bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

成人の日に思う。

ラジオから三連休の天気が云々と聞こえている、そこでようやく気が付いた。

1月8日は月曜日だが成人の日ゆえ土・日曜から続いて3連休となるのだ。

成人の日が1月8日とは何とも居心地が悪い。

かつて成人の日は1月15日と決まっていたはずだ。

腑に落ちないので調べてみたら、平成10年に「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」が成立、成人の日と体育の日が月曜日に変更されているではないか。

さらに平成13年「国民の祝日に関する法律及び老人福祉法の一部を改正する法律」により海の日および敬老の日が、それぞれ月曜日に移動されている。

また月曜日への移動は本来の記念日に接近した日付ではなく、成人の日は1月の第2月曜日、体育の日は10月の第2月曜日というように固定化されている。これは1971年アメリカが実施したUniform Monday Holiday Act(ワシントン誕生日などを月曜に移動した月曜休日統一法)にならったものらしい。

 

国の記念日までアメリカに従属して変えてしまったのか。

サラリーマン生活に見切りをつけた頃のためか一向にこんな法律が施行されたことを知らなかった。そこで法改正の目的を調べて愕然とした。目的は何かというと、消費活動の促進による景気浮揚を狙ったというのである。その結果は3連休で旅行者が増えた観光・運輸業界にメリットはあったが国家規模での景気対策には到底及ばなかったようである。

 

当然であろう。そもそも祝日を月曜日に移動して土・日曜に接続するだけのことであり、休日そのものが増えるわけではない。

こんな姑息な発想で3連休により景気が浮揚するとはあまりにも安直ではないか。

フランスのバケーション制度とまでいかなくとも3-4週間の長期休暇取得を可能とするような思い切った政策を打ち出せないものかと思う。

3連休のもたらすメリットを国民視線から検討したのであれば、公共機関や医療機関が3日間にわたり利用できなくなる国民の不便さなどのデメリットを政府は配慮したのであろうか。

しかし何より大きな問題は経済政策のために、祝日の起源や来歴など無視して由緒ある記念日の移動を行うという民族国家の歴史と国民感情への理解と共感が大きく欠落した政府の国体認識(国家アイデンティティのシンボリックな記念日という認識)である。

成人の日も体育の日も記念日としての故事来歴があり、記念日の蓄積が国民感情に浸透し生活様式の一部となり日本文化の一翼を担うものになってきたと考えられる。

いうなれば記念日は日本人の心の豊かさを培ってきたとものと考える。

記念日とは、経済的豊かさに隷属するものではなく心の豊かさに資するものである。

マイナカードと健康保険証

報道によると、総務省は12月中にも、暗証番号が不要なマイナンバーカードを導入する方向という。当初は、暗証番号の設定・管理に不安を抱える高齢者や認知症患者らを想定していたが、希望者全員に対象を拡大することへと方針転換するらしい。

また、すでに交付済みのカードでも、暗証番号なしに切り替えられるようにするという。

政府の方針変更の狙いは、明らかに現在4.49%にとどまっているマイナ保険証の利用率の押し上げであろう。

この方針転換により将来どんなことになるかというと、計4枚のカードもしくは紙がマイナ保険証として世の中に並存することになる。一つめは、「暗証番号あり」のマイナカード、二つめは「暗証番号なし」のマイナカード、三つめはマイナ保険証を持たない人向けの「資格確認書」、四つめはマイナ保険証が使えない医療機関で診療を受ける際に必要な「資格情報のお知らせ」である。

これでは患者にとっても医療関係者にとっても複雑怪奇そのもので混乱を招くだけである。このために投下される血税はいかほどか。

そもそもマイナンバー制度ではマイナカード取得は国民の任意によるものだった。ところがデジタル庁なる政府機関ができると突然マイナカードの普及に血道を上げ始めた。しかしマイナカードの普及は進まず、業を煮やした政府はカードを取得したら二万ポイント付与すると子供だましにすぎない血税浪費策を打ち出した。それでも普及が進まぬため国民の命綱ともいうべき健康保険証をマイナカードと一体化、既存の健康保険証を廃止するという暴挙に打って出た。しかし、国民は何ら問題なく運用されている健康保険証をマイナカードに紐付けるメリットなどまったく感じていない。多くの医療関係者も同様である。だからマイナ保険証の利用率は5%以下なのだ。所詮は利便性向上の手段・ツールに過ぎないマイナカードをして、その普及率を上げることを政府目的にしてしまったようだ。

