bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』-書評

本書で満洲建国大学なるものを初めて知りました。

 満州建国大学は関東軍満洲国政府の手により1938年、満洲国の新京市に創設されました。

民族協和を建学の精神として日本人、中国人、朝鮮人、モンゴル人、白系ロシア人の優秀な学生を集めました。その目的は五民族の学生に共同生活をさせ、お互いに切磋琢磨することで満洲国の指導者たる人材を養成する目的でした。

 

日本の手で満洲を建国したものの満洲国の総人口に占める日本人の数は2%にすぎませんでした。これではとても圧倒的多数を占める異民族を支配することは不可能でした。そこで日漢韓満蒙、五つの民族が手を取り合う王道楽土を満州に建設しようというスローガンを掲げました。そこで五民族協和の実験場として建国大学を位置付けたのです。

 

大学の運営はすべて官費で賄われ全寮制、授業料免除で毎月の小遣いも支給されました。そのためか建国大学の開学時には定員150人に対し日本および満洲国から2万人以上の志願者が殺到したといいます。

 

満洲国の崩壊とともにわずか6年で消滅した建国大学、卒業生たち最後の同窓会からこのノンフィクションがはじまります。そこで手にした同窓会名簿をたよりに著者は日本、中国、韓国、モンゴル、台湾、カザフスタンを歴訪して卒業生を探しだしていきます。彼らに会いインタビューを通して卒業生たちの戦後生活を浮き彫りにしていくのです。

 

神童、皇民と呼ばれた戦中の輝く学生生活から一転して戦後は侵略者のイメージと共産主義者(捕虜として受けた赤化教育)のレッテルに苛まれる日本人。戦後は抗日運動から反共運動家として数十年を監獄で送った中国人などなど建国大学消滅の後に意志と意地で力強く生きぬいた人たちのお話は興奮と感動につきます。

 

忘れてしまいたい戦後の生活をあえてインタビューを受けて語る卒業生たち、それはどうしてでしょうか。生きているうちに彼らの体験を聞いてほしいからだと言います。そして異口同音に若かりし時を過ごした建国大学時代が本当に楽しいひと時だったと述懐します。

 

かって日本列島の外に青春の輝かしいアイデンティティとしての日本という国家とそのシンボルとしての満州という概念が存在していたのです。

見失われる森友騒動の本質

国有地取引に関する決裁文書の書き換え報道が全国を駆け巡っているようです。
ことは、昨年の森友騒動に関して財務省が国会議員に開示した決裁文書です。
これとは別の決裁文書が複数存在することを財務省が認めたというはなしです。
たしかにこれは国権の最高機関である国会をないがしろにした由々しき事件ではあります。
 
しかし森友騒動の本質は、決裁文書そのものではなくその背景にある
「なぜ8億円もの値引きをして国有地が森友学園に譲渡されたのか」
ということであったはずです。
多くの国民の関心もこの点にあったと思われます。
ところが野党もマスコミも書き換えがあったということで、鬼の首をとったかのように
はしゃぎ回っています。
書き換えの問題に拘泥する限り、書き換えの実務担当だったと思しき職員は自殺、
当時の局長は辞任と官僚システム恒例のトカゲの尻尾切りで本件は一件落着でしょう。
野党が麻生財務大臣を辞任に追い込み安倍政権の打倒に至ったとしても、
政局にこそなれ森友問題の本質はいっこうに解明されません。
 
書き換えなどせず今もどこかで国有財産の値引きがおこなわれているかもしれません。
書き換えなど問題すり替えに一喜一憂しているあいだに問題の本質は矮小化され、
民主主義そのものが足下から崩れ落ちていく不安にかられます。

「3.11」とサッカー


駒沢のジムで汗を流してシャワーが終わると同時に’黙禱’のアナウンス。一瞬の静寂を裂いて隣接する駒沢オリンピック競技場からJ2ファンの大歓声が飛び込んできた。更衣室の窓から目をやると公園で散歩をする老夫婦も手作りのお弁当を開いた家族も黙祷をしている。

なんとこの時にサッカーは競技を続行しているのだ。
失われた20年の間に 日本サッカーは一流国の仲間入りを果たした。どうもこの国では国家の盛衰とサッカーのそれは見事に負の相関関係が成り立っているようだ。

