bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

昭和45年という年を抉り取った歌手 1

 学生時代一年ばかり新宿西口の近辺に住んでいたことがある。
当時の西口は淀橋浄水場が埋め立てられ京王プラザホテルを筆頭に高層ビル街建設の最盛期だった。
早朝から槌音が響き建設労働者の汗が陽光に湯気を立て夕方になると駅近辺の酒屋の店先は立ち飲み酒をあおる勤労者と若者の歓声で街は異様な熱気にあふれていた。

いっぽう新宿東口側には伊勢丹紀伊国屋が立ち並ぶおしゃれな街並と繁華街の歌舞伎町が混在していた。そこから流れ出た人々が西口に向かう国鉄ガード下を抜けると戦後の焼け跡の面影を留めた飲食街ションベン横丁だ。そこは西口の肉体労働と東口の知的労働が合流する新宿の胃袋であった。

そこにいつからか藤圭子の唄が流れはじめた。

「まことつくせば いつの日か 
 わかってくれると 信じてた
 バカだなバカだな だまされちゃって」(新宿の女)

新宿の夜の繁栄を陰で支えたバカな女の恨み節はなぜか学生の身にも染みて感じられた。地方から出てきた世間知らずの青年の汗が高層建築を、同じように地方出身の女性の涙が夜のネオンをつくりだしてきたのだ。

夕食にかよった店がいまもある。当時は二階建てで調理場が二階にもありいつも繁盛していた。店の名前を付けた日本酒まで出したが再開発だという地上げ屋に騙されてしまった。いまや見るからに落ちぶれた店になってしまった。先日よったらおばあちゃんが見えない。昔馴染みに聞くと経営者はかわったようでおばちゃん夫婦は郊外に越したらしい。飲食街の名前もいまや思い出横丁となっている。

「ここは東京 ネオン町
 ここは東京 なみだ町
 ここは東京 なにもかも
 ここは東京 嘘の町」(女のブルース)
心に引っ掛かるカスレ声、それは街の明るさとは裏腹に地の底からもれてくるような御詠歌に聞こえた。

藤圭子のデビューは昭和44年9月の「新宿の女」
そして「女のブルース」は昭和45年2月だった。

(つづく)

自虐史観のどこが悪いのか。

日本が戦った大東亜戦争のおかげで多くのアジア植民地は独立することができたのである。それなのに日本に感謝するどころか逆に謝罪を要求するとは恩知らずだという人がいますが、それは日本人が言うことではないでしょう。

ヤマトタケルのように卑劣で残虐な人物が跋扈する古事記日本書紀から司馬遼太郎国威発揚に過ぎぬ坂の上の雲などの歴史物語まで、歴史好きの日本人は美しい誤解と独善で坂本竜馬のような英雄を仕立てあげ勝利の神話を紡いできました。

その挙句が自ら歴史を作り上げることなく公私ともに遺産相続をしただけで英雄気取りの現首相とその政権の思い上がりです。

敗戦後、日本人は戦争により他国に被害を与えたことを反省し二度と戦争は起こさないと誓いました。この理念を保持し表明することを自虐史観と断じて反日だ、自尊史観を持つべきだという人がいます。そんな暴論を抑えるどころか国民の声とばかり便乗しエスカレートさせているのが今の為政者です。
こんなことで実際に国が守れましょうか。

「自虐」と「謙虚」とは表裏一体であり謙虚は日本人の美徳で誇るべき文化です。
日本人は人にものを送るときに「つまらぬものですが」とか身内を「愚息」と言ったりします。であれば自国を「愚国」といってもいいではありませんか。

 

他国の文化、歴史や主張を尊重しなければ自尊は成り立たたない、たんなる主観による思い上がりに過ぎず失敗の歴史を繰り返させ亡国の元凶となる・・・
自尊をしたければ他尊をするのが筋である。

