bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

中坊公平先生の想い出

夏の京都に中坊公平先生をお訪ねしたことがある。 

それは平成16年、ある仕事のお願いに伺った時のことだ。 

先生が面談に指定された場所は大文字町の一角にある旅館だった。

うだるような暑さのなか額の汗をぬぐいながら約束時間よりかなり早めに到着した。

部屋に通されたが先生はいっこうに姿を見せない。待つことおよそ一時間ようやくお見えになられた。事前に頂いていた面談時間は一時間だった。時間がないので私は単刀直入に依頼の趣旨を伝えた。

それは法科大学院の学生むけ副読本の執筆であった。既成権力に立ち向かってきた先生の経験を活かした法実務の光と影を抉る狙いである。

法科大学院制度はその年にスタートしていた。

私の説明を聞き終わると先生は仕事の引受け条件を提示された。

それは専門書の執筆常識を越える厳しいものであった。なんとか妥協点を探ってみたが合意に至らぬままいたずらに時間が経過した。

すると先生は私の苛立ちを逸らすかの如く話を変えた。

大学受験から弁護士として売り出すまでの半生を唐突に語り出したのだ。 

その長い物語が終わる頃にはとうにお昼を過ぎていた。

しびれを切らした私を横目に先生は立ち上り「食べへんか」と部屋から歩き出された。後を追って別室に入るとそこには食事の用意がされていた。

取り交わす言葉がないまま食事が終わると先生は女将を呼んで一升瓶を持って来させた。手酌で盃を飲み干すとまた話し始めた。

それは新幹線京都駅の建設に絡んだ商店街住民立ち退き闘争の一部始終であり、当時の蔵相で後に首相となった佐藤栄作との暗闘を洗いざらいさらけ出した話であった。

その途中で私だったらどんな判断をするかと何度か問われた。法理論はともかく即座に思うままを私は回答し続けた。

そして酒瓶が底を尽きかける頃ようやく著作条件が合意に達した。私は胸をなでおろし窓に目をやると夏の陽は傾き夕やみが鴨川を覆いはじめていた。

早速お暇しようと私は腰をあげて玄関に向かった。

玄関先で靴紐を結んでいると背中に先生が立って「土産や」と八ツ橋を差し出された。

お礼の言葉もそこそこに待たせていたタクシーに乗り込むと今度は「待っててや」と仰られ女将に何かささやかれた。

女将がもってきたのは本と筆であった。先生は本の奥付に筆を走らせ私に差し出された。  

丁重にお暇ごいをしてタクシーの中で本を開くとそれは先生の著書で奥付けには「金でなく鉄として」と鮮やかな文字が躍っていた。

 

それからひと月ほど経過したある日の早朝、先生から電話を受けた。

執筆を辞退したいとのことだった。

電話のむこうの声は私に質問の余裕を与えぬほど切迫したものであった。

しばしのやり取りののち私は辞退を了解した。

そして数日後、先生に関する醜聞が週刊誌を駆け巡った。先生が執筆を突如として辞退された理由が何となく推測できた。しかし醜聞だけはどうしても信じられなかった。 

やがて秋になり私は休暇を取って京都に向かった。

時代祭の夜、木屋町はずれの酒屋の二階で先生の愛弟子と落ちあった。

先生が私の依頼を断った背景を彼は詳しく話してくれた。

過去数年にわたり先生の弟子と野党政治家たちは先生を某党の党首に担ぐ工作をしていたという。ところが話がまとまり実行に移るというその直前に政権の知るところとなった。先生の国民的人気を恐れた政権はマスコミと結託して先生の失墜を画した。そして先生は謀略に陥れられ社会的に抹殺されたというのだ。

それから一年が過ぎ祇園祭宵山で偶然にもその愛弟子に出くわした。

先生が母校、堀川高校の課外活動で弁護士の体験談を話されていると彼は話してくれた。

私は夏休みが終わったら堀川高校に出かけてみようと思った。

しかし終に行くことはなかった。何故か今でもその理由はわからない。

夏の夕暮れにふと出くわすと先生が語られた言葉を想いだす。

「法解釈が上手いだけの弁護士は仰山おる。しかしな、庶民の目線で権力と闘うのが本物の弁護士なんや」

「金でなく鉄として」・・・とは世の不条理を助長する金ピカの権威に対し強固な鉄のような意志で権力機構への異議申し立てを生涯貫き通した弁護士の遺言だったのだろうか。

条文解釈の巧さより人道に立脚した法律家を育てる副読本、先生はこれを最後の仕事にしたいと熱く語られていた。

その望みを達せられなかった悔を持ち続けたまま私は平成最後の夏の終わりを迎えていた。

 

