bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

呆れたオリンピック開会式

安倍前首相の「アンダーコントロール」という東京オリンピックの招致スピーチ、この嘘っぱちに始まった今回のオリンピック騒動は腐敗まみれのまま開会式を迎えました。

 

やはりというより当然というべきだろうか、余りのお粗末さに私は途中でTVを見るのをやめました。

 

まずビックリしたのは冒頭の貴賓席入場シーンです。 天皇がバッハIOC会長そして菅首相小池都知事と同列で並んで着席させられたのです。 国民統合の象徴たる天皇が何ゆえにバッハや菅と並列なのか。いかに国際的な友好行事とはいえ国家の品格は尊重してしかるべきです。他国への歴史と文化へのレスペクト無くして何が国際行事たり得ましょうか。天皇には一段の上席を設けてしかるべきでした。

 

また今回は黙祷の時間が設けられていました。

「コロナに打ち勝つ証」とするオリンピックだという菅首相大義から、世界のコロナ感染死者に対して黙祷は捧げられるものかと思いきや、ミュンヘンオリンピックのテロ犠牲者に捧げられるものでした。

これはよいとしても、当初から「復興オリンピック」を掲げた経緯からして、3・11犠牲者への黙祷があって然るべきだったと思います。

日本はここまで国家の主体性を喪失してしまったのでしょうか。

 

ことオープニングセレモニーに至っては、為政者やJOC幹部の知性と教養の欠落をただいたづらに見せつけらるだけでした。日本の伝統、文化の表層だけのパフォーマンスは単なる上から目線のパッチワークであり、日本文化への本質的な理解など微塵も感じられないものでした。政府とJOC首脳らが、歴史、哲学、芸術などのリベラルアーツを勉強していないからこんなことになるのでしょう。

思えばモリカケ騒動から日本学術会議の会員任命拒否に至るまで政府首脳はリベラルアーツを黙殺し続けてきたのです。お粗末な開会式はそんな堕落した政府とそれを黙認してきた怠惰な国民にとり当然の帰結といえるものでしょう。

 

ただ一つだけ救いに思えたのは、天皇の開会宣言でした。前回東京大会にあった「祝い」の文言は、今回は入れなかったことです。 国民生命が脅威に曝されるコロナ禍に見舞われ開催に異議を唱える国民の少なからぬ声のなか強行開催ともいえるオリンピックです。この事態を踏まえた、国民統合の象徴として適正なメッセージであったと思います。

 

注) 開会宣言は国際オリンピック委員会IOC)の五輪憲章で、英語と仏語で文章が定められている。日本語の表現が変わった部分は英語では「celebrating」で、日本オリンピック委員会JOC)が公開している「五輪憲章2020年版・英和対訳」では「祝い」とされている。  同時に、この冒頭には「英文が原本となります。本憲章の英文と和文に差異がある場合には、英文が優先されます」との注意書きもある。celebratingの今回の訳についてJOCは「論評できない」としている。(朝日新聞2011年7月24日)

令和三年夏の敗戦。

7月7日付け共同通信のまとめによると、新型コロナワクチンの住民接種の予約受け付けを停止もしくは制限している自治体は、少なくとも67市区町であり、その原因は国によるワクチン供給が7月から減少するためと報じています。
国内に供給源を持たない日本は海外からのワクチン供給に頼らざるを得ません。しかし新型コロナ蔓延に処する政府方針は当初から不明確であり世界のワクチン獲得競争に後塵を拝していました。そのため菅首相訪米の際にファイザー社のトップにかけ合いワクチン供給を要請したという報道をあたかも供給量は確保されたごとく錯誤した国民に問題はあるというものの、その幻想に悪ノリして誇大宣伝をした首相と現実の供給量に見合う接種態勢を敷けなかった政府の責任は重大です。集団そして職域接種と首相自ら陣頭指揮を取り憲法違反とも思える(議会承認を経ず)自衛隊を出動させてまで接種態勢拡大を図った、しかしその裏で実はワクチンがどれだけあるか把握していなかったというのですからまったく呆れてしまいます。


