bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

大震災に思う記憶と記録

震災という非常時の只中で被災した人が記録などとっている余裕はまずないでしょう。
そこで被災した人の記憶が継承され震災が語り継がれることになります。
ところが伝言ゲームに見られるように記憶が伝聞されると尾ひれがついて事実が歪曲されることがあります。
ときには意図的に伝え聞いた話を誇張したり省略することがあるかもしれません。
 
そこで普通は災害が終息した後には学者などの専門家により原因の調査や災害の把握がおこなわれています。
そして科学的分析のもとに原因の指摘と将来に備えた対処策を提示した文書記録が残されます。
(最近は記録は焼却しメモさえ取らないという行政エリートが多いようですが) 
 
したがい記憶と記録はかならずしも同じものではなく異なっていることがよくあるようです。
たとえば関東大震災の火災原因については多くの人の記憶は事実とは違っているようです。 
 
記録文学で名作を著した吉村昭が平成十一年「災害と日本人」と題した講演を行っています。
そのテープが死後に発見されました。その講演の書き起こしが「文芸春秋」平成二十三年七月号に掲載されています。
 
その一部を長文ですがご参考になると思いますので下記いたします。
 
(引用)
 
関東大震災』を書くにあたって、体験者は私の父をはじめ、たくさんおりました。
 
・・・震災後、その当時の一流の学者たちが集まりまして、震災について調査をして膨大な報告書をつくっております。報告書は、今後起きるであろう大震災に対して、こうすべきである、という対策を示したものです。 
 
まず、第一は発火原因です。地震が起きたらすぐ火を消せ、とされています。
それはたしかにそうでしょう。大震災が起きた時は午前十一時五十八分で、ちょうど昼食前ですから、炊事をしていた。
七輪の火とかそういうものが火災の発火原因になったと、父は言っておりました。
これが一番の定説になっております。 
 
しかし、学者たちの調査によると、それはごく一部にすぎない。
てんぷら屋から火事が起きたという一例がありますが、他はすべて、意外なことに薬品の落下なのです。
工場、学校の理科教室、薬品会社、そういうところで地震によって薬品が落ちた。それからの発火が最大の発火原因なのです。 
 
・・・九月一日が震災の日というのでNHKの特別番組に私も呼ばれて行きました。
そこに東京都の災害部長という人が来ていて、その人と話したんですが、とんちんかんなんですね。
「発火原因は何ですか」「それは七輪の火です」
「そのほかにありませんか」「いや、全然ありません」話にならないのです。
その膨大な報告書を東京都の責任者が読んでいない。
それは岩波書店から出ていて、私も持っているのです。そういうものを災害の部長が一切読んでいない。
 
(引用終わり)
 
直接体験した(積極的)記憶、そして伝聞や噂という(消極的)記憶とは相性が良いようでどうも混乱しやすいもののようです。
その結果として事実とは異なる歴史が形成されることにもなりかねません。
震災の記録などの本を読むときは記憶の話なのか記録なのか、はっきりと理解しておくべきだと思います。
 
 

民主主義と資本主義、閉塞の原因は何か。

「自由と平等」は民主主義と資本主義の根幹をなす主要な共通理念だと思われます。

しかし自由と平等とはそもそも併存しうる理念なのでしょうか。

 

中国など一部の国を除き世界の国々では資本主義と民主主義を共存させ国家運営の駆動力として社会の近代化を図るとともに経済的な発展を遂げてきたといえます。

多くの実績が示すところ資本主義と民主主義とはイデオロギーの親和性が高いもののようです。

その観点からするといまアジアの多くの国では資本主義と民主主義のハネムーンにあるように思えます。

しかしハネムーンが遠い過去のものになったのは先進資本主義国です。

そこでは久しく倦怠期に陥り貧富二層は別居状態で経済格差の拡大化と思考の分断化を招いています。

格差拡大の原因の一つに挙げられているのが新自由主義の極限化ともいうべきハイパーグローバリズムです。

国境を越えた世界的規模での経済活動の極度の自由化が格差を拡大しているというのです。

たしかに自由な経済活動の結果は平等ではなくかえって格差が大きいほど経済的効果(利益と顧客満足度)も大きいといえます。

つまり拡大化した自由は経済的権力者への富の集中を助長する一方でかっての中流層さえも相対的な貧困層へと差別を広げつつあるのです。

 

