半年ぶりに田舎の温泉街で年上のゴルフ仲間と痛飲した。
妻を早くになくした彼の住まいはその温泉町の相模湾を一望する楕円形のマンション最上階にある。
その部屋で彼はアザミちゃんという名の老犬と暮らしていた。
昔その名の由来を尋ねたことがあるが彼は照れ笑いをしただけだった。
海に面した部屋の大きな窓の前には古びたグランドピアノが置かれていた。
彼の母親は子ども相手のピアノ・レッスンで生計を立て一人っ子の彼を育てたという。
母が夫の戦死を聞かされたのは彼が2歳の誕生日を迎えた終戦間際だったという。
海軍に騙された父の戦死だと母は言い続けたらしい。
グランドピアノは陸軍士官に嫁いだ音大出の母の形見なのだ。
一緒にプレイしたゴルフが終わると風呂には入らず彼はマンションに直行した。
そして帰りを待つアザミちゃんを海辺の散歩に連れて行くのだった。
私も風呂は使わず山際にあるマンションに戻り温泉で汗を流す。
そして散歩からアザミちゃんが戻る頃合いを見計らって彼の部屋を訪ねるのだった。
ドアを押すと彼の奏でるショパンとともにアザミちゃんが膝元に飛び込んでくる。
アザミちゃんをソファにすわらせ相模湾に沈む夕陽をながめながら冷えたシェリーを酌み交すのが常だった。
そんなアザミちゃんがひと月前に亡くなった。
直後に彼からのメールで知らされた。
慰めの言葉も見つからぬまま今日まで来てしまったのだった。
アザミちゃんの思いで話も尽き閉店時間だと告げられ席を立った。
ドアを開けると季節外れの雨だった。
バーカウンターの隅で私たちの話を聞いていた店主が背後から傘を差し出した。
傘を手にして彼が誰にともなく呟いた。
「アザミちゃんが居なくなって帰り時間を気にする必要がなくなったよ…」
その声は気丈夫には聞こえなかった。
そぼ降る雨の中へと少し左肩を落とした彼の後ろ姿は消えていった。
半開きのドアから有線放送が流れていた。
"雨の降る夜は 何故か逢いたくて
濡れた舗道をひとり あてもなく歩く"
(「雨に濡れた慕情」)
タクシーを呼ぼうと思ったが思い直して雨の夜道を歩き出した。