bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

崩壊する日本人の道徳律

かっては日本人の行動選択に際して大きな影響を与えるものとして道徳律(勤勉、倹約など)が重要な地位を占めていたのではないかと思います。その中でも極めて重要でありかつ日本人の美徳の一つでもあったのが「正直さ」であったと思います。

この道徳律の起源は何かと考えますと、鎌倉時代大乗仏教の思想が出家せずとも在家にて成仏できる思想として庶民に普及したことに、その背景を求めることができると思います。輪廻に起因する因果応報の思想(嘘つきは泥棒の始まり)と、回向がもたらす農、商、工業従事者の求道精神が昇華した道徳律(正直)とは表裏一体となって心のバランスシートを構成し庶民の納得性を獲得することに成功したものと思えます。そして「早起きは三文の徳」のように道徳律(勤勉)は庶民の生活基盤を成すものとして根付いていったものと考えられます。

また、同時期に貴族階級に代わり武士階級が台頭しました。儒教にその萌芽をみる武士道の基礎が確立され自己に対する厳しさと他者への尊敬の一体性という「心に心を恥じる」精神にまで武士の倫理性は高められていったと思われます。その結果として庶民の通俗的な道徳律をスーパーバイズするかのごとく日本的ノーブレスオブリージュ(葉隠)となって日本人の道徳律を洗練されたものにしてきたと思います。そして日本人の道徳律は江戸時代を通じて全国に普及し現代に至ったものと思われます。
ところが昭和末期のいつの頃からか、損得勘定で心のバランシートが左右されるようになってきたように思えます。
その結果として、「正直者の頭に神宿る」ではなく「不心得者が得」をして「正直者は馬鹿をみる」といった新自由主義の黄金律(勝てば官軍)が一世を風靡し今や、日本人の道徳律は崩壊の憂き目に会っているように感じられます

「あの戦争は何だったのか」書評

「あの戦争は何だったのか」保坂正康 著(新潮新書)

 

三年八ヶ月にわたる太平洋戦争、それは当時の日本人の国民的性格がすべて凝縮した最良の教科書だと著者は言います。本書から学ぶ日本失敗の要因を挙げてみました。

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(国家目標と思想の不在)

 

日本軍は昭和17年4月までに東アジアのほぼ全ての地域を支配下に収め開戦当初の占領予定地を手に入れた。ところが、この段階で初めて日本軍は頭を悩ませた。なぜなら次の作戦がないのである。そこでフィリピン基地を失った米軍オーストラリアに拠点を移すだろうと読んでポートモレスビー攻略が次の戦略となった。

そもそも日本は、ヒットラー第三帝国の建設やムッソリーニ古代ローマへの回帰といった明確なイデオロギーや国家目標が無くして戦争を始めたのだ。

また「この戦争をいつ終わりにするか」をまるで考えておらず、勝利が何なのかさえ想定していなかった。

 

(戦術はあっても戦略がない)

真珠湾攻撃までに大局を見ることができる人材は、二・二六事件から三国同盟の過程で大体が要職から外され、視野の狭いトップの下で組織防衛と自己保身に走るものが生き残っていた。

人材の払底した戦争、その悲惨な例が陸軍のインパール作戦である。目的が曖昧、作戦計画も杜撰で司令官に判断能力がなかった。さらに絶望的な例は、海軍の石油神話である。首相に就いた東條が、企画院に命じた必要物資の調査に対し海軍省も軍令部も正確な数字を出さず、そのため石油備蓄量は「二年も持たない」との結論になった。しかし、石油はあったのだ。海軍はある貿易会社の石油合弁プロジェクトを圧力をかけて潰していた。満州事変から陸軍ばかりが国民に派手な戦果を誇り海軍には陽が当たらない、そこで対米依存から脱却すべく東南アジアの油田地帯を押さえるための対米決戦となった。


(説明責任が果たされない)

いまだ国民に対し国家から戦争と敗戦の説明責任が果たされていない。

(愚考)

あの戦争は、戦術の集積を戦略と称し手段を目的化し遂には手段に翻弄されてしまう日本型組織の根源的な問題を浮き彫りにしました。その利己的な遺伝子は今の日本でも健在で組織の隷従者を再生産しているようです。

 

憲法九条改定を切望する人達に贈る惹句

自衛隊いまこそクーデター絶好のチャンス!」

 