国民の利便性や感情を無視して暴走を続ける政府、その意図は行政のデジタル化促進だと思われる。デジタル化により行政業務は効率性の向上が期待できるであろう。しかし、国民に問題なく運用されている健康保険証を強制的に廃止するデジタル化とは国民と医療関係者に不便さを押し付け、両者の不利益を代償にした行政ありきのデジタル化ではないだろうか。

 

経済成長主義を叱る

敗戦によって焦土と化した惨状から一躍奇跡的な復興を遂げた日本。その要因は、国民が国家再建に向かって一致団結して取り組んだ経済の立て直しが大なるものでした。みごと立ち直った新生日本、その発展戦略とは戦前の領土拡大主義から経済力強化へと転換するものでした。経済の拡大方策は、経済の発展度合つまり経済成長率という概念を日本人の誇るべき国家発展のバロメーターにすることでした。急成長する経済力を背景に意気飛揚して止まぬ政府・国民は、成長し続けなければいけないとする使命感を国内に醸成・充満させ、勤勉な国民性をもってして倫理観念と化し成長神話を作り上げていきました。「もはや戦後ではない」の掛け声は成長神話を確たるものとし「成長至上主義」の経済体制を構築しました。国民はクタクタになりながらも不必要な過剰消費のトレッドミルを長いこと回し続け高度経済成長を支えました。しかし成長神話の自縄自縛は終にはバブルを自生する結果となり果てたのです。私は経済成長そのものを否定するつもりはありません。しかし経済成長を「主義」すなわち「政府や国民の基本的行動指針」と祭り上げる「成長至上主義」は誤りです。その理由として、経済成長の指標である経済成長率とGDPそれぞれの定義に触れ私見を述べます。経済成長率とは、一国のGDPを基準に年度比較をしてその増減率を算出するもので、GDPの増加率が経済成長率とされます。GDPとは、一定期間内に国内で生産された財とサービスの付加価値の合計額を示すものです。

私は、この数値は国の経済規模を表す指標ではあっても国や国民生活の健全性を示すものとは必ずしもいえないと思います。経済とは経世済民(世を経め民を済う)であり国民の生活に資するべきものです。しかしGDPの概念は、生活にプラスとなる場合のみならずマイナスの影響を与える場合でも数値が加算される清濁併せ吞むものです。例えば自然災害により道路や家などが破損した時に発生する災害復興工事の費用などです。復興に費やされる財とサービスは新たな経済的付加価値をもたらすものですが、被災者や被災地の経済的・精神的な犠牲を代償にして成り立つ経済効果の数値です。また森林を伐採してゴルフ場を作ると土木工事などの経済的付加価値は創出されますが、一方では自然破壊が進み生物多様性を喪失していきます。「見える化」される物量の増加価値よりも持続可能な環境の維持や安心・平和といった「数値化できない」質的な価値、それを幸福度の指標として多くの国民が重視しつつあると私は考えます。本来は、国民の幸せを実現するツールの一つに過ぎない経済です、その成長を国家命題とする「成長至上主義」は、手段を目的化した本末転倒の政治手法に他ならないと考えます。年ごとに成長を追求する成長至上主義がもたらしたものは、大局観・長期的視野を軽視した刹那的な機会主義、政治的矛盾の糊塗・偽善・自己保身・権力欲が蔓延し「成長無罪」という社会的退廃思潮と国民精神の衰退、中空に漂うだけの魂なき日本という国家だと思います。

