bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

自民党総裁選に思う。

菅首相の退任表明に端を発した自民党の次期総裁をめぐる選挙が9月29日に行われる予定である。

総裁選の立候補者については毎日のように報道されるが、どなたの意見を聞いても語ることは枝葉末節の目的がみえない戦術論ばかりである。

やがて首相として国の統治者になるのだから、まず国家のビジョンを打ち出しその戦略を語るべきである。思えば中曽根元首相以降、国家のビジョンなど統治者から聞いたことがないのが日本政治の実態である、高望みはすまい。

このような選挙に当選した自民党の総裁が、日本の首相になるのだが自民党総裁選に投票できるのは自民党所属の国会議員383名と全国の自民党の党員、党友383名との合計766名にすぎない。これだけの人数で国家の統治者が決定されるとは、オープンにして戯画化された密室の談合政治のようなもので国民を愚弄した話ではないかと思う。

しかし、民主主義の原則に沿って執行された国民投票の結果、自民党が多数を占め国会でも多数派だから政権を担っているのである。その自民党の規定により総裁が選任され、その総裁が自動的に日本の首相になるのが当然だといわれると納得するしかない。

 

そもそも民主主義とは、市民が自由選挙で選出した代表を通じて市民としての権利を行使しかつ責任を負う統治形態というものだが、いくら美辞麗句を並べようと所詮は数の論理による統治形態である。

統治者と被治者である市民との間を媒介するのが選挙で選ばれた代表者であり、代表者は市民の意見を代表して国会に参加する。国会では各代表者は自己の意見を通す為に同様の意見を有する代表者と徒党を組んで政党を結成する。国会では政党は意見を貫徹するためには多数派となる必要がある。

市民の意見や権利は政党を通じて実現されるというが、これは多数派の政党に関しての話であり少数派はときどきおこぼれにあずかるだけである。

これで何とか日本は回ってきた。

ところが、いまや市民権利を代表する政党の機能は衰えて消失してしまっていることが大きな問題である。

なぜなら、グローバリズムとデジタル化により社会が液状化してしまい政党は社会の輪郭と特徴を把握したコミュニテイのセグメンテーションができなくなったからである。増加する一方のサイバーコミュニテイなどカオス化した個の見えざる集合体であり、市民像をイメージすることさえできない。その結果として社会と政治との接点という政党の機能を果たせなくなっているからである。

したがい、国会が法律の発議や起草をする場ではなくなり、主要な機能は与党は多数決で政府を支持し野党は政府の座を奪おうと非難に傾注する、ということになっている。

その行く着く先は、次のようなことになる。

与党は権力者に継続的な正当性を付与するだけの目的で戦い、野党は権力者の失墜を準備する。つまるところ、政党は市民の主張を統治者に対して代表することよりも、統治者の主張を市民たちに代表することになっているのである。

このような民主主義のファッショ化、専制化は今にはじまったことではなくヴァイマール憲法下のドイツ以来、民主主義の不治の病といえよう。

この解決策として、フランスをはじめとして諸国では統治者を別に選出する大統領制に切り替えているのであろう。(アメリカの大統領制は経緯が異なる)

日本が欧米諸国に遅ればせながら、民主主義の危機に至ったのは、戦後の優秀な官僚が作り出した中間層が復興経済のおこぼれに等しくあずかり平等と自由の幻想に長らく浸れ弥縫策で民主主義がもってきたからであると思う。

ロシアからの難民に思う。

先月末に北方領土国後島から泳いで北海道に渡ってきたとされる

ロシア人男性は、札幌出入国在留管理局に対し難民認定申請をしていた

ことが明らかになったとNHKが報じています。

 

入管難民法では難民申請の手続き中の外国人は送還が停止されるため、

当面は日本国内にとどまることになるとのことです。

 

この報道を聞いて思ったことですが、このような政府対応は何ともおかしな話だと思います。

なぜなら、日本は一貫して北方領土はロシアの領土ではなく自国の領土だと主張していきているからです。

そうであれば、国後島から泳いできたロシア人男性は国内での移住つまり引っ越しと定義して、転入手続きを取らせるべきだからです。

 

この報道と同じ頃、ロシアのプーチン大統領ウラジオストクで開催した東方経済フォーラムで演説し、

北方領土に日本企業などを誘致するための特区を創設すると表明しています。

 

