bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

Jアラートに思う

Jアラートは正式名称を「全国瞬時警報システム」という。

国が、時間的余裕がない有事の際に、住民に情報を届けるために使われるシステム。

有事を察知した場合、内閣官房総務省消防庁のJアラート送信システムを使って

主に携帯電話会社と市町村の受信機に情報を伝える。

携帯電話会社は、対象エリアの携帯電話に緊急速報メールなどを送る。

市町村では、防災行政無線などが自動的に起動してサイレンが鳴り、

スピーカーから避難を促すメッセージが流れる。

一方、エムネット(Em―Net)は「緊急情報ネットワークシステム」という。

Jアラートと同様に、専用回線を使ってミサイル発射などの緊急情報を国から都道府県や市町村、

報道機関などに伝えるシステム。

内閣官房からメッセージが一斉送信され、自治体側が受信すると、

担当者が把握できるようパソコンからアラーム音が流れる仕組みとなっている。

(以上、朝日新聞デジタル4月13日より抜粋引用)

 

ということらしいが、何が違うのかよくわからない。

要は国民に対して迅速かつ正確な情報を伝達する仕組みであればそれでいいのである。

 

4月13日午前7時26分、防衛省北朝鮮から弾道ミサイルの可能性のあるものが発射されたと発表。

政府は午前7時55分に「北海道周辺へのミサイル落下」があるとしてJアラートを発出。

午前7時56分、エムネットの情報は「先ほど発射されたミサイルが午前8時ごろ、北海道周辺に落下するものとみられます。

北海道においては直ちに建物の中や地下に避難して下さい」と伝えた。

ところがである。それからしばらくたつと政府は、北海道周辺へミサイルが落下する可能性はないと訂正した。

松野官房長官は「探知の直後、レーダーから消失した」「限られた情報の中でシステムが航跡を生成したため、

国民の安全を最優先してJアラートを発出した」と説明。

岸田首相は「国民の命を最優先する観点から発出した。Jアラートの役割を考えれば適切だった」と語った。

 

国民の安全と生命を最優先することになんら異存はない。しかし「探知直後にレーダーから消失」とは何たることか。

今回のJアラート騒動で改めて浮き彫りとなったのは、岸田首相が前のめりで無節操にも進めた防衛力強化策と称する

「敵基地攻撃能力」の危うさだ

岸田首相は「敵基地攻撃能力」を、攻撃という言葉の持つ暴力性を隠蔽すべく「反撃能力」と言い換えた。

そのうえで(国民が異議を唱えがたい)「反撃能力」を持ち出し、その保有は国防上不可欠だと強調、

増税を前提に防衛費倍増予算を強行決定したのである。

 

そもそも反撃とは相手の第一撃に対して報復措置を行うものである。

しかし相手が攻撃に着手したことをどうしたら即座に察知できるのか、もし判断を誤れば先制攻撃となる危険性がある。

それにもかかわらず政府は反撃能力の行使基準をまったく示していない。

このように具体性を持った議論に基づく政治の説得性それをを欠いたまま岸田首相は防衛力増強へと突進したのだ。

 

問題の本質は松野官房長官がおこなった説明その覆い難い矛盾である。

「限られた情報の中でシステムが航跡を生成した」としながら「探知の直後、レーダーから消失した」と言い切っている。

システムに航跡の生成能力がないのか、情報収集能力が不備なのか、であればなぜ探知できたのかまったく理解できない。

こんな役立たずのシステムを前提に、どうやって第一撃に反撃するのかどう考えても不可解だ。

反撃どころか相手側の第一撃が何処に向かうのかその行方さえ日本政府は把握できていないのだ。

いまや国民からK(岸田)アラートを発出しなければならない時が来た。

 

