三島由紀夫が市ヶ谷台で自決し果てて今日でちょうど50年。
三島の最後の言葉「仕方なかった」。
中心がないまま確たる目的もなく東洋の果て風に流されるまま漂流する日本。
仕方ない国家はこのまま朽ち果てるのでしょうか。
三島由紀夫の次の言葉を思い出します。
そして、愛国心を憲法改正と読み換えています。
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
アメリカ大統領選挙に思う、社会のシンギュラリティ。
アメリカ大統領選挙ではトランプ、バイデン両候補による政策論争はほとんど見られぬまま両者の非難応酬のうちに国民投票が終わりました。
今回の選挙ではトランプ大統領の独善的な政治行動がアメリカ社会をトランプ派と反トランプ派に国民を分断させたといわれます。
しかし異端者の言い分というものは昔から変わらず、今ある考えや教えを冒涜しているのではなく、本来の純粋な姿を取り戻そうとしているのだーという見方もあり得ます。
またアメリカ社会の分断現象はトランプ大統領の就任前から兆候を見せていたと思います。
過去百年にわたるパックス・アメリカーナを支えてきたのは、自由民主主義の理念だといえます。アメリカ国民の信頼を得たこの理念が国家の精神的バックボーンとして存在していたといえます。しかし、その理念そのものが長年にわたり民主政治と国民国家に対する疑念を生じさせて国民の分断を引き起こしていたのです。
このようなアメリカの背景を以下に記載します。
一つは民主主義と自由主義の協調関係に介入してきた新自由主義とグローバリズムの影響です。
新自由主義は「個人の自由」(縦に伸びる糸)と「集団の民主主義」(横に広がる糸)が織りなす予定調和の社会にほつれを、グローバリズムは国民国家のアイデンティティ(差異化)に懐疑と動揺(普遍化)をもたらしました。たとえば国民の公共的討議とは本来より、それを通して個人の主体と集団的意見が醸成されていくプロセスでしたが、新自由主義は単に私的欲望と利害のバランスをとる市場へと変質させ、あげくは政治までも市場化してしまいました。民主主義の実現手段を票の取り引きの市場にしてしまったのです。
そもそもアメリカの民主主義とは、アレクシ・トクヴィルが「アメリカのデモクラシー」で指摘するように、「自由」(私)を根源概念とするもので「平等」(公)は遅れて追加された異質の従的概念でした。それが南北戦争を経て両概念が均等価値として認知されてから国民共通の認識となる迄に1世紀を要しています。
自由と平等という時には対峙する概念を融合して水平構造の思想(一人一票)を基盤とした民主主義政治、いっぽう多民族の統合という垂直構造の思想に依拠する国民国家との相性は必ずしもいいのとはいえません。
アメリカが、この問題を相克できたのは第二次世界大戦による僥倖でした。この戦争は経済的繁栄をアメリカにもたらすと共に移民の国家を民主主義の旗の下に人心をまとめ勝利した名誉ある国民の国家アメリカへと変貌させたのです。
そして民主主義を国家の大義とするアメリカが誕生して世界に向け民主主義布教活動を開始したのです。その試金石が日本でした。
ところが、今や自由と平等の本質的に相容れぬ矛盾が、新自由主義とグローリズムにより露呈され、両概念の亀裂は拡大して蹂躙され今や空虚となった空念仏の民主主義が徘徊する社会状態にあるように思えます。
二つ目は、多民族・移民社会を基盤とする民主主義国家の本質的な課題です。
それは、数(多数決民主主義)と差異(人種)に関する評価と価値判断の問題です。
数と多様性の概念がそれぞれに内包する政治的な特性は量と質の概念とはまったく異なる、アイデンティティとデイグニテイの問題とます。両概念の融和的な統合と解決ー政治的な整合性を担保する論理ーが構築できないことが大きな問題です。
その結果、民主主義的な手段を利用して多数の支持を得た非民主的な思想と政治体制が免罪符を獲得して市民権を得るような事態が起きています。多数派による集団的エゴイズムが民主主義の禊ぎを経たという美名のもとに正当化され、既得権益層と無産層との分離と経済格差を拡大させ自由と平等を損傷しているといえます。
三つめは、ポピュリズムとナショナリズムの出口なき悪循環、極端な国家主義とグローバリズムとの葛藤が生む社会の混乱、これに対するに政治では解決できず国民も問題を認識しながら対処策を講ぜず放置してきた結果がトランプ大統領の極論に絶望的な救済を求める情緒的世論を生じさせていることです。
不満分子としての知識層が拡大
加速拡大するサイバー社会
以上の考察からアメリカ社会の分断はトランプ大統領という個人がもたらしたものではなく、アメリカ社会の基盤である精神構造そのものが大きな問題に直目している、その表象と思えます。
いうなれば社会のシンギュラリティ「抜本的価値転換への特異点」を直前にした事態だと言えます。
日本を含む多くの先進資本主義国家が、資本主義と民主主義そして国民国家という社会構造が老朽化して制度疲労を起こしているうえに、さらに新自由主義とグローバリズムに席巻され専制国家に変身しかねない状況に追い込まれていると思えます。出口なき閉塞感が国民にもたらす漠然とした不安と焦燥、今のアメリカ社会がその先取経験をしているように思えます。
大阪都構想の本質的問題
