bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

擬似西洋国家の没落

あの喜ばしく自信に満ちた1989年ベルリンの夜明けはどこに行ってしまったのか。なぜ西洋は没落しつつあるのか。公的債務は若者にツケを回し古い世代が安逸に暮す手段と化し、活気ある社会では革命を起こす力を持つ法律家はただの寄生虫でしかなく、市民社会は企業の利害と大きな政府に挟まれ無人地帯に成り果てている。根本的な制度の沈滞で西洋は過去500年の成果を帳消しにしつつあるようだ。我が国も明治維新から150年を迎え疑似西洋国家の制度疲労をきたしているのではないか。政治、経済、行政と戦後の繁栄を支えてきた骨組みは今や朽ち果て市民社会の阻害要因と化した。邯鄲の夢は終え、このままでは世の中は変わらない、ではなく変わって欲しくないという無欲中間層を形成してきた。東洋の端の国はあまりにも長きにわたり西洋の経済成長モデルを追い求め足もとの制度劣化を放置してきた。その果ての経済と欲望の定常状態に問題の本質はあるのではないか。この定常状態を民族の叡智を結衆して分析することこそが、いま政府に問われていることではないだろうか。重要な点はカネではなくココロのデフレスパイラルその解析だ。それは擬似西洋国家からの脱皮の糸口にもなり得よう。過剰債務、教育劣化、不平等の拡大といった現象を刹那的に取り上げその瑣末な弥縫策があたかも国家戦略であるかのごとき錯覚に陥いり迷走する政治。これでは国家滅亡への道をたどるだけでないのか。

書評『ハロウイーンの文化誌』

 

1938年10月30日、100万人が避難したといわれる米国CBSの火星人襲撃放送。じつはハロウィーン向けラジオ放送だった。

黒猫、魔女、カボチャというハロウィーンの主役三点はポーの「ユーラルミー」ホーソンの「ヤンググッドマン・ブラウン」アーヴィングの「スリーピー・ホローの伝説」それぞれの作品で象徴的に取り上げられたアイコンであった。そこでこれらの作品はハロウィーン小説の原点と言われる・・・。

近年我が国では祝祭的に取り上げられバレンタインをしのぐ経済効果と言われるハロウィーン
その語源、起源から説きおこし現在に至るまで世界各国の文化に根付いたハロウィーンの歴史をたどる。その背景は宗教から人類史まで広範にわたり著者の博識には脱帽する。

また多くの図説が掲載されて読んで見て楽しめるハロウィーンのデズニーランド的楽しさいっぱいの書誌である。

なによりも世界的なイベントに押し上げたのは子供、怖さ、スイートという三点セットをパッケージ化したアメリカの文化だという指摘には納得。

書評 「Q」ルーサー・ブリセット

 

1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンブルクの教会に95か条の論題を張り出した。贖宥状批判に端を発した宗教改革運動はドイツ騎士戦争から農民戦争へと紛争は神聖ローマ帝国全土に拡大しシュマルカルデン戦争を経て1555年アウグスブルクの和議に至る。
その結果、信仰の選択は都市や領主が決定することとなった。

実在した人物群像に虚構の人物を巧みに配し既得権益をむさぼる支配層(カール5世、ローマ教会)と抑圧された被支配層(農奴、人民)そして新興勢力層(プロテスタント、学者)の三つ巴構造が浮き彫りにされる。

主役を特定せぬまま幾多の語り手が登場する。彼らは各地で頻発する血で血を洗う層間闘争、各層の内部抗争を冷静に時には激情的に語る。その背景はセピア色の中世を彷彿とさせるアウグスブルクニュルンベルクなど二十近い都市で時間を交差し過去からの重いテーマ(信仰と自由)を載せて舞台は回る。

ミステリー仕立てではないのにいつのまにか時計の針を止める犯人(既得権益の悪を知りながらも権力に追従する)探しに陥る自分、そして舞台はやがて暗転して結末を迎える。

なんとも不思議な魅力いっぱい面白さ抜群、傑作!