手放しで喜べない給料アップ

物価高騰に困窮する庶民の救済と称し岸田首相自ら音頭を取り旗振りをした給料アップ政策。

かつては安倍政権も脱デフレ・景気浮揚策の一環として政府主導の賃上げを図ったことがある。

しかし魅力ある消費対象のない日本で多少給料が上がっても破綻した福祉政策や際限なき増税など

将来不安の消えない庶民の財布は緩まなかった。

そもそも物価高騰への対処策とは政治課題なのである。

しかるに政府は対策を処するにあたり全国民に対して万遍なく即効的な波及効果のある消費減税をおこなわず、

一部企業の従業員にのみ恩恵が生じる便法を企業に押し付けたのだ。

国民に給料アップという餌を見せて光明幻想を誘い統一地方選で優位に立つべく意図した政局対策ではないだろうか。

いわば物価高騰に喘ぐ国民の惨状につけ込んだパーフォマンス、お粗末な惨事便乗政治にすぎないと思えてくる。

給料アップに対応する企業の体力格差から自ずと生ずる給料アップの結果が

社会に及ぼす副作用を考えると手放しで給料アップ政策には賛同しがたい。

 

問題は二つある。

日本における給料とは世俗的倫理に近い社会的拘束性を有するものであり一度アップしたら

経済数値などを根拠にした論理では容易にダウンを説得し難い性格のものである。

さらに問題は容易に賃上げができない体質の中小企業が全日本企業のうち圧倒的な多数をを占めるていることである。

中小企業庁のデータによると、大企業の割合は全企業数の0.3%。 国内の企業数は421万社あり、

そのうち1.2万社が大企業で 残りの419.8万社が個人事業主を含む中小企業である。

中小企業は企業数で全体の99.7%、従業員数で68.8%を占めている。

 

また厚生労働省の調査(令和3年)によると、大企業の平均賃金(月あたり)は366,400円、中企業314,800円、

小企業289,000円である。賃金に反映されないフリンジベネフィットを考慮すると

大企業と中小企業の従業員の経済的な格差は歴然としている。

 

 

 政府がいくら叱咤激励しようが全企業が簡単に給料アップできるわけではない。

原材料費や物価と異なり給料は一度アップしたら簡単にダウンできないゆえに、給料アップができるのは財務余力があり

また原材料の高騰分を商品・サービス価格に転嫁できる大企業がそのほとんどを占めることになる。

いっぽう原材料の高騰など経費の増加を容易に販売価格へ転嫁(大企業の下請け競争と市場の価格競争に負ける)できない

中小企業にとって給料アップとはイコール経費アップであり経営に大きな支障をきたしてしまう。

給料アップ率を競うかごとき大企業サラリーマン経営者の高笑いの陰で全財産を抵当に入れて給料の捻出に四苦八苦する中小企業経営者がいる。

こんなことでは企業数の9割9分超かつ従業員数の約7割を占める中小企業への「弱者いじめ」ごく少数の大企業とその従業員が享受し得る

「強者の驕り」という社会を助長するだけではないか。

持てる者と持たざる者の体力格差はさらに拡大しますます日本社会の分断化を促進するに違いない。

彼方の戦火を見て眼下の竈煙が見えない政治はやがて中小企業とその従業員そして持たざる者を軍靴でもって蹂躙していくのだろうか。

 

蛇足)

岸田首相は「新しい資本主義」を唱えるが、そもそも魅力ある消費対象のない日本社会の状況で持てる国民の収入を増やしても

大多数の国民は物価高騰にとても追いつかない給料アップ(これでも中小企業として最大限)では経済が回るはずがない。

それ以前の問題として、国家ビジョンが不透明というよりまったく見えないこの国では多くの国民は将来の生活実感と

儚い夢すら持てずましてや若者は将来の生活設計が立てられない。その結果として出生率の低下という民族の再生産さえできぬ

国家存亡の危機に瀕しているのです。

問題の本質は米国庇護のもと経済一本で成功した戦後の成功体験をいまだ踏襲したままの対米従属金権政治であり、

バブル崩壊後三十年いまだ無為徒食の為政者と私利私欲に明け暮れ国富の収奪に奔走する政財官の奸の横行です。

いま国民がなすべきことは無能な統治層と強欲な政官財が野合結託した似非国家資本主義という欺瞞体制の打破でしょう。

 
 
 