北方領土問題について安倍前首相は、在職中に約30回もプーチン大統領と会談しましたが

事態を一歩も前進させることができませんでした。

報道機関のみならず野党も政界もこの問題を追求する様子はまったく見られません。

私はこのまま為政者の政治責任を放置しておくことは、民主主義政治を危うくするものだと思います。

 

デジタル庁の発足に思う。

本日の朝日新聞は、1日に発足したデジタル庁の事務方トップを務める石倉洋子・デジタル監(72)が、自身の公式ウェブサイトのブログで、画像素材サイトの画像を利用規約に違反して掲載。報道陣とのグループインタビューで無断転載を認め、「私の不注意だった」と謝罪したと報じている。

 

石倉氏は経営戦略が専門の大学院教授で特にデジタルに明るい人ではないようだ。なぜこのような人がデジタル監に任命されたのだろうか。どうも幾多りかの候補者は居たものの間尺に合わずデジタル庁発足に間に合わせた窮余の人選のようである。

 

9月1日に発足したデジタル庁は、そもそも菅首相肝いりの国家戦略であり、平井デジタル大臣は一年も前にデジタル改革担当大臣に就任し「デジタル改革を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当して来たはずである。それにもかかわらず事務方の司令塔ともいえるデジタル監の人選が遅れ開庁直前の任命となったのでは、スタートから問題含みと言わざるをえないようだ。

 

デジタル庁のホームページをみると以下のようなミッションとビジョンが掲げられている。

「ミッション」
誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化を。

一人ひとりの多様な幸せを実現するデジタル社会を目指し、世界に誇れる日本の未来を創造します。
「ビジョン」
Government as a Service

国、地方公共団体、民間事業者、その他あらゆる関係者を巻き込みながら有機的に連携し、ユーザーの体験価値を最大化するサービスを提供します。

Government as a Startup

高い志を抱く官民の人材が、互いの信頼のもと協働し、多くの挑戦から学ぶことで、大胆かつスピーディーに社会全体のデジタル改革を主導します。

 

どう読んでも具体性のない抽象的な観念論の羅列にすぎず、これではデジタル化により現状がどう改善改良されるのかまったくイメージできない。そもそも国民という言葉が一言もあらわれず主権者不在で官制目線からのお題目と言わざるをえない。

 

いまや太平洋の対岸ばかりでなくわが国が見下してきた近隣諸国からさえもデジタル勝鬨の声が日ごとに大きく聞こえてきた。そこで取り敢えず見切り発車したものの、明確なビジョンと戦略を欠いたままでは、やがて官僚機構に取り込まれ結局は血税を使い新たな天下り先という箱ものを作っただけという残念な結果にならぬよう祈るばかりである。

 

アフガニスタン政権崩壊

報道によると、 アフガニスタンでは反政府勢力のタリバンが首都カブールを包囲して大統領府を占拠、ガニ大統領は国外に脱出して同政権は事実上崩壊したとのことです。

タリバン反攻を加速させた直接的な原因はアフガニスタン駐留米軍の撤退にあるようです。

いっぽうバイデン大統領は駐留米軍の撤退は「責任ある撤退」と判断の正当性を演説でアピールしています。

しかしながら、9・11テロへの報復としてアメリカが国際的な批判にもかかわらず勝手に戦争を始めて駐留し、勝手に退去していく全てアメリカの自己都合にしか見えません。オバマ政権時のバイデン副大統領は駐留米軍の増員を推進して10万人もの派兵を行ってます。

そもそも、アメリカ軍のアフガニスタン駐留目的は何だったのか、この時点からの経緯の説明がない限り、バイデン大統領の演説は前大統領と変わらぬアメリカ・ファーストに過ぎないように聞こえてきます。

 