そもそも、政府は当初から新型コロナ対策には
消極的でした。その理由は東京オリンピック完遂のため、なんとか新型コロナ蔓延を問題にせず穏便にしておこう、できればなんでもないと闇に葬ってしいたい政権(都知事を含め)の保身維持願望が国民の健康維持より優先されたためと思われます。このような国民不在で自己保身優先の政府対応は10年前の3・11と福島原発事故に対する弥縫策の小出しによる国民愚弄策に類似しています。その象徴的な出来事が、苦境に喘ぐ被災者が数万人に達し汚染水が積み上がる中で、安倍前首相は東京へのオリンピック招致スピーチで、この問題は「アンダーコントロール」だと世界に公言したことです。
そして今回の新型コロナ蔓延下でのオリンピック強行という政府対応の根底には、オリンピックを未だに美化する日本国民の心情とアスリートへの同情傾斜という情緒的国民性を利用してオリンピックを契機に経済活性化と国民精神高揚を図るパンとサーカスならぬ旧態然の統治策で政権の維持確保を図る目的があるためと思われます。それにしても、国民の生命とオリンピックという比較対象にもなり得ない二つの事象を両論併記で思惟する政府とは何を目的にしているのか判断に苦しみます。本当に人道にも悖る国民を蔑ろにした話だと思います。

ここで想起するのは、あの敗戦で明確になった失敗の本質です。
指導者の独断と偏見はいつの世も変わらぬものの、敗戦の大きな要因は戦略と兵站の失敗であったと思います。

昭和16年、将来の日本を担うエリートを集めた総力戦研究所が出した対英米戦の予想は、奇襲作戦を敢行し成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れるというものでした。これに対し東条陸相は「机上の空論、戦争はやってみないと分からぬ」と切捨てました。また同年、軍官財学の日本の英知を結集した秋丸機関の研究成果「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」は、勝利は覚束ずどこで戦争を止めるかが問題で戦争終結への基軸は西進戦略であるとの結論を提示しました。
ところが大本営の最終決定は海陸両軍の面子を立てた東西への両面進出策となり、もとより乏しい兵站の崩壊を招き自ら墓穴を掘ることになりました。

あの戦争は国家戦略も思想もなく明らかに兵站を無視した目的なき拡張戦術の累積でしかなかったといえます。日本軍は昭和17年4月までに東アジアほぼ全ての地域を支配下に収めて開戦当初の占領予定地を手に入れました。ところが、この段階で初めて日本軍は頭を悩ませたのです。なぜなら次の作戦つまり目的がないのですから。いっぽう日本海軍は、石油神話をでっち上げ無謀な東進策で真珠湾攻撃を敢行し一応の戦果をあげましたが肝心の米航空母艦の主力部隊を逸したのです。その失点挽回の急遽戦術が米航空母艦部隊を殲滅すべく計画されたミッドウェイ作戦でした。しかし、暗号が一部解読されていたこともあり指揮官は戦局を見誤り致命的な惨敗を喫しました。
本来ならこの時点で戦争継続の見直しなり終結の画策が出ると思いきや、海軍は大惨敗をひた隠しにし、陸軍は比島陥落後の米国動向を推測できず兵站を無視して更なる南下策を強行しました。
さらに軍指導部は戦闘能力と戦果を疎かにして情緒的妄想を拡大して勝利よりもただ戦うこと、それが勝利を招くすなわち軍首脳陣の保身とばかり戦線の実情を把握せず前線部隊に無謀な戦闘を指示し物資補給も援軍も行わず叱咤激励する精神論のみを盾に大本営発表という権威ある虚報を流し続けました。
そしてガダルカナルインパール戦をはじめ戦死者の半数近くが戦死ではなく病死や餓死という悲惨な終末を迎えることになりました。まさに戦略の失敗と兵站軽視の結果といえると思います。

それにしても、あの戦争と今回のオリンピックは当初の大義からのすり替えまで酷似しています。
あの戦争では「自立自存」の戦からアジア植民地の解放を目指す「東亜共栄圏」確立へ。今回のオリンピックでは「福島復興」から「人類がコロナに勝利した証」へと赤面せざるを得ないほど空虚な大言壮語ですが、まったく国家ビジョンのない機会主義の政治を裏付けているものと思います。

専門家の意見は都合のいい所だけをつまみ食いひたすらオリンピック遂行とワクチン接種の拡大で政権維持に走る政府、その「台本」営発表を垂れ流すマスコミ、その間隙を縫い甘い汁を吸う大企業と既得権益層そして貧乏くじを引かされるだけの国民。
無能な為政者と保身優先の政府がもたらす戦略と兵站の失敗により、泣きをみるのはいつも私たち国民です。
あの敗戦を終戦記念日と言い換え失敗の反省も総括も行わずここまできてしまった永久的敗戦国、日本。
いまそのツケが回ってきています。
令和三年夏の敗戦。
私たちは今度こそ覚悟して失敗の総括を行うべきです。