ウクライナ・ファティーグ

ロシアのウクライナ侵攻から1年になる先月、米国バイデン米大統領はキーウを電撃訪問し、ウクライナのゼレンスキー大統領に戦闘車両数千両の提供などウクライナ支援を約束した。その1週間後、こんどはイエレン米財務長官がキーウ(キエフ)を訪問した。
ウクライナのゼレンスキー大統領やシュミハリ首相らと面談したウクライナの経済財政の支援などを協議したという。
大統領がウクライナ支援を鮮明にしたのに、なぜ国務長官でなく国防長官でもない財務長官がウクライナを訪問したのだろうか。
おそらくは非軍事面からウクライナ支援の具体策を経済専門家として詰める狙いがあったのだろう。
イエレン財務長官はゼレンスキー氏との会談でウクライナに対する追加支援として、12億5000万ドルを供与すると表明した。
イエレン財務長官は経済問題のみでなく汚職が蔓延するウクライナ政府の査察を行ったのではないかと私は推察している。
彼女は経済のみでなく政治学にも通じているから政治姿勢(とくにモラルとカネの問題)を把握するのに適任であろう。ウクライナ独立以来、民主化の遅れに絶望して多くの優秀な若い世代がアメリカ、ドイツなど民主国に脱出してしまったウクライナの人材困窮については以前ブログに書いた。


ロシアのウクライナ侵攻開始から1年となった2月24日、米政府は総額20億ドル規模の対ウクライナ軍事支援を新たに表明したが、この1年間で米国の支援総額は320億ドルを超えた。この膨大な支援額については米国内で懐疑的な声が上がっている。ウクライナ勝利に向けて、時間と支援の競争でウクライナ破局の前に競り勝てるはずとバイデン政権は読んでいたのだろうが、戦況は一向に先が見えずこのままでは共和党の反発が増し政権運営に支障をきたし来年の大統領選への負の影響も懸念される。そこで2月末にウクライナを訪問したバイデン大統領はゼレンスキー大統領に戦争終結を説いたのではないだろうか。


いっぽう同盟関係にあるNATOだが必ずしも米国と一枚岩ではない。
ウクライナ侵攻から3か月後、EU各国民の意識調査「ウクライナ戦争の責任はだれにあるか」(Who is
most responsible for outbreak in Ukrine?)を民間シンクタンクの欧州外交評議会(ECFR-European Council on Foreign Relations)が行った。その結果は以下の通り。(数字はパーセント)
       「ロシアに責任あり」   「ウクライナNATO、USに責任あり」
 フィンランド     90            5
 英国         83            5
 ポーランド      83            10
  (略) 
 ドイツ        66            20
 フランス       62            18
 イタリア       56            27           
またポーランド勢で41パーセントが「ロシア勢を打ち負かすことが最優先事項である」としているのに対し、ドイツ勢ではこれが19パーセント、イタリア勢では16パーセントにとどまっているなど、政府姿勢に加えて国民レべルでも認識の違いが大きいことがわかる。ECFRはポーランド勢とドイツ、イタリア勢の姿勢の相違は 「Justice とPeace」という理念で解説している。JusticeとPeaceとはまさに今回のウクライナ戦争の本質を言い当てたものだと私は思う。



ウクライナ戦争から一年経過した本年2月22日ECFR世論調査によると、アメリカ(カッコ内の数字はEUの主たる理由)がウクライナを支援する主な理由は何かという質問に対して、ウクライナ国土の保全 16%(14%) ウクライナの民主主義を守る 36%(16%)アメリカの防衛 15%(22%) 西欧の防衛 14%(26%)と報告している。
これを見るとウクライナの領土保全という大義に関心の低さが際立っている。また日本の論調と異なりアメリカ、西欧それぞれ「民主主義を守る」、「防衛」のためのウクライナ支援であるという意識の希薄さが目立つ。ウクライナ戦争から一年を経過し、ウクライナ戦争への関心とともにウクライナ支援の意義も目的さえも薄れてきているのではないだろうか。アメリカもEUウクライナ・ファティーグに陥っていると思う。

 

いずれウクライナ戦争は終わる。そこでウクライナ戦争終了後の世界はどうなるのかである。

昨年の国連総会で次のような決議案が採択されている。「安全保障理事会常任理事国が拒否権を行使した場合、総会会合を開いて説明を求める」ウクライナに侵攻したロシアが拒否権を行使し自国への非難決議案を廃案に追い込んだことから、拒否権行使の説明責任を常任理事国に負わせようとする機運が加盟国の間で高まったためであろう。

採択された決議は、総会議長が、安保理で拒否権が行使されてから10日以内に総会会合を招集し、行使した国に説明を求めると定める。説明は任意で出席も強制できないが、今後は安保理の理事国ではない国々が総会議場で拒否権の乱用を批判できるようになった。

