ロシア史を専門とするアメリカ人歴史学者の手になるハルビンの興隆史です。
20世紀の初頭、いまだかって自由を知らなかったロシアが国家システムに自由を導入しようと試みました。本土から離れた満洲に入植者を引き寄せ自由な社会を構築してロシア・リベラリズムの画期的実験を行ったのです。その宏大なる実験場がハルビンでした。
またこの試みは武力による征服制圧で中央アジアから太平洋沿岸へと領土を拡大してきたロシア帝国主義から鉄道敷設を主題とする鉄道植民地主義への方針変更といえるものでした。
そのためロシアはまずシベリア鉄道を中露国境の満洲里駅から中国領土内のハルビンまで延長する計画を実行しました。それは東清鉄道と呼ばれロシアと清国の合弁事業として始まりました。その事業の主導者はロシア軍部でも外務省でもなくなんと大蔵省だったのです。彼らは鉄道施設の目的を軍備拡張ではなく植民地経営事業として捉えて戦略の成功確率を計算しました。その結果としてのハルビンへの鉄道の延伸戦略でした。
この鉄道の完成により満洲の金蔓であった大豆の輸出集荷地としてハルビンは急速に発展しました。その経済力を背景にハルビンの寛容な社会環境は整備されリベラリズムは順調な発展を遂げていきました。多くのロシア人と中国人がそして日露戦争後には日本人が参加して文化の垣根を越えて共生していったのです。
しかしハルビンの春は長くは続きませんでした。ロシア革命、中国共産党の興隆そして満州事変と激変する情勢にハルビンは翻弄されることになります。リベラルな空気を醸成させるべくハルビンでは中央集権的な統制を回避してきました。そこが魅力の都市だったのです。しかしこの魅力とは誰が植民者か被植民者かわからぬ国際雑居地という弱点の裏返しでもあったのです。激動する周囲の政治環境に対応できぬままハルビンは日中露三つの帝国が角突き合わせる中やがて消滅していきました。
ハルビンという言葉に秋の陽のごとき郷愁を私が懐いてきたのはなぜか。大連で青春を過ごした父が語った松花江河岸に存在した東洋のパリ、ハルビン。それは父と日本の青春時代への憧れか。いまだ見果てぬリベラル馬鹿の夢なのか。中身の濃い一冊です。