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自虐史観のどこが悪いのか。

日本が戦った大東亜戦争のおかげで多くのアジア植民地は独立することができたのである。それなのに日本に感謝するどころか逆に謝罪を要求するとは恩知らずだという人がいますが、それは日本人が言うことではないでしょう。

ヤマトタケルのように卑劣で残虐な人物が跋扈する古事記日本書紀から司馬遼太郎国威発揚に過ぎぬ坂の上の雲などの歴史物語まで、歴史好きの日本人は美しい誤解と主観で坂本竜馬のような英雄を仕立てあげ勝利の神話を紡いできました。

その挙句が自ら歴史を作り上げることなく公私ともに遺産相続をしただけで英雄気取りの現首相とその政権の思い上がりです。

敗戦後、日本人は戦争により他国に被害を与えたことを反省し二度と戦争は起こさないと誓いました。これを自虐史観と断じて反日だ、自尊史観を持つべきだという人がいます。そんな暴論を抑えるどころか国民の声とばかり便乗しエスカレートさせているのが今の為政者です。
こんなことで実際に国が守れましょうか。

自虐と謙虚は表裏一体であり謙虚は日本人の美徳で文化です。
日本人はものを送るときに「つまらぬものですが」とか身内を「愚息」と言ったりします。であれば自国を「愚国」といってもいいではありませんか。

 

他国の文化、歴史や主張を尊重しなければ自尊ではない、たんなる思い上がりに過ぎず失敗の歴史を繰り返させ亡国の元凶となる・・・
自尊をしたければ他尊をするのが筋である。

地政学でいいのか。

いまある地政学とは物理的かつ政治的な国境や軍事力などヴィジブルなものを諸元とした論理構成と展開をおこなっています。

ところが物理的国境なるものはいまやインターネット網の世界的な普及により消滅しつつあります。

インターネット網はフェースブックやLINEなどSNS連携を駆使したサイバー社会を容易に構築することを可能にしてきました。
しかもごく普通の人たちが世界中から国境を越えて参加しているのです。
つまり地図の上にはないインヴィジブルな社会が毎日のように出現しているのです。もちろん消滅していく社会もあります。ただそれがわたしたちの眼には見えないだけのことです。

思想も収入も異なるが同一の趣味をもったグループから国籍も年齢も異なるが政治的志をひとつにする仲間など多種多様な社会が見えない世界ですでに構築されているのです。

サイバー社会は物理的な国境だけでなく政治的な国境も超えているのです。
このようなサイバー社会はやがてはサイバー国家というようなものになっていくことはありうるのでしょうか。
最近のクラウドファウンデイングやビットコインの急速な普及をみているとその可能性は十分ありうると思えてきます。
いま政権が躍起になっている共謀罪法案などはこの見えざる社会への恐怖に近い不安によるものかとも思えるほどです。

これが物理的かつ政治的国境を前提にした地政学の問題点の一つです。

もうひとつ問題というより課題があります。
それは第5の軍事力、サイバーテロです。
いままでの地政学では陸海空軍そしては宇宙(衛星)軍とその研究されてきましたがサイバーテロは未着手に近いのではないかと思います。
地政学を脅かすサイバー社会とサイバーテロ、その象徴的な結合はアノニマスです。
サイバー社会は参加者の自主的な合意をともなうインターネット上の接点、サイバーテロはインターネット上の悪意ある強制的な接点といえます。
これからは国境や軍事力などを前提にしたヴィジブルな地政学ではなくインターネットなど時空間を超越したインヴィジブルな接続と結合の地政学に目を向けるべきだと思います。

高等教育の無償化に反対する。

 

「高等教育の無償化」反対ですね。
日本の歴史を通じて今ほど文化が薄っぺらになり教養ある階層を喪失した時代はないでしょう。
教育と教養は別でありまた文化と近代化も別ものです。
政治的作為か否か、この識別をせずに混同させたままいまに至る戦後70年。その教育と近代化の総括をしてから議論すべきです。
過去に対して責任を取りえぬ現在は未来を展望できません。
さもなくば無辜の愚民社会を血税をもって拡大再生産するばかりです。