決議案作成を主導したのはリヒテンシュタイン。「平和と安全は全ての加盟国の問題だ。拒否権のない多くの国の声を世界に知らせることが目的だ」と提案理由を述べた。決議採択後、メキシコ代表は「国連総会は発言権を得た。国連の強化に向けた重要な一歩だ」と述べた。今まで国際紛争の対応については安保理事国の拒否権に世界は悩まされてきた。今回の決議案でこの問題が簡単に解決できるとは思えないが国連改革に向け一歩前進であるとおもう。この提案が日本など国連の主要国ではなく小国のリヒテンシュタインによってなされたことは、ウクライナ戦争終結後の世界動向を占うものかという気がする。 またECFRは次のような世論調査の分析をしている。西欧に限らず世界中の人は米国が主導してきたリベラル秩序は消滅していくと考える。逆説的に言うと、ロシアの侵攻により新規に結束した西欧は米国が主導してきた国際化の復活を意味するものではない。米国の世界的なスーパーパワーがこれから10年継続すると考えるのは、米国では9パーセント、EUでは7パーセント、英国では4パーセントの人だけだ。そして世界の両極化がまた冷戦時代と同様にやってくると多くの人は推測する。両極は米国と中国だ。しかし、西洋(EU、US)以外の国民は両極化ではなく分断化がこれからの世界秩序となるだろうと信じている。非西洋の中国、インド、トルコ、ロシアの人々は西洋は遅かれ早やれ一極化して強力になるが覇権的にはならないと予測している。

ロシア国民の61パーセント、中国国民の61パーセント、トルコ国民の51パーセント、インド国民の48パーセントがこれからの世界秩序は多極化するか中国(または非西洋国家)が規定していくだろと予測する。なんとこの予測は米国では37パーセント、英国では29パーセント、EUでは31パーセントの支持を得ている。
西洋が予測する米国と中国の両極化に向かい重要な役割を果たすのはインドとトルコと予想される。


戦争と平和

「ひとはなぜ戦争をするのか」という本が20年以上前に刊行されています。

内容はアインシュタインフロイトの戦争をめぐる書簡交換ですが、90年前の

両偉人の意見交換はこの問題をじっくりと考えるには大変参考になります。

 

フロイドの「生の欲動」と「死の欲動」という個人の精神分析から得られた発想、

それをベースにした権力と権威が結託した国家暴力論、それが戦争の原因だとフロイトはいいます。

フロイドによると人間には死の欲動(破壊本能)が備わっておりそれを取り去ることはできない。

では戦争を防止する方法を果たしてあるのか、フロイドは一つの答えとして死の欲動に対抗する生の欲動に訴えかけることを提案します。

生の欲動すなわちエロスの欲望の表れなど人間の間に感情的な絆を作り出すものはすべて戦争防止に役立つとして二つの例を挙げます。

一つ目は愛する対象との絆、二つ目は同一化です。

一般的に文化的に洗練されてない人ほど差別主義者になりやすいと言われます。

異文化を理解することは文化の多様性を理解することでもあります。

それを充分に理解できれば異文化の人に対してもいたずらに偏見を持ったりしないし、

さらに言えばたとえ異文化に同一化することで共感しやすくなります。

それが文化の能力に期待することであり、文化は死の欲動の発動自体を抑える働きがあと指摘しています。

文化と文明の違いについて文明は科学技術的なもので文化はどちらかと言うと人文的な知識全般を指すもの。

文明の発達はむしろ人を好戦的にしている面もあります。

軍事産業の発展や大量破壊兵器の開発などは文明の帰結でこれらは

死の欲動に過剰な力を与えてしまったともいえるかもしれません。

 

また有名な中井久夫の下記の論考も参考になると思います。

「戦争は進行して行く有期限の過程である。平和は状態である。」

一般に過程は理解しやすくビビットのあるいは理論的な誇りになる語りになる。

これに対して状態は多面的で名付けがたく語りにくくつかみどころがない。

一般に戦争には自己収束性がないから戦争の準備に導く言論は単純明快簡単な論理構築ですむ。

人間の奥深いところ人間の生命感覚にさえ訴える誇りであり万能感さえ生むものであり戦争に反対して

この効用を損なうものへの怒りが生まれ違い感さえ生じる(中井久夫

 