いまの地政学でいいのか。

いまある地政学とは物理的かつ政治的な国境や軍事力などヴィジブルなものを諸元とした論理構成と展開をおこなっています。

ところが物理的国境なるものはいまやインターネット網の世界的な普及により消滅しつつあります。

インターネット網はフェースブックやLINEなどSNS連携を駆使したサイバー社会を容易に構築することを可能にしてきました。
しかもごく普通の人たちが世界中から国境を越えて参加しているのです。
つまり地図の上にはないインヴィジブルな社会が毎日のように出現しているのです。もちろん消滅していく社会もあります。ただそれがわたしたちの眼には見えないだけのことです。

思想も収入も異なるが同一の趣味をもったグループから国籍も年齢も異なるが政治的志をひとつにする仲間など多種多様な社会が見えない世界ですでに構築されているのです。

サイバー社会は物理的な国境だけでなく政治的な国境も超えているのです。
このようなサイバー社会はやがてはサイバー国家というようなものになっていくことはありうるのでしょうか。
最近のクラウドファウンデイングやビットコインの急速な普及をみているとその可能性は十分ありうると思えてきます。
いま政権が躍起になっている共謀罪法案などはこの見えざる社会への恐怖に近い不安によるものかとも思えるほどです。

これが物理的かつ政治的国境を前提にした地政学の問題点の一つです。

もうひとつ問題というより課題があります。
それは第5の軍事力、サイバーテロです。
いままでの地政学では陸海空軍そしては宇宙(衛星)軍とその研究されてきましたがサイバーテロは未着手に近いのではないかと思います。
地政学を脅かすサイバー社会とサイバーテロ、その象徴的な結合はアノニマスです。
サイバー社会は参加者の自主的な合意をともなうインターネット上の接点、サイバーテロはインターネット上の悪意ある強制的な接点といえます。
これからは国境や軍事力などを前提にしたヴィジブルな地政学ではなくインターネットなど時空間を超越したインヴィジブルな接続と結合の地政学に目を向けるべきだと思います。

高等教育の無償化に反対する。

 

「高等教育の無償化」反対ですね。
日本の歴史を通じて今ほど文化が薄っぺらになり教養ある階層を喪失した時代はないでしょう。
教育と教養は別でありまた文化と近代化も別ものです。
政治的作為か否か、この識別をせずに混同させたままいまに至る戦後70年。その教育と近代化の総括をしてから議論すべきです。
過去に対して責任を取りえぬ現在は未来を展望できません。
さもなくば無辜の愚民社会を血税をもって拡大再生産するばかりです。

米中関係と「召使」

 

「中国と米国の関係は正式なものではなく、もちろん結婚ではない。同意の上での同棲ですらない。中国が単に地下室に引っ越してきて使用人として働き始めたようなものだ。そうした関係の危険性は『召使』に描かれている。主人は世間をよく知る人として社交界に出ているが、家では立場が変わるのだ。主人は召使にますます依存するようになり、召使が力を持つようになる。」これは英国のエコノミスト、チャールズ・デュマ(ロンバード・ストリート・リサーチ社チーフ・エコノミスト)の語ったものです。(Quoted in “China’s Holdings of US Securities: Implication for US
economy” a report by the Congressional Research Service, 19.Aug,2013)

 

これだけでも意味ありげなのですがさらに深読みをしてみますとこのコメントの肝は『召使』にあるようです。

『召使』は1963年の英国映画で一つ屋根の下に暮らす主従の人間関係をシニカルに描いた名画です。赤狩りで英国に逃亡した米人ジョセフ・ロージー監督が英国作家そのもののロビン・モームの小説を題材にしてロンドン生まれの貴族然としたダーク・ボガードを召使役に起用するという英国人がいかにも喜びそうなお膳立ての映画です。