米中関係と「召使」

 

「中国と米国の関係は正式なものではなく、もちろん結婚ではない。同意の上での同棲ですらない。中国が単に地下室に引っ越してきて使用人として働き始めたようなものだ。そうした関係の危険性は『召使』に描かれている。主人は世間をよく知る人として社交界に出ているが、家では立場が変わるのだ。主人は召使にますます依存するようになり、召使が力を持つようになる。」これは英国のエコノミスト、チャールズ・デュマ(ロンバード・ストリート・リサーチ社チーフ・エコノミスト)の語ったものです。(Quoted in “China’s Holdings of US Securities: Implication for US
economy” a report by the Congressional Research Service, 19.Aug,2013)

 

これだけでも意味ありげなのですがさらに深読みをしてみますとこのコメントの肝は『召使』にあるようです。

『召使』は1963年の英国映画で一つ屋根の下に暮らす主従の人間関係をシニカルに描いた名画です。赤狩りで英国に逃亡した米人ジョセフ・ロージー監督が英国作家そのもののロビン・モームの小説を題材にしてロンドン生まれの貴族然としたダーク・ボガードを召使役に起用するという英国人がいかにも喜びそうなお膳立ての映画です。

デュマは中国が使用人として地下室に引っ越してきたといっていますが映画では使用人部屋は3階にあります。エレベーターのない時代に階段の昇降を厭わぬ主人など稀であったのです。
英国を含む西欧そして米国でも主人の部屋は下層階にあり使用人部屋は20世紀初頭まで屋根裏部屋とも呼ばれた最上階にあったのです。
地下室はあったとしても洗濯や物置用の部屋でした。
ということは中国が洗濯部屋に住んだとしても主人の米国はどこに住むのでしょうか。とにかく中国の上階であればどこでも良いのでしょうが間違っても3階ではないとおもいます。しかし使用人より上階に行ってしまうと下にいる使用人の動向を監視することが難しくなってきます。また外出するには階段の昇降が大変になります。

主人と召使そして建物内での上階と下階それはともに垂直関係ですが、主人と社交界とは水平関係です。家の内部での垂直線そして外部の水平線その座標軸を維持することの困難と矛盾に主人は葛藤します。こんな精神的葛藤をもたらした召使をデュマは関係の危険性と表現しているのでしょう。
さらにボガートは主人を騙して愛人を妹だと称して家に引き込んでしまうのです。やがて主人はその妹に惹かれていくのです。まるで妹という名の愛人は北朝鮮の如きです。


このような背景に浸りながらチャールズ・デュマのコメントを再読すると4年近い前の発言とは思えぬほど的確に米中関係の立ち位置を予言しており未完の戯曲を観賞するような冷めた臨場感を感じる次第です。

※ 余談ですが、20世紀初頭ベルリンに富裕層向け屋上テラス付きアパートメントが建てられ主人は最上階に使用人部屋は地下室や階下にというペントハウスの歴史が始まったということです。

 

自由から逃避する日本の若者

 
「革命」と「自由」...この二つの言葉は若者にもっとも相応しい言葉でした。ところがこの国の若者にとり革命が死語となってからほぼ半世紀こんどは自由が死語になりつつあります。
 
いったい自由とは何でしょうか。
 
他のものから拘束や支配を受けずにそのもののあるがままであること、それが自由の定義です。
 
しかし1足す1が0にも3にもなるのが人間社会の常でものごとの定義と本質は往々にして異なるものです。
 
自由についても同様のことが言えましょう。
 
自由の本質とは孤独、 不安、無力感です。
 
この本質と真正面から向き合うことで若者は不可逆的な人生の意味を身をもって知るものだと思います。
 
しかしながら昨今この国で一度でもホンモノの自由経験をしたという若者はSEALDSの消長にみられるようにとても孤独や不安には耐え難いましてや自由な選択の結果としてその責任を負うなどまっぴら御免だと尻尾を巻きj、周囲の若者たちも同様な擬似経験感を抱いているのではないでしょうか。
 