そして「力には力」「武力なき外交の無意味さ」論については、

斎藤環のいう「他者に投影された暴力性の問題」が参考になると思います。

自分は暴力的な人間ではないが他者がいまだ野蛮で暴力的である可能性がある以上、

こちらも対抗上武装して自衛するしかない。

 

このように相互に攻撃性を投影し合う状況が日本において安保法制化以降の

防衛増強論の展開を後押している大きな根拠であると私には思えます。

 

文化の目的とは常にいかなる場合にも優先されるべき価値として個人の自由、権利、尊厳が

必然的に導かれるものであり、私たちは世界史レベルで見ても最高度の文化的な平和憲法を抱いています。

フロイトさえも考えつかなかった戦争解決の手段すなわち戦争放棄の人間が燦然と輝いているのではないでしょうか。

 

いま私たちがやるべきことは異文化との「対話」だと思います。

有事と戦争ー建国の本義を忘れるな

ロシアのウクライナ侵攻に端を発して台湾有事や北朝鮮のミサイルなど我が国の国防議論が活発化しています。そこで気になるのは国防が即戦争に結び付ける論議が大手を振ってまかり通っていることです。

 

歴史を遡れば、 日本国憲法公布(1946年11月3日)直後の12月1日に民衆(国民)への憲法普及を推進するため帝国議会内に「憲法普及会」が組織されました。

会長は芦田均ですが、理事の横田喜三郎戦争放棄と平和について次のように語っています。

「日本は今まで自衛行為と称して実は露骨な侵略をしばしば行ってきた。満州事変がそうであるし支那事変もそうである。

従って、世界では日本の自衛ということはだれも信用しない。日本が憲法で紛争解決のために戦争は放棄するが自衛のための戦争は差支えないといえば世界はまた日本が満州事変や支那事変や太平洋戦争のようなことをやるつもりであろうと疑います。

・・・つまり自衛の戦争といえども今後は戦争をいっさい行わないつもりであるというのが一つの理由であります。

もう一つの理由は、今後の国際社会においては各国が自分勝手に自衛であるとかないとか決定して、自衛ならばやってもよいということは

計るべきものではない・・・。」

これが平和憲法の基本精神です。

 

その後、国体は菊の御紋から星条旗へと代わり実態的な植民地となっても日本は平和憲法を遵守してきました。

そしてアジア諸国をはじめ世界の多くの国々では日本(平和憲法)への尊敬の念を抱き続けていると思います。

戦争とは敵国憲法への否定行為であるとルソーは言います。

平和憲法(日本)を否定する戦争、そんな戦争を内外で煽る軍備強化論、このような(平和憲法の)精神のデフレスパイラルを是正する

国民的な規模の議論が必要でした。

しかし、政権維持のため政府の対米追従はその度合いを強めるばかりで遂に岸田首相は宗主国を訪問し日本は星条旗の盾のみならず矛ともなることを宣言してしまいました。 これで多くの国の信頼を失ったことでしょう。

満面笑みを浮かべたバイデン大統領は首脳会談後の共同会見には顔を見せませんでした。

用済みの悲哀を感じたのは私だけでしょうか。

 

社会が変わってしまう

「性的マイノリティ」への差別発言をした「首相秘書官」。
その発端は、「LGBT理解増進法」。
報道によると、岸田首相は、この法案により「社会が変わってしまう」と発言をしたようです。
国会では、「首相発言」をめぐり、野党が首相にその「真意」を問い糺していました。

 
こんなことで社会がかわるとは、なんとも呆れてししまいます。
どうもこの国の政治家は揃って「茹でガエル」状態のようです。
 
すでに社会は変わっているのですが・・理解増進をすべきは「政治家」の皆さんではありませんか。
 
「周回遅れ」も度が過ぎると、「国際社会」から見放されかねないと余計な心配をしたくなります。

シグナルとノイズ

年末を迎え一年の重大ニュースが恒例のごとく発表される。今年はどのメディアでもロシアのウクライナ侵攻がダントツでランク一位である。この事態が発生する可能性は昨年末から予想され二月になるとウクライナ国境へのロシア軍隊の集結が頻繁に報道された。この時点でウクライナ侵攻は予測可能なリスクと世界は見ていたように思えた。しかし日本国内では不確実性論が大勢であったように思える。