サッカーの原点は中世イングランドで討ち取った敵将の首を敵の城門めがけて向けて蹴り込むことに始まった。これは中学でサッカー部の先生から聞いた話である。我が国はかっては礼節を知る民族であったが・・・。私も中高とサッカーをやっていた。武士道の精神に欠けるのはそのためかと時に思う。



『語られざる真実 (「戦争と平和」市民の記録)』

 

あの戦争で学徒召集され敗戦後にもかかわらず俘虜となり帰国後自殺した哲学者、菅季治。その誠実で悲惨な人生を菅のソ連抑留記、日記でたどる。さらに帰国後に彼のシベリアでの行為をめぐって開かれた衆参特別委員会の議事録と当代の知識人を結集した座談会「菅季治の死をめぐって」を収録する。捕虜生活から帰還した哲学者 の軌跡をたどることから敗戦国日本と日本人の信義を抉る重い一冊。

菅は京都大学大学院で哲学を学ぶ学徒であったが、見習士官として満州第1124部隊(鞍山)に配属された。そして現地で敗戦を迎えた菅は武装解除と共にカザフ共和国カラガンダの俘虜収容所に収容されそこで通訳として4年を過ごすことになった。

哲学専攻の菅が通訳に任命されたのは、日本軍のロシア語通訳士官が二人ともその役割を辞退したからであった。そして主人公はロシア語を独習して日本人俘虜千人の命綱として懸命に尽くした。

菅は4年にわたる収容所生活を通して抑圧的な軍隊の中にあっていかに敬愛すべき人格や優れた能力が日本兵の中にいるかをみることになる。やがて菅は収容所においてこそ軍隊で失われた人間としての誇りと真実を守り抜こうと決意する。

やがてその努力が実のり非情な上官もお人好しの兵もいつかみんなの心が通い合い民主的なコミュニティが形成されていった。やがて主人公は日本に帰還することになった。帰国した主人公は念願の学問の道に戻ろうとする。

しかし冷戦構造の中で日本政治の眼となった「徳田要請」問題に巻き込まれてしまう、というよりも真実を追求する菅は自らを渦中に投ずることとなる。

問題とは収容所内で「われわれはいつ帰れるか」という日本人俘虜の質問にたいしてソ軍政治部将校が答えたーいつ諸君が帰れるか?それは諸君にかかわっているーという回答であった。菅はそのままを通訳した。「諸君がここで良心的に労働し真正の民主主義者となる時、諸君は帰れるのである。」ところが日本共産党書記長トクダは通訳の菅は「諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国するよう「期待」している。」ーと言ったという。

この発言を共産党はそもそもそんなことはソ軍に言っていないと否定、辛苦を共にした兵たちは民主主義者=共産主義者にならぬと帰国できないと理解した、その理由は主人公が通訳したのは「期待」ではなく「要請」であったからだと申し立てた。

かって身を粉にして尽くした兵たちに裏切られたのかでは並みの話、主人公は死をもって真実を語ろうとしたのか、はたまた通訳の言葉尻をとらえて政争の具とする政治の汚さを暴こうとしたのか。
ビューティフル・マインドはひっそり消えていく。

菅の死から二か月後マッカーサーの指示により日本共産党幹部の追放がおこなわれ更に二か月後には警察予備隊が創設された。

歴史にタラレバは禁物だがソ軍がポツダム宣言を遵守していたなら捕虜はただちに送還され有為な哲学者を失うこともなかった。
そもそもポツダム宣言を受諾した国家はソ軍や占領国にいかなる異議申し立てをしたのか。
真実には目を伏せお人好しで勤勉な庶民はビジョンなき国家で今日も生き続ける。

『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち 』ー書評

幼いころ明治生まれの祖父の膝の上で映画「明治天皇と日露大戦争」をみてなぜか目頭が熱くなった記憶があります。

数十年ぶりにその感動が明治の日本人像という記憶で蘇りました。...
日露戦争を陰で支えた黒子ともいうべき高橋是清、獅子奮迅の物語です。

決してエリートではない高橋がロンドンに乗り込み国際金融の世界ではまだヒヨコに過ぎぬ日本の公債発行を艱難辛苦のうえ初めて成功させます。

ところが日露戦争で日本が勝利するたびに日本公債は売り浴びせられますがロシア公債は変動しません。敗戦でロシアが内陸に撤退するリスクより日本軍の戦線が拡大し補給線が伸長するリスクのほうが大きいと世界は判断したためでした。

