日本人ファーストは差別主義だなどとの声に対して「なぜ日本人ファースト・愛国心がいけないのか」という反論が返されています。
この反論の持つ重さ、それはいかなる反論・異論をも抹殺してしまうほど日本人を金縛り状態つまり思考停止状態にしてしまいます。感性と知性との垂直統合化をおこなう呪文なのです。たとえば戦前の「忠君愛国」戦後の「企業戦士」「愛社無罪」という唯我独尊の集団発想を惹起して暴走しかねないのではと危惧されます。
論理的かつ知性的な日本人が考えれば、自国民・自国を愛することは論を待たず当然のこと、問答無用で終わり、ということになるのでしょう。
しかし、私たちが「愛国」を語るとき「国家」とは何かを定義して考えているでしょうか。
こんなことを言いだすと無知で知性のない奴、それでも日本人かといわれるのがオチです・・・。
無知とは知識のないことではなく知識の軽重分別と編集技能が不得手なことであり、反知性とは知性一辺倒の知性至上主義に疑義を呈する知性のことだと私は思っています。
そんな観点から「日本ファーストと愛国」なる「反知性的雑感」を書いてみたわけです。
私は「日本人ファースト」を否定しているわけではなく、このような自尊活動は結構なことだと申しあげ、しかし謙虚を忘れないようにと注文をつけました。
愛国について、三島由紀夫さんの持論を引用したのは以下の理由です。
国家の一員である私たちが、自分だけ国家から離れた位置でこの国を愛するというのは、国家を愛玩物のごとく扱うことではないだろうか。世に愛妻家はいるが愛国家など聞いたこともない。
これが三島さんの論理です。
愛国を論ずるに、そもそも国家とは日本国のことを言うのかそれとも普遍的概念としての国家なのか区分して考えるべきだと思います。
日本のことであれば、われわれは国家の一員であって、自分だけがそこから離れて高みに立ってこの国を愛するなどというのは、傲慢なのかもしれない、思い上がりかもしれないのではないでしょうか。
もしわれわれが国家を超越していて(国家とは普遍的な概念であり客体として客観認識)国というものをあたかもペットのごとく愛するというのなら、
筋が通る話でありましょう。
しかし、国家とは日本のことであるなら、国家は犬でも猫でもないのですから、そのようには突き放すことはできないでしょう。
もし普遍的概念を意味するものとして国家を語るのであれば、アメリカ人も日本人も同じような普遍的な愛国心持っているはずですから、日米戦争など起こらなかったのではないでしょうか。
一方、三島由紀夫さんは、愛国心は国境による擬装であって、それゆえ、アメリカ人もフランス人も日本人も同じような愛国心があるとするのは欺瞞だと断じました。
また「国家」とは、自分と切り離した対象だから「愛国」だと言えるという人がいます。
しかし、「国家の構成員」であり、その中に包含された人が「愛国」というのは国を超越した「傲慢な言葉」ではないでしょうか?
いずれにせよ、日本で語られる「愛国心」とは、そのほとんどが「日本国愛」であり、愛とはいいながら、自国しか愛さないのではないでしょうか。
「自国愛だけに酔っている」のではないでしょうか。
そもそも「愛」という言葉は日本語ではなく、たぶん「キリスト教」から来たものではないでしょうか。
もし、「キリスト教的な愛」ならば、「無限定無条件の愛」でなければならないはずで「自国愛」なるものが存立する余地などありえないでしょう。
また「 愛する対象」が人であれば、その対象は愛人。恋する対象は恋人です。
愛人と恋人、比較すると日本人の情緒的表現の最高のものは愛ではなく、「恋」であると思います。
その証左が「恋闕」という言葉が日本に存在することではないでしょうか。