語りにくくつかみどころがない。

一般に戦争には自己収束性がないから戦争の準備に導く言論は単純明快簡単な論理構築ですむ。

人間の奥深いところ人間の生命感覚にさえ訴える誇りであり万能感さえ生むものであり戦争に反対して

この効用を損なうものへの怒りが生まれ違い感さえ生じる(中井久夫