「この国は国家社会主義に向かうのか」



この数年にわたり気になる問題があります。
それは、おおくの大手企業が増収増益を継続的に達成しているにもかかわらず従業員の賃金が上がらないという。これではデフレ脱却ができないというので政府が賃上げ目標を設定して税控除のニンジンまでぶら下げて企業に賃上げを迫る構図です。

これでは民間企業の財布に平然と手を入れてはばからぬ国家社会主義ではありませんか。

さらに政府のみならず御用学者も口をそろえて、企業の増益と人手不足にもかかわらず賃金が上がらないのはおかしいと騒ぎ立てる始末です。
おかしいことはなく理由は明白です。それは、従業員の生産効率の低さにともない賃金を抑圧せざるを得ぬからでしょう。結果として労働分配に回さぬ利益の行き着く先は余剰資金のブタ積みです。従業員より問題なのはイノベーションどころか新規事業など資金の有効活用など思いもつかぬ怠慢で無能な経営です。いっぽう生産性の低さのおかげで意図せざる人手不足の状態となっており失業率は完全失業率に近づいています。つまり貧しさをみんなで分け合う社会主義的公平性を生み出しているのです。昔のように従業員が春闘など賃上げストをしないでしょう。若者の多くは現状維持の政権を支持しているのです。
つまりこの国の社会は効率性を犠牲にして公平性を擁立しているわけです。

近ごろ為政者が熱く語るのは、「教育無償化」、「ひとづくり革命」そして「生産性革命」です。
いずれもヒトをどうするかのたいへんに重要な課題なのです。
しかし、お上の美辞麗句のその下から透けて見える下心はヒトを「人間」としてではなく「労働力」としてしか見ていないのではないかということです。

教育のおおきな目的は知性と教養を備えた人材の育成といえるでしょう。
そのためにはまず優秀な教育者が必要です。しかし文科省は産業界のニーズに対応した体制整備をおこなうため産業に役立つ理科系に注力するとしており巷では文科系不要論まででています。こんなことで然るべき教育者が育成できるのでしょうか。
理科系、文科系という発想自体ガラパゴスですがあえて文科系的な教育が必要なことの例をあげます。
教育無償化は国民の税金を投入するものですから、教育機会の公平性と投資効果との両面から検討する必要性があります。この問題については2000年のノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・J・ヘックマン教授がある結論を出しています。
公的投資を悩ます公平性と効率性のジレンマは幼少期(3-4歳)介入ではほぼ存在せず損失は利益を上回らないというのです※。しかし、その前提条件は週に一度は先生が家庭を訪問し指導に当たる。その指導は認知的スキル(あえていえば理科系)のみでなく非認知的な要素すなわち肉体的・精神的健康や情動的性質(あえていうと文科系)の養成に充てるというものです。(「幼児教育の経済学」)
*40年間の追跡調査をした結果、被験者は高卒後に持ち家率、平均所得が高く、逮捕者率も低かった(被験者と非被験者のIQは同じ)利益率は6-10%でいっぽう第二次大戦から2008年までの米国株式配当率は5.8%。
幼少期教育はこのようなデータもあるので無償化はうなずけるとしても小学校以降の無償化はまったく理解できません。
教育どころか雑務に追われる小中学校の先生に無償児童の費用負担を転嫁するのでしょうか。高等教育に至ってはまともに教育できる教育者がどれほどいるのでしょうか。
文科省には少なくともヘックマン教授のような検討を行ってみてほしいものです。

それよりも懸念されることは国費による無償化教育では政府主導の画一的な教育が強制される危険性です。この結果うまれてくるのは体制に忖度、奉仕する単なる労働力としてのヒトでありましょう。これが為政者のいう「ひとづくり革命」ではたいへん困ったことになるでしょう。一歩ゆずって政府の言うとおり文字通りに知性と教養に溢れて機械で置き換えのできない「ひとづくり」ができたとしましょう。

そこで問題は「生産性革命」です。
生産性革命とは現在の非効率な生産性を否定して生産効率の極大化を図ることです。
効率性を犠牲にして公平性を選択した大企業とくに従業員は大変なことになります。いままでの価値と生存体系の完全な逆転です、効率性を選択した企業は余剰資金を惜しみなく使いコンピューター化、ロボット化そしてAI化を図るでしょう。そして多くの従業員は路上に放り出されるでしょう。
その結果、幸いにも残された従業員の給与は上がり企業の利益増大と共に税収も増加してメデタシでしょうか。「ひとづくり」で生み出された人はどこにいくのでしょうか。
これ以上は「たられば」ですから止めておきます。