人は生まれながらにして平等である、といいますが生物学的には人はだれもが

わずかに異なる遺伝子を持っており誕生の瞬間から異なる環境にさらされることになります。

したがい「生まれた時から平等ではない」格差があるということが真実なのです。

このことは先験的に誰もがわかっていながら否定することができない。

天は人の上に人を造らず・・・なぜ倫理的な響きを持つのでしょうか。

人の心の中にあるルサンチマンのなせる仕業でしょうか。

 

しかし格差があるから人はその解消や超越に自由な思考と行動で挑戦するのです。

格差と自由は進歩の要因であるともいえます。

いっぽう平等という観念に拘泥すると私たちは自由に考えて行動することを自ら抑制しかねません。

極言すれば自由なきところに進歩はなく平等は進歩の阻害要因ということでしょうか。

このように自由と平等は相反する矛盾した理念であります。

それを承知でなんとか個人も国家もなだめすかして共存させてきたのではないでしょうか。

二つの理念がないと民主主義も資本主義もレーゾンデートルがなくなりそうな不安がそうさせたのでしょうか。

しかしもはや共存は不可能だ、という告白を感情的に反映させているのが刹那主義的なポピュリズムであり論理的に訴えているのは自由と平等の整合性と倫理化に異を唱える反知性主義ではないかと思います。

 

問題を整理すると民主主義と資本主義はイデオロギーの相性が良いが自由と平等は理念の並立すら難しい。

グローバリゼーションのトリレンマならぬ民主主義のテトラレンマの問題です。

共存が困難なふたつの理念に基盤をおく民主主義と資本主義。

ここに民主主義と資本主義が直面している限界性や閉塞感の根源的な原因があるのではないでしょうか。

 

サザエさんと演歌の花道

会社員の思い出は日曜日の午後の憂鬱であった。夕暮れ時になると近隣のTVからサザエさんのテーマソンが華やかに聞こえてくる。私は月曜からはじまる仕事と周囲に展開する茶の間の風景に大きな落差を感じた。日曜の夜があけると明暗一転する己の心情はどう考えても前向きにはできない。気の進まぬ夕食をすませやがて夜の帷が降りると周囲が静寂さを取り戻す。私は安酒を手にしてTVの前に陣取るのだった。ボリュームを絞ったTVから流れくるのは寂寥さを抑えた来宮良子のナレーションだった。

「浮世舞台の花道は  表もあれば裏もある 

 花と咲く身に歌あれば  咲かぬ花にも唄ひとつ・・・」
それは非日常から日常へと反転する時間の流れに身を任せてこの世の深淵へいざなう御詠歌を聞くにも似たものだった。
私は盃を傾け、咲かぬ花にも唄ひとつと瞼を閉じて明日を思うのだった。

 

ルネッサンス2.0へ。

英国の国民投票EU離脱が決定してから一年が経過しました。しばらくは政治と経済の動揺がしばらく続くでしょう。しかしこの問題の本質は政治経済問題ではなく文化問題にあると考えます。これをからはフランスはじめ欧州各国では自国文化と歴史の再評価の動きが胎動しはじめてやがては民族国家としての情念復興運動に到るのではないかと思います。

20世紀末からの産学トレンドであるモノからコトへの変化とは経済(ロゴス)から文化(パトス)への価値転換であり、今回の英国のEU離脱はまさにEU残留という経済的メリットより大英帝国の文化と誇りある民族の情念の方がより価値あるものとして英国民が決断した結果と言えましょう。
人はパンのみにて生くるにあらず…人が人たる所以です。
ルネッサンスローマ帝国の土壌から誕生したように今度は大英帝国から情念の復興運動とでもいうべきルネッサンス2.0がミュトス欧州において開花する予感がします。

