特攻に出撃する青年を「俺も後に続くから」と送り出した指揮官が昭和20年8月15日になったとたん「戦後復興に力を尽くすことが大事だ」と言い出す。他人に死を命じながら命を賭した約束を反古にした人間とこれを許容してきた国家、日本の戦後はどんな社会をつくってきたのでしょうか。
たしかに大東亜戦争の国家としての責任は国際法的には東京裁判で裁かれ戦争と敗戦の対外的ケジメはつけさせられました。しかし誰が見ても戦勝者に押し付けられたことが明白な東京裁判です。この裁判の判決をもって敗戦の総括だと納得した国民がどれだけいるでしょうか。ましてや東京裁判は戦勝連合国が敗戦日本国にくだした国家的制裁です。ところが日本という敗戦国家として日本の国民に対してあの戦争の敗因と責任に関する総括も説明も未だなされてはいません。それどころか謝罪の言葉すらありません。いうなれば民族国家としてのオトシマエ、心のケジメが未だについていない状態なのです。満州事変に始まり太平洋戦争敗戦まで15年にわたり建国史上最大の犠牲者を生じさせたあの戦争。その目的は何だったのか、戦略なき負け戦の政治的、軍事的責任の所在は何処にあったのか。世界にも稀有な自然派生的な国家である民族国家の日本では国家の形と国民の心が同一でなくては国の存立基盤が危ういものになります。
遅きに失してはいますがいまなら戦争経験者がまだ存命されておられいくらかは検証可能な総括が可能でしょう。あの敗戦の総括にもとづく反省から学ぶ姿勢なくしては国民的総意による国家ビジョンなど構築できず未来永劫失敗の歴史を繰り返すばかりです。
質問「あなたは、先の大戦当時の政治指導者、軍事指導者の戦争責任をめぐっては、戦後、十分に議論されてきたと思いますか。そうは思いませんか。」
・十分に議論されてきた 5.6%
・ある程度議論されてきた24.6%
・あまり議論されてこなかった 43.2%
・全く議論されてこなかった 14.7%
・答えない 12.0%
追加)
敗戦直後の昭和20年10月30日、わが国は戦争への道を自らの手で検証しようと国家的プロジェクトを立ち上げました。閣議決定で大東亜戦争調査会という組織がつくられたのです。
その第一回総会で幣原総裁は次のごとく挨拶をしています。
「今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗を翳して国際政局の広漠なる野原を
単独に進み行くのであります。けれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し
結局、私どもと同じ旗を翳して遥か後方に踵いて来る時代が現れるでありましょう。
我々はこの際、戦争の原因および実相を調査致しまして、その結果を記録に残し
もって後世国民を反省せしめ納得せしむるに十分、力あるものに致したいと思うのであります。」
幣原喜重郎内閣において幣原自らが総裁に就き、長官には庶民金庫理事長の青木得三、各部会の部長には斎藤隆夫、飯村穣、山室宗文、馬場恒吾、八木秀次を任命し、委員・職員は100名ほどという、文字通りの国家プロジェクトだった。
多数の戦犯逮捕、公文書焼却など困難をきわめるなかおこなわれた40回超の会議、インタビュー、そして資料収集。
ところが調査会メンバーに旧帝国軍人がいることをソ連が問題化した。調査結果を利用して次は勝利の戦争へと日本を誘導することを危惧したのだ。戦争調査会として目的を達するために軍人を参加させてこそ趣旨に沿うものであることは自明の理であった。
そこで占領下における連合国のメンバー米ソ中英で議論が交わされた。
最後は日本の精神的独立よりも国際的協調策を選択した米国がソ連に同調した。マッカーサーは戦争調査会の廃止を命じた。
1946年3月の第一回総会からわずか半年後に戦争調査会は調査の経緯も結論も集約することなく静かに幕を閉じたのである。