高市首相は、国権の最高機関である国会、その召集日冒頭に衆議院解散を表明しました。
「高市早苗が、内閣総理大臣で良いのかどうか、今、主権者たる国民の皆様に決めていただく、それしかない。
そのように考えたからでございます。 『日本列島を、強く豊かに。』今、着手しなければ、間に合いません。」
本来であれば国会で諮るべき審議案件について与野党の主張と議論を踏まえたうえで、政府の信を問うのが民主主義政治の本筋だと思います。
ところが、高市首相は政府ではなく首相個人への信を国民に問うというのです。
首相としての能力も実力も分からぬのに「私で良いか決めなさい」それしかない、と問答無用で国民に質すに等しいものではないでしょうか。
トランプ大統領を彷彿とさせるような話です。
さらに問題は、高市首相への信認投票をするためには自民党か日本維新の会所属の立候補者へ投票するしか方法はありません。
この場合に、投票対象は立候補者ではなく高市首相個人への投票(信認)とみなされるのでしょうか。
「民主主義の根幹である選挙」(解散表明で高市首相が唯一口にした民主主義という言葉)はこれでいいのでしょうか。
高市首相の言動からは、民主主義からの逃避と強権政治への願望が垣間見える気がしてなりません。
なぜなら、アメリカから学んだ民主主義が(クーデターによらず)独裁に変わる「とき」が私はあるような気がするからです。
それは、為政者の口から「選挙で勝ったのだから何をしてもいい」、「民意を得た『正義』だからとして反対意見を無視し、「敵」や「非国民」という言葉を使ったとき。「緊急だから」「今だけ」と言って規則を捻じ曲げて主張を押し通したとき。 メディアが政府を忖度して「監視と説明」から「体制の翼賛と代弁」に機能変更したとき。
総じて為政者が国民に成り代わり政治の主語となる論法を展開し始めたときです。
このような「とき」を政府は小泉政権から継続して作り出して、国民の思考を刹那的で狭窄的視野へと転換してきたのではないでしょうか。
国権の最高機関である国会、その召集日冒頭に衆議院解散を表明しました。
「高市早苗が、内閣総理大臣で良いのかどうか、今、主権者たる国民の皆様に決めていただく、それしかない。
そのように考えたからでございます。 『日本列島を、強く豊かに。』今、着手しなければ、間に合いません。
本来であれば国会で諮るべき審議案件について与野党の主張と議論を踏まえたうえで、与党政府の信を問うのが民主主義政治の本筋だと思います。
ところが、高市首相は政府ではなく首相個人への信を国民に問うというのです。
首相としての能力も実力も分からぬのに「私に任せなさい」それしかない、と国民に質すに等しいものではないでしょうか。
トランプ大統領を彷彿とさせるような話です。
さらに問題は、高市首相への信認投票をするためには自民党か日本維新の会所属の立候補者へ投票するしか方法はありません。
この場合に、投票対象は立候補者ではなく高市首相個人への投票(信認)とみなされるのでしょうか。
「民主主義の根幹である選挙」(解散表明で高市首相が唯一口にした民主主義という言葉)はこれでいいのでしょうか。
高市首相の言動からは、民主主義からの逃避と強権政治への願望が垣間見える気がしてなりません。
なぜなら、アメリカから学んだ民主主義が(クーデターによらず)独裁に変わる「とき」が私はあるような気がするからです。
それは、為政者の口から「選挙で勝ったのだから何をしてもいい」、「民意を得た『正義』だからとして反対意見を無視し、「敵」や「非国民」という言葉を使ったとき。「緊急だから」「今だけ」と言って規則を捻じ曲げて主張を押し通したとき。 メディアが「監視と説明」から「体制の翼賛と代弁」に機能変更したとき、総じて為政者が国民に成り代わり主語となる政治論法を展開し始めたときです。
このような「とき」を政府は小泉政権から継続して作り出して、国民の思考を刹那的で狭窄的視野へと転換してきたのではないでしょうか。
今回の高市首相の解散表明の意味するところ、それは日本国民に大きな岐路選択を迫る選挙だと考えます。
すなわち日本がアメリカ(との一体)化に邁進していくのか、
それとも曲がりなりにも民主主義社会に踏みとどまるのか。