bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

強制される忖度

私は飛行機でも鉄道車両でも通路側の席に座るのが常である。通路の空間だけでも息苦しさをいくらか和らげてくれると思うからだ。

 


これは先日、旅行に新幹線を利用した時の出来事である。

本を読んでいると横に佇んだ初老の男がいるのに気がついた。隣が空席だったので、こちらですか、と聞くと無言で私の膝を跨いで隣に座った。失敬な、と思ったがすぐに気を取り直し横に座った男がバッグから取り出した本に目をやった。歴史的な旧跡のガイドブックだった。二つ目の駅がその中心地だった。そこで降りるのだろうと思うと読書に戻った。読書に夢中になり二つ目の駅への到着に気がつかなかった。すると男は無言でまた私の膝を乗り越え去っていった。

そこで乗車駅で買った名物の駅弁を開けて昼食をとり始めた。とまた横に人が立っている。今度は妙齢の女性だ。口をもぐもぐさせながら隣の席を指差して、こちらと聞くとムッとした顔からエエと甲高い声が帰ってきた。

弁当を片手に前のテーブルを跳ね上げると読みさしの本がテーブルから滑り落ちた。女性はその本を靴先で横に払い優雅な身のこなしで席に座った。さすがにむかっ腹が立ったが飯が不味くなるのでやめた。終点まで隣の席は変わらなかった。

そして終点の車内アナウンスの前に私は席を立ってドアに向かった。

 

通路側に座る人間はかならずしも乗務員ではないのである。すいません、の一言がなぜ言えぬのか?

 

いまや日本人は他者への配慮どころか他者が自分に配慮することが当然だと思っているようだ。いつの間にか忖度を他者に強制する日本社会になったようだ。

財政健全化は必要なのか。

返済不能な債務や毎月の収支が継続的に赤字だと個人生活の継続はできない。

 

しかし国家の場合は、民間部門と政府部門そして海外部門それぞれの収支があるのだからこの三部門の総収入と総支出が同じであれば国家は存続できるはずである。

そうであれば、

民間部門の収支+政府部門の収支+海外部門の収支­=0

であればいいことになる。

すなわち、政府部門の(赤字)額=民間と海外部門の総計(黒字)額

であれば国家は存続できる。

 

ここで国家存続のため政府政策により収支が操作できる部門を考えてみる。

 

海外部門は為替レートの要因に加え輸出先の経済状況や政策に輸入も国民所得の変動などに左右される。このため政府が海外部門の収支を操作することには限界がある。

 

政府がある程度裁量的に操作できるのは政府部門の支出(財政出動)と民間部門の支出(増税)しかない。

(政府の収入となる増税政策は、税率は操作できるが収入=税収額は操作できない。政府の支出となる減税政策も同様)

 

つまり政府部門の赤字は民間部門の黒字を相対的に増加させることになり、財政の健全化を目指すことは逆に民間部門を苦境に追い込むことになる。

 

悪化する日韓関係に思う

 

たぶん日本の言い分は正論なのであろう。

しかし正論を貫き通さんがためいささか礼節を欠いてはいないだろうか。

 

かって自由と民主主義というあたかも正義を装う看板を表に掲げながら裏では植民地化政策を巧妙に進めたのが欧米列強の外交であった。そんなダブルスタンダード外交に赤子の如くあしらわれたのが大日本帝国の潔白な正論外交だった。ところが国際外交のステージでは大日本帝国の外強硬な正論はタテマエとホンネを使い分けできない脆弱性となり、やがてそれは日米開戦一つの要因にもなった。正論の拳を振り上げたのはいいが落としどころを間違えたのである。

 

そんな状況は今も変わらないようだ。グローバリズムというタテマエと自国主義というホンネそんなダブルスタンダード外交を政府は使い分けたつもりだろう。しかし、いま韓国では生きるか死ぬかの瀬戸際で国家運営をしている。ここで経済が崩壊し始めたら国が引っくり返るという状況にある。そんな彼らをなだめる方法はいくらでもあるのに、その逆に火に油を注いでいる硬直的な外交のやり方は、実に幼いと思う。窮鼠猫を噛む状態に陥っている韓国と喧嘩をしていたところで、日本国民には何の得にもならないだろう。

 

