bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

裏金問題と民主主義

自民党派閥の裏金問題はついに岸田首相が渦中の安部派幹部に対する事情聴取を始めた。

その結果として岸田首相がいかなる結論を出すのか断定はできないが、党内の罰則規定に沿った処分、重くても党員資格の停止とか選挙時の非公認に終わるだろうと報道機関が報じている。

 

裏金問題は可視化された形で統治する者と統治される者がともに国民主権者であるという民主主義の矛盾した錯綜関係を如実に浮き彫りにしたと思う。だから、国民は信憑書類の提出を義務付けられる非統治者なのに国会議員は一定額の枠内であれば信憑書類は不要だとか納税義務まで回避できるとする統治者とは、同じ国民なのに理不尽だと怨嗟の声がSNS上などで盛り上がっている。

いっぽう岸田首相は聞く耳はあるというが聞き置くだけでまったく意に介さず党内処理という自家篭絡のパーフォーマンスで幕引きを図り国民との対話など一考にも値しないとの様子。これで民主主義国家とは呆れる。

 

安倍元首相から顕著となった法解釈の強引な変更や公文書の改ざんなど政権中枢のやりたい放題はまさに国民無視の強権的な専制政治そのものである。しかし、問題は為政者よりも愚弄されるばかりの国民側にあると思われる。

 

その大きな理由は恩賜の民主主義から未だ脱皮できないことだと推測している。

私たちは口を開くと民主主義というが所詮は「投票日一日だけの主権者」が掲げる、「とりあえず民主主義」ではないだろうか。国民は自由に意見を言え振舞えるものの政権はハナから聞くつもりも見る気もなく、為政者の反応も対話も喚起することなき自由の主張は暖簾に腕押しで「自由」は無力化されてきた。日本の戦後民主主義名誉革命フランス革命アメリカ独立戦争のように自ら理念を打ち立て勝ち取ったものでない。そのためか、無力化した自由のように民主主義は所詮身につかず衰退の道をたどっているのではないのか。

 

この戦後民主主義が抱える問題はアメリカ占領下で公布された憲法前文その冒頭「日本国民は・・・この憲法を確定する」と晴れやかに宣言した文言の欺瞞にあると思う。そして、

この解決に向けて努力をしてこなかったことが強権政治を助長した大きな要因だと思う。

 

欺瞞とはなにかというと、それは次に述べることである。

この前文で言う「日本国民」が「この憲法」を確定したのであるから、「この憲法」より前に「日本国民」は存在していることになる。ところが「この憲法」(新憲法)とは明治憲法の改正手続きにより公布されたものである。したがい、前文でいう「日本国民」とは新憲法下での国民ではなく明治憲法下の国民つまり「天皇陛下の赤子」ということになる。

それにもかかわらず国民の「主権」を宣言しているのである。無条件降伏したアメリカ占領下の国つまり主権なき国家の憲法前文で陛下の赤子が国民主権を宣言しているのである。こんな戦前と戦後の体制を混交した話が憲法の前文なのである。実質的な主権者たるアメリカが天皇の命を救いその引き換えにアメリカ民主主義を下賜したのが実態でそれをあたかも新生日本の民主主義の誕生のごとくお化粧直しをしたものが前文ではないかと思っている。直截に言うならば昭和天皇マッカーサー連合国指令長官が仕組んだ欺瞞の前文である。

 

矛盾に満ちた前文から始まった似非民主主義、そのぬるま湯に浸かり、私たちは民主主義の錯覚とはき違えをいまだ続けているのではないだろうか。

民主主義の錯覚とは民主主義が内包する矛盾にある。国民はコインの裏表のごとくある時は統治者(為政者)となりまたある時には非統治者(市民)となり、この両者が国民に併存して国民主権を主張していることである。

はき違えとは、投票結果として多数派となった国会議員その全員の意思を国民の総意と認識することである。

このような矛盾と錯覚が生み出す典型は、頭から納税は国民の義務と信じている人であろう。統治者すなわち主権者が投票で選任した被選任者は非統治者ではなく統治者(為政者)となり選任者が非統治者(市民)となる、この矛盾する仕組みを成立させているのは社会契約と一般意思という虚構の取り決め、つまりフィクション(古代アテネ時代から誰もそんな契約などしていない)なのである。

統治者が社会契約や一般意思を遵守する限り、納税は国民の義務である。しかし、これらの取り決めに違反したら納税は国民の権利として保留または拒否することができる。これが統治者は非統治者でありその逆も真なりという民主主義のフィクション(取り決め)なのである。

 

民主主義の矛盾と錯覚を理解したらまず互盛央(社会思想家)さんが指摘するように、民主主義の国家には二つの国民の姿があると考えるべきであろう。

「個人としての国民」(個別意志)と「分割不能な集合体としての国民」(国民の総意)が国民の中に存在する。ここで認識すべきは「国民の総意」とはいわゆる一般意思であり個別意思の足し算ではないのである。個別意思の総計という発想は歴史を紐解くまでもなく民主主義をポピュリズム化し愚民政治にするものであった。

 

私たちは民主主義というフィクション(人権や自由などの自然権は実証が不能)の依拠たる社会契約と一般意思いわば民主主義の理念の何たるかを自らの手で明確にしないまま(敗戦の絶望と終戦の安堵に溺れたための思考放棄か)恩賜の民主主義のなかで金銭欲を異常に膨張させいつの間にか茹でガエルになってしまった。それゆえ、国民の個別意志と国民の総意との識別もできず為政者の意のまま多数主義の隷属状態に陥りながらも、いまだ虚構の民主主義の夢を追っているのではないか。

虚妄の民主主義に居座った専制政治の見直しを望むなら、政治家の資質や法律、行政などを論難することより、民主主義が内包する矛盾と真剣に向き合い矛盾の本質を理解しその解決に向け思考転換する必要があるのではないだろうか。