予想外の戦線拡大で日本の戦費はかさみ、そのつど高橋は公債の発行にロンドンのみならずニューヨーク、パリへと飛んで資金調達に奔走します。

ようやくバルチック艦隊殲滅により日本の勝利で公債価格もプレミアがつくほどの人気、しかし戦勝の賠償金は取れず戦時発行の公債償還と撤兵費用を捻出すべくまたもや高橋は公債発行の世界旅に。
そして高橋はかってない好条件での公債発行に大成功し日本の金蔵もはじめて安泰します。

高橋も偉いが彼に縦横に任せた大日本帝国指導部も偉い。
明治の日本人の国際的明るさと至高の意気に乾杯!

《二・ニ六事件の謎》

今日は二・ニ六から82年目の2月26日。
 
この事件が未だ謎であることを指摘してみます。
 
歴史教科書では、次のような説明をしています。
「政治的発言力を増した陸軍の内部では、隊付きの青年将校を中心に、直接行動による既成支配層の打倒・天皇親政の実現をめざす皇道派と、陸軍省参謀本部の中堅幕僚将校を中心に、革新官僚や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制樹立をめざす統制派が対立していた。
 1936(昭和11)年2月26日早朝、北一輝の思想的影響を受けていた皇道派の 一部青年将校たちが、約1400名の兵をひきいて首相官邸・警視庁などをおそい、斎藤実内大臣高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らを殺害し、国会をふくむ国政の心臓部を4日間にわたって占拠した(二・二六事件)。首都には戒厳令が布告された。このクーデターは国家改造・軍部政権樹立をめざしたが、天皇が 厳罰を指示したこともあり反乱軍として鎮圧された。
 事件後、統制派が皇道派を排除して陸軍内での主導権を確立し、陸軍の政治的発言力はいっそう強まった。岡田啓介内閣にかわった広田弘毅内閣は、閣僚の人選や軍備拡張・財政改革などについて軍の要求を入れてかろうじて成立し、以後の諸内閣に対する軍の介入の端緒となった。」
 ※石井進五味文彦笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2003年)
 
以下にこの説明への疑問点を述べます。
事件当時の国内社会状況や世界情勢に関する記述は一切なく陸軍内部の対立に起因するクーデターとして片付けている。しかし国民生活や社会状況の背景とその連係分析がなくしてクーデターの定義はできないはずだ。
また天皇親政の実現をめざす皇道派の決起に対する天皇の対応だがなぜ厳罰の指示で反乱軍となるのか。
しかも失敗したクーデターを惹き起こした陸軍の政治的発言力が一層強まったとしている。本来ならば陸軍の発言力は低下するのが当然だがなぜに強まったのかいずれもその説明はない。
この事件は不可解そのものです。

『政治の起源』–書評


「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマの著書。
新世紀の幕開けを告げたオレンジ革命アラブの春もその思惑とは異なり政治の迷走がいまだ止まない。ベルリンの壁の崩壊にともない期待された歴史の終わりは訪れず、勝利したはずの民主主義は今やますます混迷を深めていく感さえする。
私は先進国の歴史から経済的発展と民主主義の成長は強い相関関係があると思い込んでいた。しかし決してそうではないことをこの本は構造論的に歴史を解析して教えてくれる。
民主主義政治の確立には3つの主要素が必要だと著者は論ずる。それは権力を統合し執行できる「国家」、権力行使が予見可能な「法の支配」、共同体全体の利害を反映した民主主義的な「説明責任」だとする。そしてこの3つがバランスよく揃うためには3つの力が必要であり、それは経済成長、社会的動員、正統性と正義に基づく国家認識だという。つまりそれぞれ3つの主要素と補助要素は分散独立したものであり相互の補完や影響関係で成立したり成長するものではないということなのだ。
結果にすぎぬ事象から各要素の相関関係を主観で想定したうえ因果律的に歴史を解釈していた我が身は恥じ入るばかり。
なるほど「法の支配」も「説明責任」も放り出し、ひたすら独断と偏見からなる独善と主観を客観的合理性と言い換え権力を統合し執行する「国家」、そこではさらなる経済成長が必ずしも大きな自由と民主主義もたらすわけでない、そんな政治の起源をアベノミクスは身銭を切って演じているのか。それにしても国民にとっては高い代償だ。