歌謡曲にみる汽車の意味

 汽車には、人や物の運送を担う公共の交通機関としての役割のみではなく人の喜怒哀楽を誘引する不思議な力があると思う。汽車は同じ鉄路を毎日往復するのに、人は一期一会の思い出を汽車に託して記憶する。幼い日、田舎道が鉄道と交差する小高い丘の踏切を通過していく汽車を見るのが楽しみだった。汽笛を鳴らし薄暮のなかを走り去る列車の赤いランプに、なぜかもの悲しさを覚えたものである。当時、春日八郎が唄う「赤いランプの終列車」(作詞 大倉芳郎 作曲 江口夜詩)がラジオから流れていた。その哀愁を帯びたメロデイーが私を虜にしたのだろうか。以来、ことあるごとに歌謡曲と汽車を関連付けて考えるようになった。そして歌謡曲に唄われる汽車とは「別離」と「望郷」のシンボルではないかと思うようになったのである。その背景を説明したい。

 

「別離」の象徴としての汽車がある。

別離には多様な背景を持つ別れがある。予め別れの時期も対象も定められている別れが卒業である。<二度とかえらぬ 思い出乗せて>(「修学旅行」作詞 丘灯至夫 作曲 遠藤実)と汽車の旅でクラス友達と別れていった。いっぽう戦前には強制された別離があった。突然の召集令状による家族、友人、恋人との予告なき別れだ。駅頭で夫を送り出した新妻は<いまごろあたり汽車を降りてか>(「明日はお立ちか」作詞 佐伯孝雄 作曲 佐々木俊一)と抗えぬ運命に涙した。戦後になると、焼け跡から復興した経済構造は第一次産業から第二・三次産業にシフトして農・漁村は窮乏していった。生活苦から農・漁村の若者たちは家族に別れを告げ<故郷の香りをのせて・・・就職列車にゆられて>(「ああ上野駅」作詞 関口義明 作曲 荒井英一)都会に流入した。そして若者たちは高度経済成長を支えて豊かな社会の構築に貢献した。やがて驚異的な経済の発展は<止めるあなた駅に残し 動き始めた汽車に ひとり飛び乗った>(「喝采」作詞 吉田旺 作曲 中村泰士)と、男性社会への訣別を告げ独り立ちする女性を輩出していった。しかし、過度に経済偏重する社会は、健全な人間関係を損傷していった。恋に真剣に向き合う人は<文字のみだれは 線路の軋み>(「愛の終着駅」作詞 池田允男 作曲 野崎真一)と恋人と決別し自分探しの旅に出かけ、社会のしがらみを捨て感情に素直に生きる人は、<たとえひと汽車おくれても すぐに別れはくるものを わざとおくらす時計の針は>(「女の宿」作詞 星野哲朗 作曲 船村徹)と逢瀬のひと時を切り刻む汽車の運行の正確さを恨み、時計を辛い浮世に見立て針を遅らせるのであった。所詮、この世は虚構に過ぎぬと社会に背を向けた人たちの決意と諦観とが汽車の運行に託され唄われているように思える。 

 

「望郷」(物理的な出生地のみでなく精神的な逃避先の意味をも含む)の表象としての汽車は、ひたすら「北」を目指す。

かって北国の農業従事者は農閑期になると都会に出稼ぎに出掛けた。そして春がくると故郷行きの汽車に飛び乗り<いつもじょんがら 大きな声で 親父(おとう)唄って 汽車からおりる>(「津軽平野」作詞作曲 吉幾三)のであった。人は悲しみに出会い不遇にかこつと何故か北に向けて旅立つようだ。そんな人たちが乗る汽車が北国行きの夜汽車だ。華やかさの裏の空虚な都会生活に疲れ北に向かう女がいる。<女がひとり 汽車から船に乗りかえて 北へ流れる>(「おんなの海峡」作詞 石本美由起 作曲 猪俣公章)<つぎの北国いきが来たら乗るの スーツケースをひとつ下げて乗るの>(「北国行きで」作詞 山上路夫 作曲 鈴木邦彦)。また大志を抱いて都会に出たものの夢破れ故郷に帰る若者も北に向かう汽車に乗る。<窓は夜露に濡れて・・・北へ帰る旅人ひとり涙流れてやまず>(「北帰行」作詞作曲 宇田博)。年の瀬、思いつめたあげく北国行きの夜行列車に飛び乗った女。その一途な思いは窓外の冬景色を取り込んで一片の風景画と化していく<暦はもう少しで今年も終わりですね・・・ 逢いたくて夜汽車乗るデッキの窓に・・・追いかけて追いかけて・・・雪国>(「雪国」作詞作曲 吉幾三)雪の中ひた走る夜汽車の振動と望郷の鼓動が激しく共鳴し悲壮なほどの哀切感を漂わせる。

