bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

確定申告と納税義務

納税は義務なのか

 

報道によると確定申告会場で自民党裏金事件への怒りが噴出し、SNS上では「#確定申告ボイコット」がトレンドワードに急浮上スタという。些細な不備でも再申告をして課税される国民に対し、政治家の「政治資金」は非課税の聖域で使途不明の裏金は無税というのでは国民の不満が高まるのは当然だろう。

 

私ごとだが、確定申告を始めたときから疑問に思うことがあり、何度か当局に問い合わせたが確たる回答は得られなかった。その疑問とは、納付金(納税)の使い道の明細である。今回の裏金問題も使途が不明であることが主要な争点であろう。

 

人はだれしも額に汗して得た収入から出費をするときには、わずかな金額でも注意を払い削減を図るものだ。しかし納税については支払いに関する疑問すら持たない人が多い。

憲法30条に「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」とあるためか、

納税は国民の義務なりとアプリオリに思い込んでいるようだ。

こんな国民心理を見透かしているから、国会議員はやりたい放題あとは頬被りで一件落着が繰り返されるのだろう。

 

納税は国民国家の租税制度に起因するが、そもそも租税とはいったいなにものか。

「租税とは国家が市民に提供する生命と財産の保護への対価であり、国家が財産、生命を脅かすなら納税停止だけでなく革命権を市民は保持し、あくまでも個人が議会を通じて同意した上で国家に支払う。」*

これが租税の根源としての考えである。ルソー的にいうならば国民と国家の双務契約である。つまり国民には納税義務があるが、いっぽうでは国家に説明責任が存在する。

ところが、いまの日本では国民の合意なく国会での議論も経ずして増税が立て続けに行われ、国民税負担率は過去10年足らずで10%増加いまや50%に近い。

国家つまり政府の説明責任は放置されるが、国民の納税義務だけは存在する片務契約という異常な状態になっている。

法律は順守するものだが、法の前には「物ごとの道理」というものがある。

政府が説明責任を果たせないなら、国民は納税停止を実行する権利がある。

私たちはこの租税思想と道理とを改めて認識すべきであると思う。

 

これが17世紀英国市民革命を経てホッブズ、ロックの手で形成された租税の思想はドイツにおいて財政目的のほかに社会政策目的が追加され、米国ルーズベルトにより租税を全面的に政策手段として用いるニューディル政策へと変遷して政治的な重みを増した。

しかしいまや経済のグローバル化により日本の課税能力は移動性の高い所得源に対する能力を喪失しつつあり移動性の低い税源への依存度を高めている。このような状況において租税制度における受益と負担の関係を国民国家という狭い枠組みで完結的に考えることは不条理で無理がある。この状況はグローバリズム国民国家のジレンマに直面して葛藤から免れ得ない民主主義に似ている。ピケティの唱えるように国民国家の慣習を超えて金融取引税や国際連帯税を考慮したグローバルな規模での租税制度を考えていくべきと考える。