まず一番の問題は、政治というものが政治家と既得権益層が主体のものになっていることです。
つまり主権在民と憲法ではうたいながら、肝心の国民という主語なき政治が横行しているということです。
大阪都構想も大阪市民からの発案ではなく政治家を騙る詐欺師の構想だと最初から見え透いていました。
政治家の多くは、国民がコロナで苦しんでいようが意に介さずましてや民意などには関係なく(選挙で民意の多数をえたのだから)
自己利益の達成を優先的な判断基準として政治的な実行に移します。
選挙で多数の民意を得れば主権はその時点から国民より政治家に移転してしまいます。
悲しいけれどもこれが日本の実情だと思います。
バブル崩壊から日本は着実に国家資本主義体制に向かっている。
とくに郵政民営化に始まる規制改革という美名の政策は
これまたグローバル化という美名の新自由主義と連携して、
戦後築き上げた平等化社会(国民の90%が中流意識を持つ)を破壊してきました。
ヒトラーユーゲント同様、正義の平等が等分されて不正義に展開した典型でしょう。
その結果は政府と結託した既得権益層に膨大なレントをもたらし、いっぽう
大衆消費社会を支えた中間層は解体されて持てる者と持たざる者とに二極化されました。
分厚い中間層は消滅に向かい、これで国家の経済運営の効率を高める下ごしらえはできました。
国家資本主義を推進するには不可欠な収奪層と非収奪層が形成されました。
死後まで残るマイナンバーで徴税と徴兵のデータ基盤もできてます。
そこで菅は持てる者には公助、持たざる者は自助・・・宣言をしました。
しかし、これだけでは経済が上向くわけでなく国庫が潤うこともない。
そこで次は地方のお荷物の切り捨てに移る。
そのためには地方の統治権をできるだけ容易にかつ穏便に掌中にする必要がある。
ここに目を付け、刈り取りやすい地方自治体のモデル組成を企んだのが橋本という人だと思います。
やくざチックな菅首相とパシリ政治屋の敗者復活戦、そこにコバンザメ公明党が乗ったということかと思っています。
トランプ大統領と福音派
日本学術会議会員の任命拒否問題
本件は合法か否かという法的な問題ではなく、「国民に忖度を強いる」典型的な強権政治、その巧妙な政治手法の一つだと思います。
ポイントは 「なぜ6人の任命を拒否したのか」 です。
日本学術会議の在り方を問うのであれば105人の全員または半数の任命を拒否してもいいでしょう。
または任命を保留して在り方を国会で問うことも可能ではないでしょうか。
任命拒否された6人のうち加藤陽子さんについてはその著作や言動から私の知る限り決して政治的に偏向した思想の持ち主とは
思えません。他の5人の方も知り合いのお話やネットに挙げられた業績から推察するところ政治的偏向のある方とは思えません。
いうなれば6人とも穏やかなご意見を持った論客といえると思います。
これが6人とも政治色の鮮明な、たとえば左翼的な考えの持ち主であれば反政府的な人は排除するという
政府の意向があまりにも露骨に表明されてしまいます。
これでは極論すると国民への恫喝ともとられかねません。
なぜあの人がと思わせるところが目の付け所なのです。
右でも左でもない穏当な意見の持ち主でしたら当惑させられてしまうのではないでしょうか。
あの程度のことなら私も考えたり言ってることなのに、これでは自分も当てはまってしまうではないか。
その結果として、これからは自分の意見を率直に話したり書いたりすることは差し控えようと思う人が出てくる、
それを政府は期待しているのではないでしょうか。
つまり6人の任命拒否により「政府に対する忖度」を国民に対し暗黙裡の強制としてに示すことが菅政治の意図ではないでしょうか。
そのため政府は任命拒否の理由はこれからも説明しないことでしょう。
阿倍政治が築いてきた強権政治、その踏襲を謳い文句とする菅首相の本性ここに見たり、と思います。
本件は日本学術会議という多くの国民にはおよそ縁のない組織の会員任命問題です。
しかし国民にとってノイズ(雑音)ではなくシグナル(危険信号)との認識を持ち事態の推移を注視すべきではないでしょうか。
アメリカ社会分断の根源
トランプ大統領はアメリカ社会分断の元凶かのように言われています。しかし分断の根源は人的なものよりは、新自由主義と国民国家に起因しているのではないでしょうか。
権益層と富者には手厚い支援を施し、中間層と貧者に対しては出来る限り切り捨てることで経済効率の最大化を図る新自由主義。
他国民との文化・伝統の差異を対外的に強調することで自己確立を遂げつつ、同時にその国家としての同質性認知を国内に求めなければならないという多民族国家の抱える矛盾した要請にさらされているアメリカはいまだ国民国家としての形成途上。
この二つの要因が貧富、人種そして民意の格差と分断の拡大を増幅させているのではないでしょうか。
さらに、民意の集約手段を目的化した多数決絶対主義、それが自由な民主主義だという集団幻想、その妄想に理念を乗っ取られた民主主義それが分断に追い討ちをかけていると思えます。
このような社会の閉塞感に打ちひしがれた人たちは、トランプ大統領のホラ話を嘘と疑いつつも信じ続けてみたいのではないでしょうか。
デジタル庁に思うこと。
言うまでもなくデジタル化そのもは政治目的ではありません。