任侠映画を超えた名作「博奕打ち 総長賭博」

「これは何の誇張もなしに『名画』だと思った。」と三島由紀夫が絶讃した作品です。

 

一家の総長が倒れ、跡目をどうするかとなったとき格からみて当然と思われた鶴田浩二の兄弟分若山富三郎が騒ぎを起こし務所入りとなる。お鉢は鶴田に廻るが若山を立てるべきと断る。種々の状況から格下の名和宏が継いだ。

 

ニ代目を辞退したうえには、いったん決まった跡目を死守しなければばらない鶴田。それはおかしい、兄弟が辞退したならオレが継ぐのが筋やとゴリ押しに出る若山。

 

仁義と激情のぶつかり合い、それを宿命であるとする日本の諦観に真っ向から異議を唱えアンビヴァレンツ(義と情、愛憎併存)な葛藤の超克に挑んでいます。

 

監督山下耕作の日本的様式美に徹して哀感を醸す映像は人をして深い心理的葛藤の闇に誘います。

そんな名場面がいくつも散りばめられています。

とくに小雨降る墓地のシーケンスは秀逸です。鶴田の女房、桜町弘子は、亭主から大事な兄弟分の子分を預けられたのに、亭主の留守中に逃してしまい手首を切って自害してしまう。その墓前にうな垂れたたずむ鶴田、責めるごとく見つめる妹の藤純子、その亭主若山。この三人が四方深緑に埋めつくされた墓地を前に血縁、婚縁、組織縁のしがらみを軸に展開する組織論。簡潔なセリフのやり取り、それを覆いつくして篠突く雨となり、三人が背負った悲運の性を表象するかの如き薄茶、薄紫、薄緑のそれぞれが手にした番傘、その色合いは哀しいほどに美しい。そして鶴田は若山の前で女房の墓に兄弟分の盃を打ちつけて割る。

 

鶴田、若山は勿論だが脇を固めるキャステイングもまた見事な布陣です。
とくにニ代目に担ぎ出され、あとに陰謀に利用されただけだと知る名和宏が素晴らしい。

 

全編を貫く研ぎすまされたせリフと静謐な映像は一分の隙もなくひたすら悲劇の終末へと向かいます。

日本人の生と死をギリシア悲劇にも匹敵する様式美と格調で描き出した名画です。

(1968年1月14日、東映京都)

 

 

共謀罪法案とアカシアの雨

共謀罪法案が今日6月15日に成立しました。
安保法案、特定秘密情報保護法、個人番号法と一連の情報統制法案の締めくくりとして
共謀罪法です。これにより国家統制体制への法的整備が終了となるのでしょう。
戦後の焼け跡から営々と築き上げてきた日本の戦後民主主義は臨終に瀕し瓦解の音が聞こえてきます。
 
奇しくも6月15日は60年安保闘争で樺美智子さんが亡くなった日です。
あれから半世紀が過ぎてこのような日を迎えるとは夢にも思いませんでした。
 
法案成立を報じるTVを消して眼を閉じると耳もとに西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」がかすかに聞こえてくる気がします。
1960年6月15日、安保条約に反対する若者を中心とした民衆33万人が国会前に押し寄せました。
しかし空前絶後の参加者数を集結した国会前デモは機動隊と暴力団右翼団体の襲撃にあい、あえなく敗北を喫しました。
東大四年生の樺美智子さんが圧死したのはこの時でした。
まだ小学生だった私はラジオから流れるニュースを布団のなかで聞きながらなぜか目頭が熱くなったことを今でも哀しく思い出します。
 
安保闘争を主導した学生たちの挫折感、その運動を支持した民衆の絶望感、重苦しい梅雨空、それらが重なりあってこの歌に救いを求めたのでしょう。
一番が「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい・・・」と絶望の淵からはじまります、しかし
三番になると「アカシアの雨がやむとき 青空さして鳩がとぶ」とほのかな希望の灯りをみつけだします。
 
あの安保闘争は敗戦の痛手からようやく心身ともに回復した民衆が民族の気概に目覚めてようやく知った被統治体制の矛盾と束縛の実感だったのでしょう。
いうならば「見えざる占領下体制」からの脱却を求めた民族自立運動だったのではないでしょうか。
 
一度は挫折した民衆の気概ですが四年後の東京オリンピックそして十年後の大阪万博と結束は強まり右肩があがりに立ち上った経済力は日本を世界の一等国にのし上げました。
しかし政治の世界では半世紀を経過しても「見えざる占領下体制」のまま主体的独立性への進展がないどころか後退を続けて今日この頃です。
 
