bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

それでも経済成長は必要か?

1941年ロシアの秋、破竹の進撃を続けたヒットラー軍はクレムリンまであと十数キロのところまで迫っていた。しかし例年より早い冬の到来が招いた泥濘と降雪が進撃の足を止め、世界で最も近代的な機械化部隊はその攻撃の成功にもかかわらず農業用荷車しか持たぬ歩兵部隊に頼らざるを得ない状況に陥り敢え無くヒットラー軍は敗退した。1812年モスクワ入城を果たすも

冬将軍と食糧欠乏によりロシアからの撤退を余儀なくされたナポレオンの二の舞であった。

 

この敗退の原因は兵站戦術の失敗であった。
兵站戦術とは軍隊を動かし、かつ軍隊に食糧弾薬や他の戦争必需品を補給する実際的方法である。すべての戦需品の消費量予測と補給基地から前線部隊までの搬送手段、距離などを問題に不確定要素をも加味して専門家が叡智を尽くし研究した結果の戦術それが補給線である。

 

ナポレオンとヒットラーの戦争は、その電撃作戦が敵陣に与えた衝撃が大きく攻撃は成功したかにみえた、しかし進軍速度に追いつかない補給線の限界が進撃を停止させ思わぬ敗退を招いた。

 

近世前半における戦争の戦需品は主に食糧であり前線での現地徴収が可能であった。このため補給線としての兵站戦術は戦力増強と戦線拡大策に追従すれば事足りることが多かった。


しかし近世後半以降の戦争では、科学技術の発展により兵器、輸送手段が強化され前線速度の高速化を可能にした。また科学技術はかっての食糧と弾薬のみでなく現地調達が困難な自動車、重火器、燃料など幾何級数的な戦需品の多様化と増大をもたらすことにもなった。そこで兵站戦術=補給線戦略が戦争の勝敗を左右する影の主役に躍り出たのである。

 

20世紀初頭、補給線が世界の注目を集めた出来事がある。それは日露戦争における日本の補給線である。日本側が勝利するたびに日本公債が売られたのである。その理由は、ロシア軍が後退することで日本の補給線が伸びる、その補給線リスクの方がロシア敗退の可能性より大きいと世界は読んだからである。

 

しかし日本は日露戦争に辛くも勝利した。日清戦争に続く連戦連勝は国民に神国日本の不敗神話を生み出させることになった。

いっぽうではこの神話は日本失敗への布石ともなったのである。日本軍をいや日本国民が夜郎自大になってしまった。

満州事変に端を発した日中戦争以降、日本軍の戦争は日清・日露戦への神話的信仰に執着するあまり補給線への配慮を徹底的に欠いていた、あるいは無視し続けていた。これが大東亜戦争にまで戦線を拡大し続けた大きな要因ではなかっただろうか。

 

翻って現代は金権至上主義に堕ちた新自由主義の経済戦争真っ盛り。かっては奇跡的な高度経済成長でジャパン・アズナンバーワンと世界に勇名を馳せたわが国は昔日の栄光を懐かしみ前例を踏襲するまま激動する世界情勢を横目に安逸な日々を過ごしてしまった。そして行き場のない閉塞感が充満する今の日本がある。
政府も多くの論者も日本停滞の原因は経済成長の低迷だと言う。なぜ経済が低迷しているのだろうか。需要と供給の論理から成り立つのが経済だとすれば、日本の産業界には十分な供給力はあるはずだ。問題は需要が無いのか、または需要を喚起、創出できないのではないか。そこで需要の論理だが、これはいうまでもない人の欲望の表象化である。食欲と知識欲とを比較すれば分かるように、人のモノへの欲望は有限でありコトへの欲望は無限である。アナログ経済の勝者たるゆえか日本はこんなことに気付くのが遅過ぎた。それゆえ無限の欲望を個で把握すること、つまりデジタル・ビジネスの本質がわからぬまま太平洋対岸で進むプラットフォームやデータベース構築の大競争など情報産業の傍系かという程度の認識で終わっていた。


世界の経済は、電子・金融業界を中心とするIT技術の進化がもたらしたモノのコモディティ化と情報と知識の集積化と多様化、その結果として実物経済(アナログ社会)からサイバー経済(デジタル社会)へと経済システムのパラダイム転換の激動期であろう。然るに、知の補給線〜教育と人材育成〜が延び切ったこの国では、いまだ経済成長こそ国家の生命線と叫ぶアナログ資本主義の亡霊が徘徊しているようである。 荒野と化した知のインフラ土壌にバブルの塔を建てるかの如きである。

いっぽう社会インフラは腐敗しつつ老朽化、民主主義は陳腐化して政治の専横化を看過、社会システムそのものが制度疲労を起こしている。さらに国民の道徳律の劣化は止まるところを知らぬ状況である。

 

政治の失敗、企業の無策を見て見ぬ振りをし騙し騙され続けてきた官民共謀の弥縫な延命策は知的遺産と経済資産を食いつぶし米櫃の底が見えて来た。今や万策尽きたのではないか。
国家の絶頂期に策定した政策は福祉政策を含めそのほとんどが規制緩和の美名のもと新自由主義の市場に供され、持てる者のみの自由主義が横行する国家となった。いまや中間層は崩壊して国民国家はその態を成しえず瀕死状況にあるのではないだろうか。

 

経済成長が国家至上の命題であり、そして経済成長が進歩であり幸福や善だと国民が信じ切っていた時代は昭和で終焉したのではないだろうか。

デジタル庁を作ったところで、この国にサイバー時代における国家成長の戦略を企図する能力がどこにあるのだろうか、さらに成長を支える補給線の構築が可能なのだろうか?

バブル破綻からの失われた20年それに続くアベノミクス狂奏曲すべて兵站戦術の失敗とその連続ではなかったのか?

いや、そんなことを論じる前に本当に経済成長が日本の最大課題で国民が幸福になれるのだろうか。

過去の遺物に過ぎぬ物量経済という山頂を極めてからはや30年が経過したいま、身の丈に合った知的装備を整え経済損失を最小限にとどめいったんは下山の途につくべきだろう。


そして新自由主義の呪詛を排し沈着に国家能力とその周囲環境を把握し知力と見識を磨きモノからコトへの時代における価値(叡智)創造の戦略を考えるべきであろう。
令和とは、新たなる山頂はどこか見極めて補給線を万全に整えた登山計画を胆力を持って練る雌伏の時期ではないだろうか?