bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

GDP成長より気温低下。

自民党の総裁選挙は、実質的には一国の為政者を選出する選挙にもかかわらず、国のリーダーとして提示すべき国家ビジョンが語られぬまま総裁選は大義なき戦術論に終始して総裁が決定された。直後の衆議院選挙も保守政党と野党によるお定まりの馴れ合い政権奪取ゲームで投票日一日だけの国民主権という擬制民主主義の選挙は平穏に終わった。

コロナ禍に苦しむ日本はこれから岸田首相の掲げる「新しい資本主義」を主要政策として国家運営が進められるのであろう。

華々しく安倍政権が打ち出した目玉政策、アベノミクスとは名ばかりの手垢にまみれた新自由主義だった。この政策を中心に足かけ八年にわたる国家運営が続いたが、その成果といえば富裕層と大企業が潤っただけだった。その跡を継いだ菅前首相は「自助、公助、共助」を掲げたがコロナ対応で経済対策には手が回らず、持てる者への公助と持たざる者は自助なりと貧富格差の拡大を助長したのみであった。岸田首相は、新しい資本主義とは新自由主義とは異なるものだと言明している。しかし、資本主義そのものが経済政策の基盤として永続的に普遍性のあるものか疑問に思う。

そもそも資本主義の原点は負債に始まるものだ。それゆえ絶え間なき資本の増殖を継続していくことが資本の絶対的な生存論理である。
このためには資本の増殖率=利子率は当然プラスでなければならない。
アベノミクスがなんら根拠を示さず当初から2%インフレに固執したのは、利子率=利益率が2%を下回ると資本から得るものはなくなるという資本主義経済の理論と経験からきたものであろう。

安倍元首相は二年で2%のインフレ目標の達成を掲げ幾多の手段を講じたが、目標はいまだに実現はされていない。

その原因は多々議論されているが、日本経済の過去の栄光と遺産に固執するあまり資本主義の変質に気づかずデジタル革命に乗り遅れたということが大きな要因だと思う。

デジタル革命が始まる前の資本主義とは(可視化されたものに価値があるという)実物資本主義というべきものであり、空間(先進国と後進国)と時間(情報、移動)の生み出す物理的ギャップによりコモディティを交換する経済パラダイムであった。当時の利益率は2%をはるかに超え高度成長期には二桁台を記録したこともあった。
この時代は1970年代に始まり主要先進国では、資本主義は民主主義との蜜月期を迎えていた。そして1989ベルリンの壁が崩壊して資本主義と民主主義は勝利の美酒に酔い「歴史の終わり」を謳歌した。いずれ民主主義と経済発展の福音は世界に波及するかに思われた。

世紀末には経済発展のエネルギーが最新テクノロジーの普及と運送手段の効率化を世界的範囲で加速させた。その結果、時空間がフラット化された世界が出現してきた。時間と空間ギャップを利用するビジネスの利益拡大は難しくなったのである。そこでフラット化した経済の地平線に金融工学IT技術を駆使した金融資本主義が登場してきたのである。米国の全産業に占める金融業の利益比率は1980年前半までの50年間は10%であったがそれ以降の20年間では30%を超えてきたのである。

しかし金融資本主義は幾何級数的な資産膨張というブラック・ショールズの描いたユートピアに溺れリーマンブラザースの破綻を招いてしまった。また金融資本主義の発展と並行するように民主主義は新自由主義に乗っ取られ、持てる者だけの自由が横行する擬制民主主義となり秘かに政治の市場化を助長してきたのである。

いっぽう中国は国家資本主義を発展させて米国に対抗するまでの経済力とハイテク技術力を誇るに至った。まさに新しい資本主義である。


GAFA
中国経済の発展を見るに、デジタル経済とはビット量=利益だと思える。
言うなれば、アナログからデジタル経済への移行は利子率からビット量への価値転換なのである。 

ここで新たな問題が出てきた。

それは経済理論でもあまり考慮されることがなかった地球環境とくに気候変動問題である。いうなれば突如あらわれた簿外債務である。

負債を起点とする資本主義だが、いままで地球環境という自然環境を負債とは意識していなかった。無視というよりは全く帳簿に記載せず資本主義は拡大成長してきたのだ。

気候変動問題と平仄をあわせるようにESGやらSDGなどが人新世のキイワードとなったが、なにも新しい課題ではなく文明的な近代社会における当たり前のビジネス・コンプライアンスである。カネにならないので今まで放置されていただけのものだ。

簿外債務という負債返済のためには、先進国では資本主義的意味における経済成長はしばらく期待できないだろう。なぜなら化石エネルギーに代わる再生エネルギーのコストと供給の安定性がネックとなり2%インフレを困難にするからである。

経済的な成長が人間社会にとって必ずしも進歩を意味するものではないこと、そして資本増殖が常に経済発展にはならないことを認識するいい機会であると思う。

一国の成長を評価する指標はGDP成長率ではなく気温低下率となるかもしれない。