感情に溺れて憂さ晴らしに走るのは、国民が地理以外に団結する拠り所を持たない国家の宿命か、

深謀なく短慮ゆえに敵を作り自滅して行く。こんな歴史はもう終わらせなくてはいけない。

 

品性ある国だった日本

第一次世界大戦に勝利した連合国の一員として大日本帝国は1919年パリ講和会議に出席して人種差別撤廃を提案しました。ちょうど100年前のことです。

しかしイギリス、オーストラリアが強力に反対しアメリカも中途半端な対応をしたので提案は拒絶されました。

また大日本帝国第一次世界大戦の反省から創立された国際連盟の有力メンバーとして話し合いによる国際紛争の解決に注力して、軍縮会議では自国に不利になる条約を締結するなど国際平和維持に努力を払いました。

英米が建前として述べる理想を性善説に依拠する日本人は額面通り受け止めていたのでした。しかし英米列強は理想とは裏腹に決して植民地主義を放棄しませんでした。

その現実に気づいたとき、日本人は列強のダブルスタンダードに騙されたと悟り憤慨しました。

そこで、そのような二重基準のいかさまゲームをやるより、没他あって没自なく公益あって私益なき道義を導入して新たなゲームをすることにしたのです。それが大東亜共栄圏の構築でした。

 

自衛隊の違憲論議に思う


私は憲法論議の前に国家ビジョンがあるべきとの意見ですので多くの皆様とは基本的スタンスが違います。
(内外の情勢変化と周囲環境に合わなくなった家を修理改善するのではなく家そのものを立て直す)

現行憲法日米安保条約日米地位協定の実態的な下位法であり、対米従属を保身の手段ではなくいまや自己目的化してしまった国が日本だと考えています。


ここにおいて議論すべきことは改憲云々の枝葉ではなく根幹としての国家ビジョンの設定であるというのが私の立場です。

現行憲法が正当な自主独立国家における正統性を有する憲法であれば、自衛隊違憲状態にあるという指摘は正論でしょう。
この議論は今に始まったことではなく自衛隊発足以来の未解決課題だといえます。
その理由は米国を触媒とした国家保全という不可視な不安状況(永続的敗戦状況)を可視化した自衛隊という代替で満足するという昭和の同時代性を持つ官民の共謀的黙認があるからではないでしょうか。

また現行の憲法は米軍占領下いうならば非独立状態において公布し施行されたものであり、1959年砂川判決で最高裁は「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」としての統治行為は、司法審査の対象から除外される(統治行為論)として憲法の司法判断を放棄しています。

もし違憲訴訟を起こしても対米追従国家のもと最高裁は何の司法判断もしないことでしょう。

戦後民主主義の命日に流れる唄がない。

白内障の手術が終わり不自由な片目を開けて病室の天井を見つめていると静寂な夕暮れの窓外に雨音が聞こえてきました。
電気スタンドの明かりを消して眼を閉じると耳もとに西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」がかすかに聞こえてくる気がします。

昭和35年6月15日、安保条約締結に反対する若者を中心とした民衆33万人が国会前に押し寄せました。
しかし空前絶後の参加者数を集結した国会前デモは機動隊と暴力団右翼団体の反撃にあい、あえなく敗北を喫しました。
東大四年生の樺美智子さんが圧死したのはこの時でした。

その直後から倦怠感と哀愁を帯びた西田佐知子の歌声が洪水のごとく巷に流れ出したのです。

安保闘争を主導した学生と若者たちの挫折感、その運動を支持した民衆の絶望感、重苦しい6月の梅雨空、
それらが重なりあって民衆はこの歌に救いを求めたのでしょう。

唄の一番は「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい・・・」と絶望の淵からはじまります、
しかし三番では「アカシアの雨がやむとき 青空さして鳩がとぶ」とほのかに希望の灯りをみつけていきます。

あの安保闘争は敗戦の痛手から心身ともにようやく回復した民衆が民族の気概に目覚めて
はじめて知った被統治体制の矛盾と束縛その実感からの解放運動だったのでしょう。

挫折した民衆の心意気は四年後の東京オリンピックそして十年後の大阪万博の成功と
民族再起への結束は強まり右肩あがりに立ち上った経済力は日本を世界の一等国にまで持ち上げたものでした。