妄想と暴走により国家存続の危機をもたらした安倍前首相。その跡を継いだのがヤクザチックな菅首相。国民のためという謳い文句を掲げたが、国民イコール既成権力者とばかり、持てる者への手厚い公助そして持たざる者は自助と切捨てて国家の分断助長に走る。挙げ句の果てが持たざる者つまりは大多数の日本人生命を犠牲にするコロナ禍のオリンピック強行、この愚行が世界的非難を浴びるとワクチン接種率の急増を図るべく大規模接種センターと自衛隊医官・看護官の動員に向かった。台湾有事と喚き立て国民を動揺させるなか、本来は国家安全保障会議で協議すべき国家の暴力装置である自衛隊の動員を首相の独断専行で動かしてしまったのである。

事ここに極まれり、である。

自衛隊よ!いまこそ為政者を討ち「我が国の平和と独立を守り、国民の安全を保つため」憲法違反の阻止・改正と建軍の本義を同時に果たす機会が到来したのである。まさに千載一遇のチャンス、大義に殉ずる栄誉ある国軍と生まれ変わることができるのだ。

改憲とくに九条改定を切望する国民は、旭日旗を掲げ大声援を送り支援すること間違いないであろう。

映画『ナンバーテンブルース さらばサイゴン / Number 10 Blues Goodbye Saigon』

戦火のベトナム、誤って人を殺めた商社マンの逃避行。

終戦間際のベトナム全編ロケ、生死のはざまでたくましく生きる人々そして美しい田園風景。躍動感あふれる画面。川津祐介はスクリーンからはみ出るほどの熱演。

しかしアクション映画ではない。

冒頭シーン、街頭で物売り少年が彼に呼びかける「日本人だろ、日本人は金持ちで親切でナンバーワン!」

駐在事務所の隠し預金を引き出した主人公、日本人の父親を持つベトナム青年と彼に好意を寄せる歌い手の協力により国外脱出が成功するかに思えたが・・・。

ベトナム戦争終結しジャパンアズナンバーワンとおだてられ、茹でカエル状態で
高度成長を直走ったあの時代、本当に日本人はナンバーワンと評価されたのか。

ナンバーテンの最低ヤローではなかったのか。
この映画が40年も国内上映されなかったのはなぜか。

衝撃のラストシーンが暗示的だ。

なぜかアベノミクスに浮かれる日本に違和感を感じるこの頃、なぜだろうか、
この映画はそんな疑問に一抹のヒントを与えてくれた。 2014年公開

 

新型コロナワクチン接種の予約に思う日本の矛盾。

私はワクチン接種のクーポンと予約通知を一週間前に受け取りました。申し込みが今日の朝9時からでしたので、その時間に指定のウェブサイトをクリックして数分で2回分の接種予約が完了しました。しかも会場は歩いて数分の所に申し込んでOKです。
そのあとマイページが立ち上がるまでに少し時間がかかりましたが、マイページにパスワードを入れて予約済みの確認ができました。
近くに住む友人や知人も、みなさんスムーズに予約できたそうです。

私は15年前に住民票を熱海に移したので、これは熱海市でのお話です。
ところで、熱海市の別荘所有者には別荘税がかかります。
このため熱海市に居住していなくても住民票を熱海市に移している人が多数おります。
ひょっとして居住者に近い人数になるかもしれません。
熱海の居住者も別荘族も高齢者は多数を占めます。
それにもかかわらずこれほど容易に予約できるのは何故かと友人とメールで意見交換したところ、中央権力より住民優先の県知事の姿勢、熱海はお医者さんが多い、市職員が優秀というところです。つまり、ワクチン数量の獲得力、お医者さんが豊富、予約サイトの回線容量の確保と申込手引き書の簡明さということに落ち着きました。

しかしながら、果たしてこれで良いのかと私は疑問に思うことがあります。

いつもより早く目を覚まし、接種予約のためPCに電源を入れました。PCが立ち上がるまで何気なくPCの奥にある書棚に目をやると古びた背表紙が目に止まりました。「きけわだつみのこえ」です。
ハットしました。老人が先を競って同胞を出し抜くことにこれは値するものなのか、こんなことでいいのだろうか。
かって有為な若者を無謀な戦争で無駄死にさせた国。
その屍を乗り越えて築き上げた平和な国。そこに生を受け生涯を通じ戦火とは無縁できたボケ老人が仲間を蹴落とし我先にワクチン接種に血眼になってる場合か。