デュマは中国が使用人として地下室に引っ越してきたといっていますが映画では使用人部屋は3階にあります。エレベーターのない時代に階段の昇降を厭わぬ主人など稀であったのです。
英国を含む西欧そして米国でも主人の部屋は下層階にあり使用人部屋は20世紀初頭まで屋根裏部屋とも呼ばれた最上階にあったのです。
地下室はあったとしても洗濯や物置用の部屋でした。
ということは中国が洗濯部屋に住んだとしても主人の米国はどこに住むのでしょうか。とにかく中国の上階であればどこでも良いのでしょうが間違っても3階ではないとおもいます。しかし使用人より上階に行ってしまうと下にいる使用人の動向を監視することが難しくなってきます。また外出するには階段の昇降が大変になります。

主人と召使そして建物内での上階と下階それはともに垂直関係ですが、主人と社交界とは水平関係です。家の内部での垂直線そして外部の水平線その座標軸を維持することの困難と矛盾に主人は葛藤します。こんな精神的葛藤をもたらした召使をデュマは関係の危険性と表現しているのでしょう。
さらにボガートは主人を騙して愛人を妹だと称して家に引き込んでしまうのです。やがて主人はその妹に惹かれていくのです。まるで妹という名の愛人は北朝鮮の如きです。


このような背景に浸りながらチャールズ・デュマのコメントを再読すると4年近い前の発言とは思えぬほど的確に米中関係の立ち位置を予言しており未完の戯曲を観賞するような冷めた臨場感を感じる次第です。

※ 余談ですが、20世紀初頭ベルリンに富裕層向け屋上テラス付きアパートメントが建てられ主人は最上階に使用人部屋は地下室や階下にというペントハウスの歴史が始まったということです。

 

自由から逃避する日本の若者

 
「革命」と「自由」...この二つの言葉は若者にもっとも相応しい言葉でした。ところがこの国の若者にとり革命が死語となってからほぼ半世紀こんどは自由が死語になりつつあります。
 
いったい自由とは何でしょうか。
 
他のものから拘束や支配を受けずにそのもののあるがままであること、それが自由の定義のようです。
 
しかし1足す1が0にも3にもなるのが人間社会の常であり、ものごとの定義と本質も往々にして異なるものです。
 
自由についても同様のことが言えましょう。
 
私は自由の本質とは孤独、 不安、無力感にあると思います。
 
この本質と真正面から向き合うことで若者は不可逆的な人生の意味を身をもって知るのではないしょうか。
 
昨今この国で一度でもホンモノの自由を経験をしたといえる若者はどれほどいるのでしょうか。
久しぶりの若者の社会行動と期待を持たせたのが国会前を取り巻いたSEALDSでした。あの熱気はどこに行ってしまったのでしょう。ツイッターSNSで飛び交うフェイクニュースにまたユーチューバに一喜一憂する若者たちと所詮は変わりない人たちだったのでしょうか。とても孤独や不安には耐え難いそこで同様な擬似経験で多くの若者は共生感を抱いているのではないでしょうか。
 
いまや若者の多くは肌身話さずスマホを携行してネット経由で誰かと何かと繋がっていないと生きていけないような状態にあるようにみえます。まさに自由とは真逆の常に他者と接続され拘束された状況に自らを置いているのです。
 
スマホとは自由に振舞えぬリアル社会の窒息状況から逃れる唯一の吸気孔でありバーチャルで責任感の希薄な社会との接点の様に思えます。たぶんバーチャルな世界のみで通じる責任担保が不要な偽装の自由を享受しているのでしょうか。
 
若者はなぜ現実社会での自由追求を避けて仮想世界の似非自由に光明を見出すかの如き救いを求めるのでしょうか。
 
かって自由を求めて時には不法で暴力的な行動により自由の本質を体得してきた若者が闊歩した時代がありました。彼らを育てたのは戦後の自由な空気でした。
 
ところがその空気は一転してしまいました。
いまや主観と独善を客観的合理性と言い換える反知性主義的な政財官のエリート指導層の指揮のもと自由の空気は高圧的規制ガスに置換されて若者は瀕死の状況に追い込まれています。
 