ある事象をシグナル(警報)と見るか、または単なるノイズ(雑音)と見るか。

人はどのようにしてその際を見分けるのだろうか。

台風や大雪などの気象予報いわゆる自然現象に関する情報はほとんどの人がシグナルとして大きな疑問を抱かずに受け入れる。いっぽう株価や為替などの経済情報いわゆる社会現象は人により景気動向のシグナルとして受け取るケースもあればノイズとして無視する場合もある。

アメリカの統計学者、ネイト・シルバーによると、経済予測の失敗の多くはシグナルとノイズの混同、錯誤によるものであるという。たとえば米政府は45,000もの経済統計を発表する、これらのデータをすべて組み合わせて検証しようとすると10億の仮説を検証することになる。しかし経済の因果関係を示すものは桁違いに少ない。それでも相関関係から予測を試みるのだから錯誤が生じるのは当然かもしれない。またデータが多いということはシグナルを見失うことになりかねない、そしてデータにどれだけ多くのノイズが含まれているのもかわからない。そのため最新のデータに重点を置きすぎるというバイアスがかかるようなのだ。

さらにデータの精査や検証において彼らの関心が原則やモデルにしか向かわないときに予測は失敗に終わることが多いという。

 

最近思う事だが、社会的な事象に関するシグナルとノイズの混同、錯誤が世論を分断しているような気がしてならない。

例えば、北朝鮮日本海に向けた弾道ミサイル発射や中国海警局の艦船が日本領海に侵入したというニュース。

このニュースに関連するデータ取集や分析に特化した人たちつまり国際政治学者や安全保障専門家がなんと言っているか。彼らが異口同音に北東アジアの安全保障に関して予測される危機として指摘するのは、中国による台湾への侵攻や朝鮮半島における南北間での軍事紛争であるという。しかし、これらの危機と関係なく日本だけが突然周辺国に攻撃されるという事態の発生を予測する専門家はまずいない。

このような客観情勢にもかかわらず、日本国内で行われている防衛議論は、北朝鮮が突然日本だけにミサイル攻撃をしてくる事態や、中国が台湾への侵攻時に日本の南西諸島に必ず上陸作戦を行うという事態を想定したものになっているのである。

 

そこで、このニュースから北朝鮮や中国が対日侵略を図っておりそのシグナルであると見る人もいれば両国家権力の示威パーフォーマンスでノイズに過ぎないとみなす人もいる。 

日本侵攻のシグナルと見る人は「力には力」で対抗すべしと国防強化を唱え、ノイズとする人はまず「話し合い」という。

なぜこのような違いがうまれるのだろうか。

「力には力」という人の多くは、自分は暴力的ではないが北朝鮮や中国という国はいまだ野蛮で暴力的な可能性がありうる、そのため対抗上武装して自衛せざるを得ない、いわゆる心理学的にいう「他者に投影された暴力性」という課題に拘束され脱却できない状態にあると思える。この思考の根底にあるのは利己的な遺伝子(行為者の意図にかかわらず他者を忌避して成功率を高める排他性)であり行き着く先は、「主観と独善による独断を客観的で合理的な判断である」と主張して止まない。いわば利己的ポピュリズムであろう。

いっぽう「話し合い」とは力(武力)や勢力には関係なく他者の多様性を理解することで成立する友好と平和を目的するもので、思考の原点は「利他の精神」であり行き着く先は利他的グローバリズムというものになろう。

シグナルとノイズの見分けの相違は、その人の「多様性に対する理解の寛容度」が一つのポイントかと思えてくる。

最近のゼレンスキー大統領の言動をみるに利己的ポピュリズムに陥っているように私は思えてならない。

 

追記

「戦争は進行して行く有期限の過程である。平和は状態である。」

一般に過程は理解しやすくビビットのあるいは理論的な誇りになる語りになる。

これに対して状態は多面的で名付けがたく語りにくくつかみどころがない。

一般に戦争には自己収束性がないから戦争の準備に導く言論は単純明快簡単な論理構築ですむ。

人間の奥深いところ人間の生命感覚にさえ訴える誇りであり万能感さえ生むものであり戦争に反対して

この効用を損なうものへの怒りが生まれ違い感さえ生じる(中井久夫