このような政治の問題は多くの為政者が状況変革と創造主義者ではなく「見えざる占領下体制」に心地よくからめ捕られた、他力本願と状況依存の機会主義者であったことでしょう。
しかしそのような政治家を選出し承認してきたのはわたしたち国民であり唯々諾々と政治の堕落を看過してきた責任は免れえません。
 
問題の本質は政治支配の正統性を問い国家に対峙すべき民衆がいつのまにか国家に従属する居心地の良さに安住する国民に変身してしまったことでしょう。
戦後復興を支えた民主主義とは個人の自由な意見の表明とその交換に基盤を置く「民衆の主動的活動」でありました。
ところがいまやAKB48総選挙などスマホ片手にSNSと動画投稿に埋没するデジタル・オタク民主主義がこの国を謳歌しています。
 
都会の路地裏から田舎のあぜ道までラジオや蓄音機から流れだして絶望する民衆の気概をやさしく喚起した「アカシアの雨がやむとき」。
それは民衆の主導的活動への応援歌でした。
そんな唄がまったく見当たらない平成文化の衰退に梅雨明けの空を仰ぎ嘆くばかりです。
 

アザミちゃんという名の犬。

半年ぶりに田舎の温泉街で年上のゴルフ仲間と痛飲した。

妻を早くになくした彼の住まいはその温泉町の相模湾を一望する楕円形のマンション最上階にある。

その部屋で彼はアザミちゃんという名の老犬と暮らしていた。

昔その名の由来を尋ねたことがあるが彼は照れ笑いをしただけだった。

海に面した部屋の大きな窓の前には古びたグランドピアノが置かれていた。

彼の母親は子ども相手のピアノ・レッスンで生計を立て一人っ子の彼を育てたという。

陸大卒の父親ラバウル沖で戦死していた。

母が夫の戦死を聞かされたのは彼が2歳の誕生日を迎えた終戦間際だったという。

海軍に騙された父の戦死だと母は言い続けたらしい。

グランドピアノは陸軍士官に嫁いだ音大出の母の形見なのだ。

一緒にプレイしたゴルフが終わると風呂には入らず彼はマンションに直行した。

そして帰りを待つアザミちゃんを海辺の散歩に連れて行くのだった。

私も風呂は使わず山際にあるマンションに戻り温泉で汗を流す。

そして散歩からアザミちゃんが戻る頃合いを見計らって彼の部屋を訪ねるのだった。

ドアを押すと彼の奏でるショパンとともにアザミちゃんが膝元に飛び込んでくる。

アザミちゃんをソファにすわらせ相模湾に沈む夕陽をながめながら冷えたシェリーを酌み交すのが常だった。

そんなアザミちゃんがひと月前に亡くなった。

直後に彼からのメールで知らされた。

慰めの言葉も見つからぬまま今日まで来てしまったのだった。

アザミちゃんの思いで話も尽き閉店時間だと告げられ席を立った。

ドアを開けると季節外れの雨だった。

バーカウンターの隅で私たちの話を聞いていた店主が背後から傘を差し出した。

傘を手にして彼が誰にともなく呟いた。

「アザミちゃんが居なくなって帰り時間を気にする必要がなくなったよ…」

その声は気丈夫には聞こえなかった。

そぼ降る雨の中へと少し左肩を落とした彼の後ろ姿は消えていった。

半開きのドアから有線放送が流れていた。

"雨の降る夜は 何故か逢いたくて
濡れた舗道をひとり あてもなく歩く"

(「雨に濡れた慕情」)

タクシーを呼ぼうと思ったが思い直して雨の夜道を歩き出した。

 

昭和45年という年を抉り取った歌手 1

 学生時代一年ばかり新宿西口の近辺に住んでいたことがある。
当時の西口は淀橋浄水場が埋め立てられ京王プラザホテルを筆頭に高層ビル街建設の最盛期だった。
早朝から槌音が響き建設労働者の汗が陽光に湯気を立て夕方になると駅近辺の酒屋の店先は立ち飲み酒をあおる勤労者と若者の歓声で街は異様な熱気にあふれていた。

いっぽう新宿東口側には伊勢丹紀伊国屋が立ち並ぶおしゃれな街並と繁華街の歌舞伎町が混在していた。そこから流れ出た人々が西口に向かう国鉄ガード下を抜けると戦後の焼け跡の面影を留めた飲食街ションベン横丁だ。そこは西口の肉体労働と東口の知的労働が合流する新宿の胃袋であった。

そこにいつからか藤圭子の唄が流れはじめた。

「まことつくせば いつの日か 
 わかってくれると 信じてた
 バカだなバカだな だまされちゃって」(新宿の女)

