「自由と平等」は民主主義と資本主義の根幹をなす主要な共通理念だと思われます。
しかし自由と平等とはそもそも併存しうる理念なのでしょうか。
中国など一部の国を除き世界の国々では資本主義と民主主義を共存させ国家運営の駆動力として社会の近代化を図るとともに経済的な発展を遂げてきたといえます。
多くの実績が示すところ資本主義と民主主義とはイデオロギーの親和性が高いもののようです。
その観点からするといまアジアの多くの国では資本主義と民主主義のハネムーンにあるように思えます。
しかしハネムーンが遠い過去のものになったのは先進資本主義国です。
そこでは久しく倦怠期に陥り貧富二層は別居状態で経済格差の拡大化と思考の分断化を招いています。
格差拡大の原因の一つに挙げられているのが新自由主義の極限化ともいうべきハイパーグローバリズムです。
国境を越えた世界的規模での経済活動の極度の自由化が格差を拡大しているというのです。
たしかに自由な経済活動の結果は平等ではなくかえって格差が大きいほど経済的効果(利益と顧客満足度)も大きいといえます。
つまり拡大化した自由は経済的権力者への富の集中を助長する一方でかっての中流層さえも相対的な貧困層へと差別を広げつつあるのです。
人は生まれながらにして平等である、といいますが生物学的には人はだれもが
わずかに異なる遺伝子を持っており誕生の瞬間から異なる環境にさらされることになります。
したがい「生まれた時から平等ではない」格差があるということが真実なのです。
このことは先験的に誰もがわかっていながら否定することができない。
天は人の上に人を造らず・・・なぜ倫理的な響きを持つのでしょうか。
人の心の中にあるルサンチマンのなせる仕業でしょうか。
しかし格差があるから人はその解消や超越に自由な思考と行動で挑戦するのです。
格差と自由は進歩の要因であるともいえます。
いっぽう平等という観念に拘泥すると私たちは自由に考えて行動することを自ら抑制しかねません。
極言すれば自由なきところに進歩はなく平等は進歩の阻害要因ということでしょうか。
このように自由と平等は相反する矛盾した理念であります。
それを承知でなんとか個人も国家もなだめすかして共存させてきたのではないでしょうか。
二つの理念がないと民主主義も資本主義もレーゾンデートルがなくなりそうな不安がそうさせたのでしょうか。
しかしもはや共存は不可能だ、という告白を感情的に反映させているのが刹那主義的なポピュリズムであり論理的に訴えているのは自由と平等の整合性と倫理化に異を唱える反知性主義ではないかと思います。
問題を整理すると民主主義と資本主義はイデオロギーの相性が良いが自由と平等は理念の並立すら難しい。
グローバリゼーションのトリレンマならぬ民主主義のテトラレンマの問題です。
共存が困難なふたつの理念に基盤をおく民主主義と資本主義。
ここに民主主義と資本主義が直面している限界性や閉塞感の根源的な原因があるのではないでしょうか。