いまや若者の多くは肌身話さずスマホを携行してネット経由で誰かと何かと繋がっていないと生きていけないような状態にあるようにみえます。まさに自由とは真逆の常に拘束された状況に自らを置いているのです。
 
あたかもスマホは自由に振舞えぬリアル社会の窒息状況から逃れる唯一の吸気孔でありバーチャルな社会との接点の様に思えます。たぶんバーチャルな世界のみで通じる責任担保が不要な偽装の自由を享受しているのでしょうか。
 
若者はなぜ現実社会での自由追求を避けて仮想世界の似非自由に光明を見出すかの如き救いを求めるのでしょうか。
 
かって自由を求めて時には不法で暴力的な行動により自由の本質を体得してきた若者が闊歩した時代がありました。彼らを育てたのは戦後の自由な空気でした。
 
ところがその空気は一転してしまいました。
いまや主観と独善を客観的合理性と言い換える反知性主義的な政財官のエリート指導層の指揮のもと自由の空気は高圧的規制ガスに置換されて若者は瀕死の状況に追い込まれています。
 
さらに民族のDNAが生み出す情緒と空気が支配する閉鎖的社会は若者の無力感を助長しています。KYなどという言葉が流行語になる社会で育った若者たちが組織や体制への異議申し立てを行い自由を主張して行動するなど無謀な自殺行為に等しいものでしょう。
 
また現代の若者は歴史からも自由の本質を賢く学んでいます。それはかって日本の若者が自由を求めて展開した労組運動、安保闘争そして学生運動など社会改革運動の惨めな敗北の歴史です。アカシアの雨に打たれた鳩は二度と青空さして飛べなかったのです。
 
若者は先の見えぬ未来に一抹の不安を抱きつつもしばらくはパンとサーカスの日々が続くだろうと信じていたいのでしょう。
それは未来を切り開くべき自由に賭ける若者の特権からの逃避を続けているに過ぎないのではないでしょうか。
 
おそらくは自由な選択がもたらす栄光の不確実性より統治体制が強制的にもたらす不幸という危険性の方が予測可能なリスクの範囲内だとして事あるごとに自己欺瞞を呪文のごとく繰り返しているのでしょう。
 
彼らにとって自由意志の発露としての政治や社会は変革の対象どころか思索の対象ですらなく自己を取り巻くあがらいようもない自然環境なのでしょう。
泥舟とわかっていても一人で大海には飛び込めないのです。それどころか突き落とされてても泥舟に縋り付いてくるのが自由から逃避した若者の実態でしょう。
 
こんな若者が意図せざるもこの国を泥舟全体主義国家に傾斜させていくのでしょうか。

 

教育勅語と森友学園騒動の文脈

「父母に孝・・・夫婦相和し・・・」 という教育勅語の徳目のみを抜き出して、いいこと言っているという表層的な論調が目につきます。
そこで教育勅語、愛国、森友学園の三点セットから読み取る政治の文脈についてです。
 
教育勅語の徳目について。
教育勅語の本質は、徳目ではなく忠君愛国の強制にあります。徳目は一朝ことあれば天皇のために死すべしという天皇制維持の目的に供する手段にしか過ぎません。あえて言うならばこの徳目はものごとの道理として当たり前のことでありまして、これをもって教育勅語のどこが悪いのかという議論は木を見て森を見ずであり手段と目的を取り違えています。戦後に衆参両院が否定した教育勅語の本質と文脈を読み取るべきです。
 