「沖縄慰霊の日」


 今日は72年前の昭和20年6日23日、沖縄戦終結した日です。


沖縄戦の戦死者は20万人そのうち半数の9万4千人が婦女子を含む民間人でした。


敗戦から27年の長きにわたり沖縄はアメリカの施政権下に置かれ昭和47年にようやく日本に復帰しました。

しかし、いまだ日本全土の0.6%に過ぎぬ沖縄の土地に在日米軍基地の70%が配置されています。

沖縄を見捨てたこの国の指導者らは一億火の玉と国民を叱咤しながら自らは決戦に身を晒すことも玉砕するこもとなく

無条件降伏してしまいました。

本土決戦を決行し無残にも玉砕し果てたのは一億国民のなかで沖縄県民のみでした。

玉砕前夜の昭和20年6月6日夜、沖縄の海軍陸戦隊司令官大田実少将は、

沖縄県民の悲惨な奮闘を讃え海軍次官あてに次のように打電しました。

のちに「沖縄県民かく戦えり」と呼ばれたものです。

この電文の最後には「沖縄県民に対して後世特別のご高配」を賜るようにと悲痛な懇願をしています。

(不明個所は□にしています)沖縄を見捨て

県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ

残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ

僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難

尚砲爆撃ノ□□ニ中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦 烹炊婦ハ元ヨリ

砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リ ナバ老人子供ハ殺サルベク

婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セ ラルベシトテ

親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ


看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ

□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ

輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍□□沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セ ラレツツ

(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)

只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ

遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト

謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

この厳然たる史実を日本人として決して忘れてはならないと思います。


戦後73年、日本の平和はいまだ沖縄の人たちの血と汗と涙の美しい結晶にぬくぬくと安住したままなのです。

 

『ちあきなおみに会いたい』


就職活動の噂話が流れてきたのはゴールデンウイークが終わって長雨が続く蒸し暑い日だった。

昼どき学食の隅に置かれたテレビからは往年の童謡歌手が「ルルル…ラララ…」と囁やくごとく妙な歌を唸っていた。

ちあきなおみのデビュー曲「雨に濡れた慕情」が深夜のTVから毎晩流れ出したのもちょうどその頃だ。TVを持たぬ私は夜ごと隣室の会社員を訪れ持ち込んだ安酒を肴に、TVに映るちあきなおみに聞き惚れていた。会社員の彼は東北の寒村から17歳の時に上京、それからアパート近くにある製本工場に勤務したという。そして来る秋には幼馴染との結婚をまじかに控えていた。いつもは口下手な彼だが酔いがまわると饒舌になった。学生運動はなぜ崩壊したのか、やがて革命が起きるかも知れぬと期待していたのにとTVに向かい呟くのが癖だった。それはノンポリに転じた私への愚痴とも軽蔑ともつかぬ繰り言に聞こえた。そんな声が聞こえぬふりをして無言で私は酒をあおり続けた。やがて私の頭の中では「雨に濡れた慕情」が「アカシアの雨がやむとき」と混然一体となっていく民主主義のご詠歌のごとく反響していくのだった。

一前年、秋雨に濡れたヘルメットがネオンの下で激しく揺れ動く新宿騒乱、あの夜で別れた友の顔が眼前に浮かんでは消えてくる。

やがて春が来たらこんな学生生活に別れを告げざるを得ない。過ぎ去った日々への哀愁に掻き立てられ私はいつしか涙腺を熱くしていた。こんな思い出に浸りたいとき、ひとりきりで、ちあきなおみを聞きたい。あの会社員と友人は今ごろどうしているのだろうかと思い巡らしたい。ちあきなおみは、ドラマチックなストーリーを秘かに語ってくれるに違いない。

私の耳に「喝采」いまだは鳴りやまない。