さらに民族のDNAが生み出す情緒と空気が支配する閉鎖的社会は若者の無力感を助長しています。KYなどという言葉が流行語になる社会で育った若者たちが組織や体制への異議申し立てを行い自由を主張して行動するなど無謀な自殺行為に等しいものでしょう。
 
また現代の若者は歴史からも自由の本質を賢く学んでいます。それはかって日本の若者が自由を求めて展開した労組運動、安保闘争そして学生運動など社会改革運動の惨めな敗北の歴史です。アカシアの雨に打たれた鳩は二度と青空さして飛べなかったのです。
 
若者は先の見えぬ未来に一抹の不安を抱きつつもしばらくはパンとサーカスの日々が続くだろうと信じていたいのでしょう。
それは未来を切り開くべき自由に賭ける若者の特権からの逃避を続けているに過ぎないのではないでしょうか。
 
おそらくは自由な選択がもたらす栄光の不確実性より統治体制が強制的にもたらす不幸という危険性の方が予測可能だと計算しているのでしょう。予測可能なリスクの範囲内で人生を送るために事あるごとに自己欺瞞を呪文のごとく繰り返しているのでしょう。
 
彼らにとって自由意志の発露としての政治や社会は変革の対象どころか思索の対象ですらなく自己を取り巻くあがらいようもない自然環境なのでしょう。
泥舟とわかっていても一人で大海には飛び込めないのです。それどころか突き落とされてても泥舟に縋り付いてくるのが自由から逃避した若者の実態でしょう。
 
こんな若者が意図せざるもこの国を泥舟全体主義国家に傾斜させていくのでしょうか。

 

教育勅語と森友学園騒動の文脈

「父母に孝・・・夫婦相和し・・・」 という教育勅語の徳目のみを抜き出して、いいこと言っているという表層的な論調が目につきます。
そこで教育勅語、愛国、森友学園の三点セットから読み取る政治の文脈についてです。
 
教育勅語の徳目について。
教育勅語の本質は、徳目ではなく忠君愛国の強制にあります。徳目は一朝ことあれば天皇のために死すべしという天皇制維持の目的に供する手段にしか過ぎません。あえて言うならばこの徳目はものごとの道理として当たり前のことでありまして、これをもって教育勅語のどこが悪いのかという議論は木を見て森を見ずであり手段と目的を取り違えています。戦後に衆参両院が否定した教育勅語の本質と文脈を読み取るべきです。
 
愛国について。
国を愛する素朴な感情はどこの国のどこの人にも共通しています。それゆえ集団になって同じ同胞に向かって高らかに「愛国」を訴えることに精神的幼児性と欺瞞を感じます。妙に大声で愛国を訴える人々には多くの国の歴史が語るように「愛国」を不正と私欲の隠れ蓑にする人が多いのです。それゆえ集団になって同じ同胞に向かって高らかに「愛国」を訴えることに精神的幼児性と欺瞞を感じます。
 
利益供与が公から私に転換。
森友学園の問題の本質は、利益供与が私(民)から公(国家権力)に対してではなく逆に公(国家権力)から私(民)に転換する契機ではないかということです。つまり利益供与が公的目的のためになされ、しかも徳目と愛国教育という美名のもとで公然と遂行中であったのではないかという疑惑です。これこそ国家資本主義の体質を如実に表すものだといえます。
 
文脈について。
過去四年にわたり官主導でおこなってきた民間企業賃上げー「官制の賃金管理システム」、安保法案、特定秘密情報保護法、個人番号法そしていわゆる共謀罪法ー「国家統制体制」。
この整備を終えて国民の収入・言論を掌握した政治の次なるステップは国民思想の一本化です。そこでいま森友騒動から読み取れる政治の文脈とは、私学を隠れ蓑とした(実は公から私への利益供与による公主導の)愛国教育の浸透による「国家資本主義の総仕上げ」の姿でありましょう。