 

 

コロナ禍のオリンッピク開催

東京五輪パラリンピック組織委員会が会場で観客への酒類販売を認める方向で検討していたが、
一転して見送りの方向を固める迷走ぶりを見せた。」
今朝の新聞やTVではこのような趣旨の報道を一斉におこなっていま
 
新型コロナの蔓延以降、政府は厳しい酒類提供の自粛を関連業界に要請してきました。
しかし、いまだ収束の目途が見えない状況で飲食業界は苦境に陥ったままです。
それにも拘わらず、オリンピックの観衆だけには酒類提供を許可するという政府の考えは
いままでの政府方針とはまったく矛盾するものです。
 
そもそも問題の本質は、コロナ禍においてかけがいのない人の命とオリンピックを天秤にかけるという
人道を無視した政府の優柔不断さにあったと思います。
その挙句がこのような迷走を招いたといえるのではないでしょうか。
よく言えば、あまりにもオリンピックを美化しすぎた政府、悪く言えば、カネまみれの政府、
で政策の中心に国民が不在だと思います。
 
東京に緊急事態宣言が出されてもオリンピックはとにかく開催するというIOCの強硬姿勢からは、
オリンピックの崇高な理念は消失して、いまやカネまみれの商業主義イベントに変質して
しまったIOCのホンネが見えたように思えます。
 
1964年の東京オリンピックは、当時まさに日本経済、社会が驚異的な成長と拡大の途次であり
日本選手の活躍とともに戦後日本の目覚ましい発展を自他ともに印象付けて、
国民の意気高揚に大きな貢献をしたものだと思います。
 
しかし、今回は社会状況もオリンピック自体の性質も大きく変化しています。
 
オリンピック開催まであと一か月となった今、開催は既定事実として受け入れざるを得ないとしても、
いまだにオリンッピク開催反対の意見が世論調査では半数近くを占め、
オリンピックがコロナ感染拡大を助長するリスクを多くの人が危惧していることを。
そして栄光に満ちた1964年東京オリンピックを神話化したままの精神状況で
オリンピックの商業化した本質を看過していてはならないと思います。
いずれにせよ政府迷走の尻拭いをさせられるのは私たち国民なのですから。
 

崩壊する日本人の道徳律

かっては日本人の行動選択に際して大きな影響を与えるものとして道徳律(勤勉、倹約など)が重要な地位を占めていたのではないかと思います。その中でも極めて重要でありかつ日本人の美徳の一つでもあったのが「正直さ」であったと思います。

この道徳律の起源は何かと考えますと、鎌倉時代大乗仏教の思想が出家せずとも在家にて成仏できる思想として庶民に普及したことに、その背景を求めることができると思います。輪廻に起因する因果応報の思想(嘘つきは泥棒の始まり)と、回向がもたらす農、商、工業従事者の求道精神が昇華した道徳律(正直)とは表裏一体となって心のバランスシートを構成し庶民の納得性を獲得することに成功したものと思えます。そして「早起きは三文の徳」のように道徳律(勤勉)は庶民の生活基盤を成すものとして根付いていったものと考えられます。

また、同時期に貴族階級に代わり武士階級が台頭しました。儒教にその萌芽をみる武士道の基礎が確立され自己に対する厳しさと他者への尊敬の一体性という「心に心を恥じる」精神にまで武士の倫理性は高められていったと思われます。その結果として庶民の通俗的な道徳律をスーパーバイズするかのごとく日本的ノーブレスオブリージュ(葉隠)となって日本人の道徳律を洗練されたものにしてきたと思います。そして日本人の道徳律は江戸時代を通じて全国に普及し現代に至ったものと思われます。
ところが昭和末期のいつの頃からか、損得勘定で心のバランシートが左右されるようになってきたように思えます。
その結果として、「正直者の頭に神宿る」ではなく「不心得者が得」をして「正直者は馬鹿をみる」といった新自由主義の黄金律(勝てば官軍)が一世を風靡し今や、日本人の道徳律は崩壊の憂き目に会っているように感じられます

「あの戦争は何だったのか」書評

「あの戦争は何だったのか」保坂正康 著(新潮新書)

 

三年八ヶ月にわたる太平洋戦争、それは当時の日本人の国民的性格がすべて凝縮した最良の教科書だと著者は言います。本書から学ぶ日本失敗の要因を挙げてみました。

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(国家目標と思想の不在)

 