愛国について。
国を愛する素朴な感情はどこの国のどこの人にも共通しています。それゆえ集団になって同じ同胞に向かって高らかに「愛国」を訴えることに精神的幼児性と欺瞞を感じます。妙に大声で愛国を訴える人々には多くの国の歴史が語るように「愛国」を不正と私欲の隠れ蓑にする人が多いのです。それゆえ集団になって同じ同胞に向かって高らかに「愛国」を訴えることに精神的幼児性と欺瞞を感じます。
 
利益供与が公から私に転換。
森友学園の問題の本質は、利益供与が私(民)から公(国家権力)に対してではなく逆に公(国家権力)から私(民)に転換する契機ではないかということです。つまり利益供与が公的目的のためになされ、しかも徳目と愛国教育という美名のもとで公然と遂行中であったのではないかという疑惑です。これこそ国家資本主義の体質を如実に表すものだといえます。
 
文脈について。
過去四年にわたり官主導でおこなってきた民間企業賃上げー「官制の賃金管理システム」、安保法案、特定秘密情報保護法、個人番号法そしていわゆる共謀罪法ー「国家統制体制」。
この整備を終えて国民の収入・言論を掌握した政治の次なるステップは国民思想の一本化です。そこでいま森友騒動から読み取れる政治の文脈とは、私学を隠れ蓑とした(実は公から私への利益供与による公主導の)愛国教育の浸透による「国家資本主義の総仕上げ」の姿でありましょう。

「平和ボケ」ではなく「憲法ボケ」

 

日本は敗戦後の1945年9月2日から1952年4月28日まで連合国軍(米軍統治部隊)占領下にあり日本国憲法は1946年11月に公布されました。

連合国軍占領開始から1年余で日本国憲法が公布されています。

 

わたしの疑問のひとつは憲法第一章第一条がなぜ天皇から始まるのかということです。

戦後教育で憲法のポイントであると教えられた国民の権利・義務や戦争放棄ではありません。(前文には触れられていますが)

 

それは敗戦後の日本を混乱なく武装解除するため日本国民が現人神と崇拝していた天皇を前面に押し出すことで円滑な統治を完了させたいというマッカーサーの統治戦略を盛り込んだものかとおもいます。

 

ふたつめに不思議なことは日本国憲法連合国軍統治下で公布されていることです。

つまり独立国ではない占領下での憲法公布なのです。

独立国ではない憲法に正統性はあるのでしょうか。生殺与奪権はアメリカが握っているのでしょうか。

 

いうまでもなく憲法とは国民の権利、地位や国家の統治機構およびその運営の根本について定める国の最高法規です。つまり国家運営のルールといえます。

 

いっぽう憲法は国家権力の専横と暴走を制御する法規でもあります。

換言すれば国民が統治機構とその運営を監視するツールといえます。

 

とうぜんですがルールもツールも所詮は目的達成のための手段にすぎません。

しかし憲法第九条を唱えていれば戦争にはならないとか第十三条を盾に個人の尊厳と権利、自由は保障されており周囲環境の変化に関係なく何の問題もないとする、いわゆる平和ボケ、自由ボケなどが巷に溢れています。

 

これでは手段を目的化してしまっているのではないでしょうか。

 

このあいだに統治機構は国家運営のルールを改変してきています。

たとえば憲法第九条平和主義は自衛隊イラク派遣からはじまり有事法制3法、安保関連法案により武力行使が可能となり、憲法十三条個人の尊厳は個人情報保護法、特定秘密情報保護法、個人番号法そしていわゆる共謀罪法といつのまにか有名無実化され国民はパノプティコンの罠にはまっています。このようなことが可能になったのは立法、司法、行政の三権分立が実質的に形骸化しつつあることにもその要因があると思われます。

 

いずれにせよ憲法の字面や三権分立形式にその変更はなくとも憲法は大きな変質を遂げつつあるのです。

そんな統治システム水面下の変化を看過している私たちは平和ボケや自由ボケではなくて国民の権利・義務を放棄しかねない「憲法ボケ」状態なのではないでしょうか。