問題は成長でなく成長主義にある。

私はアベノミクスの根拠なき2%成長論に愛想をつかして、「それでも経済成長は必要か」「経済成長主義の終焉」をブログに書いてきた。

繰り返しになりますが、成長そのものに問題はなく「成長主義」にこそ問題があることを指摘したいと思います。

敗戦の惨状から奇跡的な経済復興を成し遂げ先進国入りした輝かしい成功の体験。その大きな要因は確かに経済成長力でした。しかし経済成長は国家復興のための一手段であったはず、それがいつの間にか成長し続けなければいけないという思い込みが国民のあいだに醸成され成長そのものが、国家挙げての普遍的価値観を形成しその結果として成長こそが絶対であるという成長神話を作り上げたものと考察しています。

そして成長神話は国家の至上命題にまで変異してしまったと思えます。具体的には経済成長なるものを、国民の幸せを達成する手段ではなく最終目的とする「成長主義」なるものを生み出してしまったことであると考えます。(手段の目的化)

「もはや戦後ではない」の掛け声はやがて成長至上主義の経済体制を構築して私たちはクタクタになりながらも不必要な過剰消費のトレッドミルを長いこと回し続けてきました。その結果が、成長主義の美名のもと政治的矛盾の糊塗・偽善・自己保身・権力欲が蔓延する成長無罪の文化を生み出し、今やアジアの涯の洋上にポカリと浮かぶ日本という魂なき国家になってしまったのではないでしょうか。

 

そもそも経済とは経世済民つまり世の中をよく治めて人々を苦しみから救うことをいうものですすなわちより良い社会と庶民の幸せに資するのが本質であります。

換言すれば人々が必要とするモノやサービスが安定して生産・提供され、そのようなモノやサービスに人々が自由にアクセスでき、所得がどのように配分されているかといったことが経済の目指すべき指標であると考えます。つまり経済の本義とは、資本の回転価値=成長率ではなく、社会の公益と国民生活を維持・向上させる=資本の使用価値にあると思います。

内閣支持率の調査

岸田内閣の支持率が低下していると各報道機関が報じています。

多くの報道機関がおこなう内閣支持率の調査方法は、回答者の生の声を聴取した結果をそのまま反映するのではなく、

支持する理由と支持しない理由の回答をあらかじめ用意しておき回答者がその中から回答を選択する方式です。

しかし、回答の選択肢(複数選択可能)の中には疑問を感じるものがあります。

それは支持する理由としていつもあげられる次の選択肢です。

 

一 「他に適当な人がいない」

二 「首相の属する党を支持している」

 

上記一については、支持する必要条件も十分条件も満たしているとはいえません。

質問サイドでは消極的な選択だというのでしょうが、それは選択肢方式選定の

自己欺瞞であり支持する理由の選択肢とは決してなり得ないと考えられます。

二については、首相の属する党への支持と首相が首班を務める内閣とは

異なる政治的性格のもの(政党支持率とは異なる)であることを質問サイドが

認識していないと思えます。

 

 

消費者アンケート調査でよくある回答者セグメントをあらかじめ選定したうえでの誘導型調査

とは思いませんが、内閣支持率の調査が報道されるたびに感じる大きな疑問です。

インパール作戦

「朝起きてから山形新聞AERA週刊金曜日の原稿をまとめ書き。大阪万博インパール作戦マイナンバーカードについて書きました。始めた作戦を途中では止めることができない「総長賭博」体質はたぶんもう治りません。でも、自分たちがそういう国民文化のうちにあるという「病識」は持った方がいい。」

これは7月17日付け内田樹さんのツイッターです。

 

傲慢不遜ですが山形新聞AERA週刊金曜日も読まずに思ったことを書いてみました。

 

まずマイナンバーカード問題をインパール作戦に例えるとは秀逸な発想ですね。脱帽!

しかし大阪万博国際博覧会であり日本政府が参加各国の展示会場などに指示や制御などが容易にはできない国際間の催しですから、マイナンバーカードという国内問題と同列て論じる性質のものではないと思います。

 

それよりも国民の関心事はマイナンバーカードが引き起こす止まることのないトラブルでしょう。この件に対する政府の対応とくに、デジタル庁河野大臣の作業現場に出向かず威丈高に発する「前倒し」の連呼は、インパール作戦で避暑地に居座り無謀な死の行進を続行させた牟田口中将の姿を彷彿とさせるもので悪夢のデジャヴです。ご両人とも自ら指揮を執る戦術についての阻害要因を究明、分析することは一切なくいったん決めた戦術は何が何でもがむしゃらに押し通すの一点張りで視野狭窄症に他なりません。