少子高齢化で老齢化した国家は社会保障費の捻出にも四苦八苦という。であれば、高齢者優先のワクチン接種とは、おかしくないか。ワクチン接種は国家の将来を託す若者とくに子育て者そしてフロントライナー(front  liner)たる警察官や自衛官、駅員、店員、宅配員など顧客(国民)対応の最前線に働く人を優先すべきではないか。高齢者はその後回しでいいではないか。

無益な同胞の生存競争を煽り、国民の生命をオモチャにする無能な国家。しっぺ返しに、できることなら有為の若者か子育て者に予約権を譲ってやりたいと思う。この国では、こんなことは無理だと承知のうえの偽善者気取りなのだろうか。

反日という自己撞着


最近は街の本屋さんがめっきり少なくなりました。
大型書店やアマゾンの利便性と品揃えが街の本屋さん減少の大きな要因かと思います。かって文化の香りを漂わせた街の風景が変化し長閑かな戦後の庶民の雰囲気が消滅していく寂しさを感じます。

ここ数年、お店で目を引くのは店頭に平積みされた、
いわゆる「日本凄い」と「嫌中・韓」本の類いです。
平積みされた本を数冊ほど手にとり拾い読みをしてみました。そこで流れる通奏低音は「自虐史観」と「反日」という二つの言葉が聞こえてきました。
この二つの言葉は根源が同一で「日本は万古不易にして不正なき無謬の国である。したがいこの国を批判することは日本人として許しがたいことである」といった発想からきているように思えました。 

私は同じ日本人を反日と呼ぶことに対して撞着の矛盾という論理性よりも、まず感覚的な違和感を覚えました。

なぜならば、私たちは敗戦後の教室で「戦争により他国に被害を与えたことを反省し二度と戦争は起こさないと誓いました。その誓いが憲法の精神です」と教わり日本人として育ってきました。
この教育に依拠する非戦の理念から歴史を回顧して意見を表明する。それに対して自虐史観と一方的に断じて反日やら非国民というのであれば、戦後の日本人教育そのものが間違っていたということなのでしょうか。

この論議はさておき、反日自虐史観のパッケージ論調が最近とみに顕著になったように感じます。
さらに昨今の日本政府は、この風潮を抑えるどころか国民の声とばかり安倍首相などは聴衆の日本国民を前にして「こんな人たち」と演説し、政策批判を封じエセ右翼の歓心を買うありさまです。政権与党はポピュリズム誘導へと政治をエスカレートさせているのかとさえ思います。

こんな風潮のせいか、いつのまにか日本社会に「日本凄い」という病気が蔓延してしまった気がします。

当初、私はこの自己賛美について次のように考えていました。
戦前の日本が絶頂期を迎えた日清戦争以降、常に格下の国と見くびっていた中国や韓国が地道な精進を重ねて実力を蓄えてきたのに対し、日本は戦後の高度経済成長の遺産を食いつぶしバブルの夢から抜け出せず、ゆでガエル状態のまますでに幾星霜、いまや両国との国力格差は開くばかりです。
そこで国民の自信を取り戻すためには一時的な精神安定剤として、昔日の夢に浸り手放しの自己賛美もしばし悪くはないのかもしれない。

しかし、いつの間にかそれが麻薬となり依存症となり、多くの日本人があらゆる不都合から目を逸らすようになってしまったのではないかと思います。
自分の凄さを証明するため、近隣諸国の粗探しに熱を上げ、罵詈雑言を浴びせ侮蔑することで傷ついた自尊心と劣等感を癒して優越感に浸っているのではないでしょうか。
それゆえに、健全な批判精神を自虐と見なしたり、他国の文化や技術さえも日本のパクリだなどと独善的に見なしてしまうように思います。

私は、祖国に愛着を持つ「自尊」の態度は尊重すべきものだと思います。
しかし他国の文化、歴史や主張を尊重しなければ、自尊とはたんなる主観による思い上がりに過ぎず、過去の失敗の歴史を再現することにもなりかねないでしょう。
これは人間においても同じことです。
自尊をしたいなら、まず「他尊」をするのが筋だと考えます。