新宿の夜の繁栄を陰で支えたバカな女の恨み節はなぜか学生の身にも染みて感じられた。地方から出てきた世間知らずの青年の汗が高層建築を、同じように地方出身の女性の涙が夜のネオンをつくりだしてきたのだ。

夕食にかよった店がいまもある。当時は二階建てで調理場が二階にもありいつも繁盛していた。店の名前を付けた日本酒まで出したが再開発だという地上げ屋に騙されてしまった。いまや見るからに落ちぶれた店になってしまった。先日よったらおばあちゃんが見えない。昔馴染みに聞くと経営者はかわったようでおばちゃん夫婦は郊外に越したらしい。飲食街の名前もいまや思い出横丁となっている。

「ここは東京 ネオン町
 ここは東京 なみだ町
 ここは東京 なにもかも
 ここは東京 嘘の町」(女のブルース)
心に引っ掛かるカスレ声、それは街の明るさとは裏腹に地の底からもれてくるような御詠歌に聞こえた。

藤圭子のデビューは昭和44年9月の「新宿の女」
そして「女のブルース」は昭和45年2月だった。

(つづく)

自虐史観のどこが悪いのか。

日本が戦った大東亜戦争のおかげで多くのアジア植民地は独立することができたのである。それなのに日本に感謝するどころか逆に謝罪を要求するとは恩知らずだという人がいますが、それは日本人が言うことではないでしょう。

ヤマトタケルのように卑劣で残虐な人物が跋扈する古事記日本書紀から司馬遼太郎国威発揚に過ぎぬ坂の上の雲などの歴史物語まで、歴史好きの日本人は美しい誤解と独善で坂本竜馬のような英雄を仕立てあげ勝利の神話を紡いできました。

その挙句が自ら歴史を作り上げることなく公私ともに遺産相続をしただけで英雄気取りの現首相とその政権の思い上がりです。

敗戦後、日本人は戦争により他国に被害を与えたことを反省し二度と戦争は起こさないと誓いました。この理念を保持し表明することを自虐史観と断じて反日だ、自尊史観を持つべきだという人がいます。そんな暴論を抑えるどころか国民の声とばかり便乗しエスカレートさせているのが今の為政者です。
こんなことで実際に国が守れましょうか。

「自虐」と「謙虚」とは表裏一体であり謙虚は日本人の美徳で誇るべき文化です。
日本人は人にものを送るときに「つまらぬものですが」とか身内を「愚息」と言ったりします。であれば自国を「愚国」といってもいいではありませんか。

 

他国の文化、歴史や主張を尊重しなければ自尊は成り立たたない、たんなる主観による思い上がりに過ぎず失敗の歴史を繰り返させ亡国の元凶となる・・・
自尊をしたければ他尊をするのが筋である。

いまの地政学でいいのか。

いまある地政学とは物理的かつ政治的な国境や軍事力などヴィジブルなものを諸元とした論理構成と展開をおこなっています。

ところが物理的国境なるものはいまやインターネット網の世界的な普及により消滅しつつあります。

インターネット網はフェースブックやLINEなどSNS連携を駆使したサイバー社会を容易に構築することを可能にしてきました。
しかもごく普通の人たちが世界中から国境を越えて参加しているのです。
つまり地図の上にはないインヴィジブルな社会が毎日のように出現しているのです。もちろん消滅していく社会もあります。ただそれがわたしたちの眼には見えないだけのことです。

思想も収入も異なるが同一の趣味をもったグループから国籍も年齢も異なるが政治的志をひとつにする仲間など多種多様な社会が見えない世界ですでに構築されているのです。

サイバー社会は物理的な国境だけでなく政治的な国境も超えているのです。
このようなサイバー社会はやがてはサイバー国家というようなものになっていくことはありうるのでしょうか。
最近のクラウドファウンデイングやビットコインの急速な普及をみているとその可能性は十分ありうると思えてきます。
いま政権が躍起になっている共謀罪法案などはこの見えざる社会への恐怖に近い不安によるものかとも思えるほどです。

これが物理的かつ政治的国境を前提にした地政学の問題点の一つです。

もうひとつ問題というより課題があります。
それは第5の軍事力、サイバーテロです。
いままでの地政学では陸海空軍そしては宇宙(衛星)軍とその研究されてきましたがサイバーテロは未着手に近いのではないかと思います。
地政学を脅かすサイバー社会とサイバーテロ、その象徴的な結合はアノニマスです。
サイバー社会は参加者の自主的な合意をともなうインターネット上の接点、サイバーテロはインターネット上の悪意ある強制的な接点といえます。
これからは国境や軍事力などを前提にしたヴィジブルな地政学ではなくインターネットなど時空間を超越したインヴィジブルな接続と結合の地政学に目を向けるべきだと思います。