日本軍は昭和17年4月までに東アジアのほぼ全ての地域を支配下に収め開戦当初の占領予定地を手に入れた。ところが、この段階で初めて日本軍は頭を悩ませた。なぜなら次の作戦がないのである。そこでフィリピン基地を失った米軍オーストラリアに拠点を移すだろうと読んでポートモレスビー攻略が次の戦略となった。

そもそも日本は、ヒットラー第三帝国の建設やムッソリーニ古代ローマへの回帰といった明確なイデオロギーや国家目標が無くして戦争を始めたのだ。

また「この戦争をいつ終わりにするか」をまるで考えておらず、勝利が何なのかさえ想定していなかった。

 

(戦術はあっても戦略がない)

真珠湾攻撃までに大局を見ることができる人材は、二・二六事件から三国同盟の過程で大体が要職から外され、視野の狭いトップの下で組織防衛と自己保身に走るものが生き残っていた。

人材の払底した戦争、その悲惨な例が陸軍のインパール作戦である。目的が曖昧、作戦計画も杜撰で司令官に判断能力がなかった。さらに絶望的な例は、海軍の石油神話である。首相に就いた東條が、企画院に命じた必要物資の調査に対し海軍省も軍令部も正確な数字を出さず、そのため石油備蓄量は「二年も持たない」との結論になった。しかし、石油はあったのだ。海軍はある貿易会社の石油合弁プロジェクトを圧力をかけて潰していた。満州事変から陸軍ばかりが国民に派手な戦果を誇り海軍には陽が当たらない、そこで対米依存から脱却すべく東南アジアの油田地帯を押さえるための対米決戦となった。


(説明責任が果たされない)

いまだ国民に対し国家から戦争と敗戦の説明責任が果たされていない。

(愚考)

あの戦争は、戦術の集積を戦略と称し手段を目的化し遂には手段に翻弄されてしまう日本型組織の根源的な問題を浮き彫りにしました。その利己的な遺伝子は今の日本でも健在で組織の隷従者を再生産しているようです。

 

憲法九条改定を切望する人達に贈る惹句

自衛隊いまこそクーデター絶好のチャンス!」

 

妄想と暴走により国家存続の危機をもたらした安倍前首相。その跡を継いだのがヤクザチックな菅首相。国民のためという謳い文句を掲げたが、国民イコール既成権力者とばかり、持てる者への手厚い公助そして持たざる者は自助と切捨てて国家の分断助長に走る。挙げ句の果てが持たざる者つまりは大多数の日本人生命を犠牲にするコロナ禍のオリンピック強行、この愚行が世界的非難を浴びるとワクチン接種率の急増を図るべく大規模接種センターと自衛隊医官・看護官の動員に向かった。台湾有事と喚き立て国民を動揺させるなか、本来は国家安全保障会議で協議すべき国家の暴力装置である自衛隊の動員を首相の独断専行で動かしてしまったのである。

事ここに極まれり、である。

自衛隊よ!いまこそ為政者を討ち「我が国の平和と独立を守り、国民の安全を保つため」憲法違反の阻止・改正と建軍の本義を同時に果たす機会が到来したのである。まさに千載一遇のチャンス、大義に殉ずる栄誉ある国軍と生まれ変わることができるのだ。

改憲とくに九条改定を切望する国民は、旭日旗を掲げ大声援を送り支援すること間違いないであろう。

映画『ナンバーテンブルース さらばサイゴン / Number 10 Blues Goodbye Saigon』

戦火のベトナム、誤って人を殺めた商社マンの逃避行。

終戦間際のベトナム全編ロケ、生死のはざまでたくましく生きる人々そして美しい田園風景。躍動感あふれる画面。川津祐介はスクリーンからはみ出るほどの熱演。

しかしアクション映画ではない。

冒頭シーン、街頭で物売り少年が彼に呼びかける「日本人だろ、日本人は金持ちで親切でナンバーワン!」

駐在事務所の隠し預金を引き出した主人公、日本人の父親を持つベトナム青年と彼に好意を寄せる歌い手の協力により国外脱出が成功するかに思えたが・・・。

ベトナム戦争終結しジャパンアズナンバーワンとおだてられ、茹でカエル状態で
高度成長を直走ったあの時代、本当に日本人はナンバーワンと評価されたのか。

ナンバーテンの最低ヤローではなかったのか。
この映画が40年も国内上映されなかったのはなぜか。

衝撃のラストシーンが暗示的だ。

なぜかアベノミクスに浮かれる日本に違和感を感じるこの頃、なぜだろうか、
この映画はそんな疑問に一抹のヒントを与えてくれた。 2014年公開