 

 

 

 

ようやく謀略戦に勝った日本

7月23日に開幕した東京オリンピックは、日本の快進撃が続き既に過去最高の17個の金メダルを獲得しています。

心から日本選手の大活躍に大きな拍手を送りたいと思います。

 

そして、日本政府と招致委員会にも乾杯です。あの戦争で大きな敗因となったのが謀略戦の失敗でした。オリンピックの招致合戦では、嘘八百の与太話を並べ謀略戦のリベンジを果たしたのですから。

 

2013年、オリンピックの招致プレゼンテーションで安倍前首相は「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」と公言しました。また招致委員会が作成した立候補ファイルには「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と明記されました。

 

2021年の現時点でも福島原発の汚染水などの対処さえままなりません、当時は多くの被災者の方が住むところさえなく漂流状態でした。また真夏の東京がスポーツにはまったく向かぬ気候であることは、マラソンが札幌に会場を移したように日本人なら誰でも周知のことです。

このようなデタラメな話しを世界に向け発信してコロリと信用させ世界のアスリートを炎熱地獄に呼び込んだ策略は見事なものだといえます。

想定外の新型コロナ感染という助っ人も登場して海外から来日したアスリートには目に見えぬ不安感と脅威を与えていると思います。

日本の快進撃の影の立役者ともいうべきは見事な日本の謀略ではないでしょうか。

「民主主義と七不講に近づく日本の政治」

最近の世論調査によると各種選挙の投票率は50%を割るのが通常であり、いわば選挙権を有する国民の半数が政治参加をしない状況のようです。

つまり国民の半数に過ぎない参加者による多数決決定主義、その結果がすなわち全国民の意思表示だと政治断定されるのが今の日本の実態です。どう考えても納得のいかない、この状況に何ら疑問も異議申し立てもないまま承諾されているのが日本社会の不思議さは何でしょう。それは、世界が普遍的価値としている民主主義その形態さえ保てれば政治の失敗に対して国家あげて誰も責任を負わないー民主主義免罪符ー(無条件敗戦国家のルサンチマン)が原因の一つだと思います。(アメリカからの押し付けということで憲法についても同様の発想が横行しているように思います)私はこの問題の本質は代表制民主主義にあると思います。これは近代民主主義が当初から抱えてる問題です。国民主権と言いながら、選挙が終われば当選した代議員のための民主主義にさま変わりで、国民は政治的な政治への関与権を喪失してしまいます。これでは、ルソーが言うように「国民が自由なのは、議員を選挙する前だけのことで、議員が選ばれるやいなや国民は奴隷となり無に帰する」(原書のイギリス人を国民に置き換えてます)ではないでしょうか。

ちなみに、「日本の代表制民主主義の仕組みを信頼してるか」という言論NPOが行った世論調査(2019年)では、「信頼している」と回答したのは全年齢層で32.5% 20歳代は20.2%  30歳代は14.2%となっています。

したがい多数議席を獲得した党派は、国民からは全面的な信頼を得て執行権の付託を獲得したものと政権を掌握して国政の運営にあたります。そのため独断と主観に過ぎぬ判断であっても、客観的で合理性に沿ったものだと勝手に思い込んでしまいます。ここから政府の専制的政治が始まり、諦めのいい国民性はやがて専制政治を既成事実化してしまうのではないでしょうか。

とすると、私たちは民主主義を声高く叫ぶほど皮肉にも民主政治とはほど遠い専制政治を助長していくのではないかと心配になります。

私たちは皮肉にも中国の七不講ならぬ自縄自縛の世界に入り込んでいくのでしょうか。


注)
七不講とは中国共産党が2013年に各大学に通達した言論規制いや焚書坑儒でしょうか。
人文系学問の自由が大幅に制限され、反抗する教授や講師が学生に密告されて職を失うこと多数のようです。

「七不講」とは、以下七つの口にしてはならないテーマのことをいうようです。
(1)普遍的価値、(2)報道の自由、(3)市民社会、(4)市民の権利、(5)党の歴史的錯誤、(6)特権貴族的資産階級、(7)司法の独立。