戦術とは目的達成への一つの手段に過ぎないことすら認識せず、わき目も振らずひたすら欠陥だらけの戦術の完遂に向かう真面目な指導者ほど怖いものはありません。そこで起こるの国家よ組織の目的が副次化され手段が目的化されてしまうことです。

そして指導者の偏見と独断がいつのまにか客観的で合理的な判断であるとする空気が醸成され神話が生まれていくのです。

これは内田さんのいわれる「国民文化」ではなく私は民族性であると思います。そして「病識」とは手段と目的の転倒であり、いうならば統合失調症だと思います。

 

また「総長賭博」に触れていますが、これは山下耕作監督の『博奕打ち 総長賭博を指してのことだと思います。この映画は親分が白といえば黒いものでも白とする任侠もの(忖度の美化など)ではなく、「組織」と「家族」そして「個人」この三つが併存し難い日本社会のトリレンマ(日本の伝統的な悲劇)を取り上げて日本社会に対して問題を提起した映画でした。三島由紀夫ギリシア悲劇に通底する構成と絶賛したのもむべなるかなの作品です。「総長賭博」体質を私はいまだ引きずっています。しかし何ら恥じることはありません。

うつろい

普段あまり取引のない信用金庫から昨日封書が届きました。

宛名の上には赤い下線が色濃く引かれ「お客様への重要なお知らせ」と記載されています、

さっそく封を切ると「マネーロンダリングおよびテロ資金供与に関するガイドラインを踏まえお客様とのお取引の内容状況等に応じてお客様に関する情報やお取引の目的等を定期的に確認させていただく取り組みをおこないます。

お手数でございますが本紙記載の回答期限までに同封のお客様情報を確認書に該当事項をご回答の上本人確認書類と共に返信用封筒にてご返送くださいますようお願い申し上げます」とあり金融庁からの通達(省略)が添付されています。

 

情報確認書をみると、当金庫とのお取引目的を全てチェックくださいとあり回答欄には給与受け取り、年金受け取りから始まり事業費決済、融資、外国送金、生計費、貯蓄、資産運用払い、学費支払い、クレジットカード決済等など記載されており各項目に該当するものをすべてチェックせよという指示です。

さらに身分証明書としてマイナンバーカードのコピーか運転免許証、保険証、パスポートなどの写しを添付してくださいとある。

 

マネーロンダリング、テロ資金云々と名目は立派だが、これでは明らかに個人情報の開示要請と考えざるを得ないのではないか、ひいては個人のポケットに政府が手を突っ込んでくる可能性を多分に暗喩するもので、国民の権利と自由の規制または制限にも繋がりかねない調査ではないかと疑問を感じました。

 

思案投げやりでペンを手に取り回答書を見つめていると「特攻の思想」(草柳大蔵)の一文が目の前に浮かんできました。

“「特攻」は「特別的攻撃」が死を主観にゆだねているのに対して、死を客観にゆだねている」”(筆者注、自決でなく「他決」による自決)

 

2005年に施行された個人情報保護法に疑問を抱き個人情報保護士を取得一貫して国家の個人情報法制に異議申し立てをしてきました。

しかし、「うつろ」な状況は「うつつ」へと移ろいで来たようです。

この国ではいまや個人情報という「生」同様に根源的かつ絶対的な価値でさえ主観は客観にゆだねざるを得なくなったのかと慨嘆しました。

 

思うに戦後日本は与えられた歴史的、社会的な状況に即応してアメリカとの同盟関係を国家存立の基盤としてもっぱら経済発展に注力してきました。

その帰結として、一途な国民性は国家運営の目的・主語(国民)から離れて手段・述語(経済効率と効果)に偏重し公共機関を民営化、市場にゆだね

今や国民国家の崩壊を目前するに至ったのではないでしょうか。

岸田首相の会見は述語は多様ですから主語はいかようにも変化させることが可能であり、多くの人は仮想主語となり何となくそうだろうなと思ってしまうのでしょうか。