bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

ニ・二六事件 外伝(前)

JR熱海駅からお宮の松に向かうバス通りをしばらく歩くと国道135号線に行きあたる。

その先に見えるのは国際医療福祉大学の熱海病院である。

駅から延びる道と135号線が合流する道路その右手からは切り立った崖がそそり立っている。

このあたり一帯が元熱海衛戍病院(陸軍病院)の跡地である。

戦後、国立熱海病院となったが、昭和39年バイパス国道(今の135号線)の開通により元陸軍病院の敷地は分断され道路を挟んで海側は国際医療福祉大学となり山側は国家公務員共済組合連合会(今はKKRホテル)に売却された。

135号線沿い山側の狭い歩道には、かすれた文字で「熱海陸軍病院裏門跡」と書かれたブリキの標識が建っている。

そのすぐ横に建っているのは「河野寿大尉自決の地」と書かれたブリキの標札である(写真添付)。

歩道から脇道に入り狭い坂道を上がると山腹を切りひらいた段々畑のような地形が現れる。後ろを振り返ると松林の間から冬の陽光を照り返す熱海湾が一望できる。

ここが河野寿大尉自決の地だ。

 

河野寿大尉は、湯河原にある伊藤屋の別荘光風荘(再建後の写真添付)に逗留していた

内大臣牧野伸顕伯爵を襲撃したニ・二六事件の青年将校で湯河原襲撃隊の隊長である。

東京の蹶起部隊と異なり襲撃隊の構成は軍民混成であった。

すなわち河野寿大尉、宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)、黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵

黒田昶(予備役歩兵上等兵)、中島清治(予備役歩兵曹長)、宮田晃(予備役歩兵曹長

民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三(無職)の合計8名であった。

事件当時の河野寿大尉は陸軍航空兵大尉、前年10月満州から戻り所沢陸軍飛行学校で操縦を学ぶ学生で単身で参加したため手兵がおらず、同志である栗原中尉から紹介された7名を率いることとなった。

 

昭和11年2月、雪の多かったこの年は温暖な湯河原でもまだ残雪が消えなかった。

光風荘は湯河原の温泉街通り伊藤屋本館とは隔たって藤木川を越した山際に位置していた。

背後は切り立った崖が迫り、北側は幾分低い崖で山林に続き、東側は狭い前庭の先が高い石垣になっており南側のみが道幅1メートルほどの通路に面していた。

光風荘には牧野夫妻のほかに、孫の和子(吉田茂令嬢)と看護婦、女中それに護衛警官数名が滞在していた。

 

2月26日午前二時、麻布第一連隊の営門を二台の乗用車に分乗した襲撃隊はまだ明けやらぬ湯の街に到着した。

ただちに所定の位置につき東京の各部隊と約した一斉蹶起の時間を待ち、午前五時ちょうど襲撃を開始した。

 

襲撃隊は玄関前で機関銃を乱射、その銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課・牧野礼遇随衛)は、即座に機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避難させた。

襲撃隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷した。

河野寿大尉が負傷したため計画の変更を余儀なくされた襲撃隊は建物に放火して光風荘を炎上させたが、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗に終わった。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡、河野寿大尉と宮田晃予備役曹長は負傷した。

河野寿大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。

(そのため民間人でありながら水上源一は、河野寿大尉自決後の湯河原襲撃隊の責任者として死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院したが、重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に運び込まれ胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。

残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容された。

 

以降、河野寿大尉の実兄である河野司の著「私のニ・二六事件」(河出文庫)の抜き書きを中心に河野寿大尉の自決に至るまでを辿ることとする。

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河野大尉の兄、河野司は東京商大を出て上野松坂屋に勤務していたが26日の号外で事件を知り「さては、やったな」「弟もかならずこの渦中にある」とピンときた。しかし弟の消息がわからぬまま27日が過ぎた。河野司(以降、司)は勤務先に欠勤届を出して翌日、所沢の飛行学校に向かった。そこで聞き出したことは、河野寿大尉(以降、寿)は湯河原の河野伯爵襲撃に向かったこと、同所で負傷したらしいこと、負傷した将校が一人、湯河原の病院に入院しているらしいということことだった。ただちに司は所沢を発ち高田馬場から東京駅経由で湯河原に向かった。しかし夕暮れ時の伊藤屋旅館で来意を告げると何も知らぬと冷たくあしらわれる。それでも何とか聞き出した町医者に向かうと治療したのは宮田という下士官ですでに去ったあとだった。他の人はどうなったか聞くが一切知らぬと突っぱねられた。だが帰りがけ、自動車の運転手から「熱海の陸軍病院に入った人がいるらしい」と聞いた。

深夜帰り着いた東京では「蹶起部隊」は「騒擾部隊」と変わっていた。

翌29日には、奉勅命令が下り、「兵に告ぐ」放送が繰り返し流された。

ラジオは東京駅発の列車はすべて運行停止と告げ、司はやむなく熱海行きを断念した。

市中に流れる「兵に告ぐ」に続く「全員帰順」の放送、いまや逆賊になろうとしている弟を案じ眠られぬ夜を過ごした司は3月1日朝八時の熱海行き列車に飛び乗った。

車中で目を通した朝刊は、事件鎮圧しすべてが平常に戻ったと報じていた。

 