流した汗と涙に相応のものが信じられる時代でした。

平成29年奇しくも6月15日に共謀罪法案が成立しました。
それは安保法案、特定秘密情報保護法、個人番号法と一連の情報統制法案の締めくくりといえるものでした。
これにより日本は国家統制体制への法的整備を完了したのです。
戦後の焼け跡から営々と築き上げてきた日本の戦後民主主義はいまや臨終に瀕しています。

昭和35年の梅雨明けに都会の路地裏から田舎のあぜ道までラジオや蓄音機から流れだして
意気消沈した民衆の気概をやさしく抱擁してくれた「アカシアの雨がやむとき」。
それは戦後民主主義の応援歌であり賛歌でもありました。

そんな唄がまったく聞こえてこない平成文化の衰退に梅雨明けの空を仰ぎ嘆くばかりです。

日本をどういう国にしたいですか?

まず「日本をこういう国にしたい」というテーマは国家のあるべき姿すなわち理想像を語ることと私は理解します。
その前提として、そもそも国家は自主独立した主権を持つ国家でなくてはなりません。
 
ところが日本の現状は首都の制空権さえままならぬ国家主権なき擬制国であると私は思い続けています。
その主たる理由は次の三点です。
 ・国連憲章53条、107条に記載された敵国条項の規制対象国 (対世界)
  ・日米安保条約日米地位協定に捕縛された米国の属領状況 (対米国)
  ・米国軍占領下にて施行された憲法の正当性とその憲法に立脚した国家の正統性ーこ   れを逆手に取られたと思われるのが憲法の実態的上位法とも言える日米地位協定 (対国内)
この三つの軛を断ち切らないかぎり、永遠に日本は自主独立国家にはなり得ないと思います。
真の独立国家でない虚妄の国家を対象にして理想像をいくら語っても所詮は砂上の楼閣ではないでしょうか。
 
そこで私は切に思いかつ望みます。
「日本をまごうことなき真の自主独立国家にしたい」と。
 
軛がなくなればそれでよかった終わりではなく、束縛から解放されると同時に自主独立国家のスタートを切ることになります。
ということは、軛を解く工作をしながら一本立ちする新国家の理想像を作っていかなければなりません。
その為に何をなすべきでしょうか。私は国民国家の思想構築そして理念への昇華だと思います。
 
為政者が「美しい日本」と国家理念のごとく語る時、国民はその姿を具体的にイメージできるでしょうか。
私には無理です、イメージできるという人に聞いてみるとその具体像は各人各様です。
 
「美しい」とか「幸せ」や「安全」など観念的な美辞麗句はすんなりと人の心に受容されます。
しかしこのような言葉を羅列し組み合わせや編集を試みても国家像を創造することはできないと思います。
人それぞれ抽象的な概念については具体的に意図するものが異なり一致することなどは稀だからです。
たとえば「幸せ」とは問われ裕福さであるとする人、家族の健康と答える人など、差異の根源には個人の価値観が存在しています。
 
いささか一足飛びで乱暴ですが国民の異なる価値観ですが、その最大公約数を集約し国民の手で統合した国家の思想を作れないかと考えています。
その思想構築の思料として民主主義、国民国家そしてグローバリズムという三つの思想潮流を挙げました。
理由は世界各国民の価値観を反映した公約数的な普遍性が三つの潮流には存在していると考えるからです。
これを糸口にして私はあるべき独立国家の思想と理念を考えていくつもりです。
 
さてここまでは国家の理念論ですが、並列してもう一つ重要なものは国家の組織論です。
(人間と同様に頭脳と肉体の両輪で国家は運営、生存していけるものと思っています)
具体的には国家の構成要員たる国民のコミュニティです。
ゲマインシャフトからゲゼルシャフトそしてSNSコミュニティへとコミュニティが変貌を遂げ、
若者たちは現実の国家ではなくアマゾンやグーグル帝国に殉じかねない昨今の様相であります。
バーチャルな組織はコミュニティの意識ならず存在をも規定するかの如き状況に思えます。
 
このコミュニティの考察も並行してやっていかないと国家の具体的な理想像は描けないでしょう。
しかしながら凡凡たる脳みそは枯渇寸前で風呂敷を広げてみただけで終わるのかなぁと...
積年の宿題にいまだ回答も出せぬ怠惰な思考力に忸怩たる思いひとしきりです。