また国家ビジョンなき為政者に率直な疑問を呈して何が反日なのでしょうか。対外政策を批判することが何故に非国民と呼ばれるのでしょうか。

かって江戸の町人たちは首を賭けて権勢を誇る将軍や役人すら嘲笑の対象にしました。
「 役人の 子はにぎにぎを 能く覚え」
こんな批判と揶揄が粋というものだと町人は拍手喝采で迎えました。


私は日本文化とは、理論的に体系化された西欧文化とは異なる複雑系の文化だと思います。
同じ言葉が幾つかの意味を持ったり、一つの事象を表現するのに心象風景に沿って異なる言葉を用います。たとえば「自虐」とは「謙虚」という言葉と表裏一体のものですが、TPOにより用法が異なります。しかしながら日本文化の機微がわからない人には的確な言葉の選択が難しいのだと思います。

古来より「秘せずば花なるべからず」と言い伝えられ、謙虚さは日本人の美徳として誇るべき日本の文化です。
日本人は人にものを送るときに「つまらぬものですが」とか身内を「愚息」と言ったりします。
これらの表現をもって自虐であるとは、日本人であれば言わないことでしょう。
であれば過去の恥ずべき自国の言動に対してこれを批判し「愚国」と言ってもなんら反日などと誹られる筋合いはないでありませんか。

衆をたのみ勢いに乗じた薄っぺらな反日自虐史観という画一的なレッテル貼り、これを日本の文化では野暮というのではないでしょうか。

日本文化は、高度な諷刺や諧謔には分からないものには分かりはしないのだという拒絶を含有していると思います。

同じ国民の謙虚な反省や批判に対して、その意気や粋が分からぬ社会の何が凄いのでしょうか、誰が美しい日本だと言えるのでしょう。

福島原発の汚染水処理は愚行だ

本日のニュースを聞いて三度びっくりしました。
 
政府は、「東京電力福島第一原子力発電所で増え続ける放射性物質を含む
処理水を国の基準を下回る濃度に薄めて海洋に放出する」ことを決定したというのです。
 
一つは、菅政権の外交オンチです。
バイデン大統領との日米トップ会談を数日後に控えて、
なぜ日本にとり不利な交渉材料をあえていま公表するのかまったくわかりません。
 
二つめは、危機管理オンチです。

安倍前首相は、2013年の東京五輪パラリンピックの招致演説で、福島第一原発の汚染水状況について「アンダーコントロール」と世界に向けて断言しました。今回の菅首相発言はこの安倍前首相の断言と矛盾しています。
中国は、この汚染水の海洋放出を環境汚染問題として取り上げて、待ってましたとばかり
「日本は国際テロ国家」だとロシアなど結託してと針小棒大なキャンペーンを張ってくるかもしれません。
 
政府はトリチウムを含む汚染水は基準を下回る濃度で人体への影響はないと説明していますが、
世界の海洋に生存する生態系の安全性など海洋環境への総合的な影響については言及していません。
これでは、カーボンフリーやSDGなど借り物の概念をわが物のごとく振りかざすものの、日本政府は環境問題のイロハさえ理解していないのだと世界中から失笑を買うのではないでしょうか。
 
科学的合理性が社会的道徳観をいつも凌駕して人を説伏するとは限りません。
 
中国の軍事的な脅威より恐れるべきは世界から沸き起こる日本バッシングかもしれません。
世界的な日本排除運動になっては中国包囲網どころではありません。
 
三つめは、政府と東京電力の無能です。
福島原発の被災後すでに十年経過するにもかかわらず、東京電力汚染水をひたすらタンクに
貯蔵するだけで、政府ともども国内での処理策を構築も実施もできませんでした。
政府ともども時間をかけて処理策は検討したようですが、その結果が出せなくては政治とは言えません。
 
東京電力は当初から原発被災のリスク排除と予防策に明らかな不備があったにもかかわらず、
想定外の一言で逃げ回り、その結果として生じた汚染水を自己解決できず海洋に垂れ流すという始末です。
震災被災者への対応を含めて過去十年の東京電力と政府の無責任で無節操な振る舞いは、
まったくお粗末でアホとしか言いようがありません。
 
汚染水の海洋放出は、無能な政治と無責任な東京電力(過去の栄光に生きる大企業)が演じた日本社会の悲劇です。
しかし、悲劇の本当の主人公は私たち日本国民であると思います。