論点です。
「教育無償化」はともかく「ひとづくり革命」「生産性革命」さらには「働き方改革」まで含めて本来は国ではなく民間が自主的に取り組む課題です。

しかもそれぞれの課題はその相互関係に矛盾が見出されます。
ひとづくりと生産性とは整合するものでしょうか。教育無償化と生産性は両立しうるものでしょうか。
このような疑問と矛盾を抱えたまま国会での議論もあるやなしか為政者の意向のまま一気呵成に戦術論は実行に移されつつあります。

わたしが危惧するのは、このままでは公平性と公共性の美名のもとに箸の上げ下ろしまで国が介入してきて個人と企業の自由は束縛され果ては個人の尊厳まで失い国家社会主義にたどり着くのではないかということです。

もっとも重要で本質的な問題。
それは国家ビジョンがないまま繰り返しこのような戦術論が先行するこの国の政治の貧困と血税を投入するにもかかわらず沈黙する国民でしょう。

京都の平熱――哲学者の都市案内 (講談社学術文庫)

京の魅力。それは時空間を集散したカオスが織りなすアナーキーな心地よさ。
だから京都ではなく京と僕はいつも書く。なんといっても京と京都では酒のうまさが違う。
そこで、こんな本を見つけた。...

京都育ちの哲学者が市バス一系統だけで名所旧跡を周回する。しかし観光案内をするのではない。祇園に降り立ち、ここは都市の隙間のいかがわしきものがぎらぎらとあるいはくすんでよどみ沈殿してゆくと語る。なぜなら、いかがわしいものは際へ際へと押しやられ八坂まで来るとそこはもう山の麓、この先は行き止まりそこで行き場を失ったものが町なかにひそかに還流を仕掛けるが、洛中はふたたび際へ押し返すそうとして都と鄙のあわい空間が祇園になるという。平家物語を髣髴とさせる一文ではある。そして著者は際の極致として舞妓と托鉢僧に正と負の極みを見る。人は極みをとことん追求すると奇人とされる。正と負の両極を見ながら育つ京都人は奇人に寛容、しかし見て見ぬふりをする。おもろいという心の余裕、それが京の 粋だという。文化風土から都市論へと発展するが深みにはまらず、はんなり終わる。著者は同年輩の哲学者、思考の方向も奥深さも各段に違う、脱帽。

『シグナル&ノイズ』 書評

 

 

著者は統計専門家にして「マネー・ボール」で有名な野球データ分析会社の予測モデルPECOTAの開発者。2008年の米国大統領選挙の結果を予測し50州中49州を的中させたと解説にある。

 

ビッグデータの時代というが多くの予測が失敗をするようになった。

多くの失敗とわずかの成功、その具体的事例を自然現象、政治、経済、スポーツなどの分野にわたり記述統計と確率論の視点から分析する。

 

その結果として失敗の多くはシグナルとノイズの混同、錯誤によるものであるとする。たとえば米政府は45,000もの経済統計を発表する、これらのデータをすべて組み合わせて検証しようとすると10億の仮説を検証することになる。しかし経済の因果関係を示すものは桁違いに少ない。それでも相関関係から予測を試みる。

 

データが多いということはシグナルを見失うことになりかねない、またデータにどれだけ多くのノイズが含まれているのかわからない。そのため最新のデータに重点を置きすぎるというバイアスがかかる。

 

政治記者世論調査の発表で誤差を忘れ、経済記者はほとんどの経済統計が不正確であることを忘れ、その結果として外れ値がニュースになる。

 

さらにデータの精査や検証において彼らの関心が原則やモデルにしか向かわないときに予測は失敗に終わることが多いー真珠湾攻撃を予測できなかった米軍、サブプライム、9・11、3・11、福島原発などー

 

そこで著者は自らの予測経験からベイズ定理の優位性とべき乗則への注意喚起を語る。たしかに確率で事象発生の可能性を予測する楽しみが生計を立て社会的な影響をもたらすことは素晴らしい。しかしベイズ定理の問題点は事前確立の設定にバイアスがかかりやすいことではないだろうか。

 

著者は言う「予測をするときには好奇心と懐疑心のバランスが大切、両者は共存できる」

自動車のEV化に日本企業はついていけるか?