熱海衛戍病院に着くと院長の軍医少佐、瀬戸尚二は物静かに司を出迎え「じつは今朝、お勤め先の方へおいでいただくよう連絡したところでした」という。

院長に導かれるまま熱海湾に急角度に迫った山腹に階段状に立った一番高い病棟に司は入った。弟の収容されている将校病舎である。廊下から日本間の病室に入る。六畳の次の間に八畳の病室、南側一杯がガラス戸越しに開け熱海湾がみえる。

院長は「どうぞごゆっくり」と室外に去った。同時に次の間に詰めていた者も(憲兵だと後で司は知った)静かに姿を消した。

「ご心配かかけてすみません」「怪我をしたそうじゃないか。でも経過が良いそうで安心した」「不覚の負傷でした。大失敗でした。おかげでなにもかもめちゃくちゃです。私が負傷をしなかったら牧野をやり損じるようなことはしなかったでしょう。東京の同志たちが逆賊になるような過誤をおかさせやしませんでした。それがなによりも一生の遺憾です」「こんな結果になろうとは夢にも考えなかったことです。無念この上もありません」司は、はっとした。寿は私を決意している。「国家のため、陛下のために起ち上がった私が、夢にも思わなかった叛徒に・・・」「叛徒という絶体絶命の地位は、一死もって処するのみです」

 

司は思った。決意はすでに決まっているが時期は決しかねているようだ。

それは負傷の経過と遺書を書き残す時間の問題である。

負傷のため腕の自由を欠いていることは自決に障害で不成功に終わりかねない。

 

兄弟の会話は一時間ほど時間が経っていた。

寿は、三島の重砲兵連隊長、橋本欣五郎大佐(三月事件・十月事件の首謀者、寿と同じ熊本陸軍幼年学校卒)からの見舞いの果物籠からリンゴを取って司にすすめた。古武士のような父や弟たちの話に花が咲いた。

ニ、三日中の再開を約して司は座を立つと「兄さん、お願いがあるんです。湯河原で死なした皆川巡査には可哀そうなことをしました。すまないと思っています。ことに遺族のことを思うと、個人としてお詫びのしようもありません。どうか私に代わって詫びてあげてください。よろしくお願いします」司は必ずその気持ちを遺族に伝えて弔問すると約束した。

 

3日の朝、戸畑の姉から上京するという電話を司は受け取った。

翌4日の朝9時過ぎに司は沼津駅で姉夫婦を出迎えて熱海衛戍病院に向かった。

通された応接室で瀬戸院長の口ぶりから司は寿の東京収容の時期が迫ってきたことを感じる。寿は朝から憲兵隊長の取り調べを受けているという。

しばらくして、憲兵隊長の取り調べが終わったと知らされ寿の病室に入った。

病床に正座して三人を迎えた寿の面持ちは三日前とは別人のように落ち着いた柔和さに満ちていた。「委細は司さんから聴きました。よく決心してくれました。残念ですがやむをえないことです。どうか後のことは決して心配しないで安心してください」義兄と姉は静かにこもごも語った。

寿は司と二人だけになると、依頼したものを持ってきたか尋ねた。司が所沢の下宿から持ち出した亜砒酸の包みを渡すと寿は「これだけですか」という。

司が首をかしげると、寿は右手を喉に擬して突く仕草をする。

寿は声を落として「私は武人として立派に切腹して死にたいと思います。せめて短刀でもと思いますが無理です。しかし見舞いにいただいたものがたくさんありますから果物ナイフならあっても不思議はないと思います」

翌朝早く、道玄坂の刃物屋が開店するのを待ちかね折り畳み式の果物ナイフを購入した司は午前十時過ぎに熱海に着いた。どうしても寿には会う気になれぬ司は姉の心つくしの下着数枚の中に果物ナイフを忍ばせた風呂敷包みを瀬戸医院長に手渡した。

「あとはよろしくお願いします」「たしかに」お互いの胸中にすべてを託して司は病院を去った。駅に向かう坂道で見上げる病室は浅春の柔らかい日差しを受けて平和に静まっていた。

東京に帰った司はその足で松坂屋に向かった。

すでに三時を過ぎていた。いまごろはもう自決を決行しているに違いない。

四時のラジオニュースを聞いたが、それらしいニュースはなかった。

帰宅すると家には近親の人が集まっていた。

六時のニュースでも寿の自決の報道はなかった。

体力の回復が不十分で果物ナイフも切れなかったのではないか、不安が覆った。

九時のニュースでも何も言わなかった。

夜十一時過ぎに横浜の叔父が玄関を開けて飛び込んできた。

熱海の病院に様子を見に行ったが、すでに寿は自決を決行した後で会うことは許されなかった。午後三時半ごろ自決を企て目下手当て中であるとのことだった。

不眠の一夜を明かした司は夜明けを待ちきれず「様子知らせ」と医院長に電報を打った。ほとんど折り返しに「河野大尉、今朝六時四十分死去す、来られよ」との官報が配達された。

義兄と司はただちに熱海に急行した。

ラジオが寿の死を報じたのは午後一時だった。

 

六日午後一時戒厳司令部発表 第八号

湯河原にて牧野伯襲撃に際し負傷し、東京第一衛戍病院熱海分院に入院中の叛乱軍幹部元航空兵大尉河野寿は、昨五日自殺を図りて重態に陥り、本六日午前六時四十分遂に死亡せり。