米国駐在から帰国した20年以上前のことです。なにげなくTVをつけると「モノより思い出」というナレーションが耳に飛び込んできました。TV画面に目をやると湖を前に車を止めた両親が車からランチボックスを降ろすと小さな子供と手をつなぎ楽しく野原に向かい駆け出していきました。
自動車のCMというとモデル名とか初速や燃費など仕様の優秀さを訴求するのが当然と思っていた私には、まさに衝撃的なメッセージでした。
家族にとりピクニックが目的であり車は目的地までの移動の手段にすぎない、たぶんピクニックの思いでは家族に取り忘れられないものになるでしょう。
人にとり車(その所有)は目的ではなく生活の黒子だと自動車メーカーが宣言しているのです。CMではモデル名も流れませんでしたが、あとで人に聞いて日産のセレナだと知りました。

「モノからコトへ」と時代のパラダイムが変遷することを予感した素晴らしいメッセージでした。

ところが日産はじめ日本企業はいまだ「モノつくり」に執着しているようです。
精確で耐久性があり美しい日本のモノつくり、まちがいなく日本の独壇場といえましょう。
しかしこのような製品の価値を見出すことと人がその対価を支払うこととは必ずしも一致しません。いいモノだから売れると直線的な感情(メーカー的)を因果関係に直結するのは多くの日本人の習性なのかもしれません。しかし、使用目的にさえ適えばいいモノでなくとも十分だというのも人の非直線的感情(生活者的)です。相関関係があっても因果関係にはならないのです。
モノつくりに生涯をかける職人一代の匠のモノつくりは芸術世界とも呼ぶべきまたべつの価値観で形成されるものでビジネスの世界とは違います。
このような個人のモノつくりと企業のモノつくりを混同して価値を語る傾向が日本では多すぎる気がします。

モノの必要性を否定はしませんが企業にとり重要なことは「コトつくり」です。
家電が世界を席巻した大きな理由は、まだモノがスタンドアロンでも価値があったからでないでしょうか。スタンドアロンで機能するゆえモノはそれ自身に保有する価値があったのです。それゆえ多少高くとも「モノに価値」がある日本製品は売れたのでしょう。

ところがスタンドアロンで価値があるモノは目に見えて減少しています。
いまや多くのモノが接続性を要求される時代です。
いい例が日本人の誰でもが持っているともいえるスマートフォンです。
このモノの価値はどこにでも持って歩けどこでも繋がるという機能でしょう。
「モノの価値」にこだわる一部の人を除きどのメーカーでもいいのです。重要な生活者価値はMobilityとConnectivityです。この二つの機能を統合させる仕組みつくりがビジネスのポイントです。つまりモノではなくコトつくりです。
グーグルやアマゾンなどは最初からこの二点がビジネスの原点でした。
目に見えるモノは誰にもわかりやすく容易に価値が判断できます。
しかし、この特徴は誰でも真似ができるという欠点と表裏一体です。

EV化の波は何度もきたが云々という日本の自動車メーカーの姿勢はなんとも理解しがたい話です。
世界がべき乗則で動いていることがわからないのでしょうか。
AI化、VR化の波も何度かきましたが積極的にビジネス化したのはコトの企業のアップルやグーグル、フェースブックです。
EV化とは燃料が電気に代わることとエンジンがモーターに代わることが要点だと思います。日本企業が得意としたエンジンつくりに不可欠な精密加工とすり合わせ技術ですが、モーターつくりにはその技術価値は大きく目減りすることでしょう。
また燃料のガソリンや水素に比べると電気の特質は容易で比較的安全な接続性です。
アップル・クラウドから無線で走行中でも充電ができるでしょう。MobilityとConnectivityの世界です。またもや米国のGAAFの登場です。

スマートフォンの欠点は電池であり同様にEVの電池の重要性は大きなものです。
モノゴトの本質を見誤る近視眼的発想を捨てこの2点を脳裏においたモノつくりを怠るとパナソニックトヨタも家電業界のようになりかねません。