bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

麻生元首相のトランプ氏訪問

今朝の大手メデイアは、「自民党麻生太郎副総裁はニューヨークのトランプタワーでトランプ前米大統領と会談。トランプ氏は、ニューヨーク州の裁判所で行われている元不倫相手への口止め料をめぐる審理の合間をぬって、麻生氏をトランプタワーの玄関口で出迎えると、彼(麻生氏)は素晴らしい人物だ。我々はお互いを知り合わなければいけない。我々は現在の日本と米国、そして他の様々なことを話し合う。」と語った、と伝えました。

 

この報道に接して思ったことは、「日本はなんと道義(道徳律)のない国になり果てたのか」ということです。

岸田首相がバイデン大統領に面談して二週間と経たぬうちにバイデン大統領と次期大統領を競うトランプ氏に麻生元首相が面談に出向いたのです。

アメリカにとって、実質的な統治下にある日本の首相を国賓で招きコンプリメントにすぎぬ国会演説でオモテナシをしたにもかかわらず寸暇を置かず元首相が大統領の敵対者へ伺候したのです。安倍元首相が演じたとおり大統領選の結果どちらが大統領になっても保護領における権力維持を図りたいという為政者の姑息な意図、これをまたもや世界に向け発信したのです。飛んで火に入るなんとやら誰が大統領になっても日本政府の二股膏薬をネタにアメリカの次期大統領は大手を振って日本に対処できるでしょう。

 

アメリカについては既定路線の踏襲で(両大統領候補の気分はともかく)大きな問題ではないと思います。

問題は近隣諸国をはじめとする大アジアでの反応にあると思います。

 

かつて日本が重要な行動を選択する際、その判断に大きな影響力を持っていたのは道徳律だと思います。その中でも極めて重要かつ日本人の美徳の一つでもあったのが「正直さ」であったと考えます。

この道徳律の起源は何かと考えますと、インド仏教に背景が求められる輪廻に起因する因果応報の思想(嘘つきは泥棒の始まり)と、回向がもたらす農、商、工従事者の求道精神が結晶した道徳律(正直、勤勉)そして儒教にその萌芽をみる武士道、自己に対する厳しさと他者への尊敬の一体性として「心に心を恥じる」精神にまで高められた倫理性。その結果として日本的ノーブレスオブリージュというべき為政者の高貴さ(葉隠)となることで日本人の道徳律が完成されてきたと思います。

 

仏教も儒教も共に大アジアを母胎に発生、派生したものです。日本はこれらを積極的に取り込んで日本人の心情と歴史を織り込むことで洗練された道徳律にまで昇華させたのです。

このような日本人の姿勢が大アジアでは長いこと語り継がれ評価されてきたと考えます。その結果が、日本の戦禍に見舞われた国でさえも遺恨をさしおいてルック・イーストと日本人を称賛、戦後日本の国際的な地位向上に支援を賜ったものと陰ながら感謝しています。

 

このような地理的かつ歴史的背景を考慮するならば、今回の麻生元首相のトランプ氏訪問は大アジア文化圏に対して、なんとも言えない禍根を残すものと危惧します。

岸田首相の訪米

そもそも岸田首相は、国家運営や政策構想など政治家としての理念など持たず、ひたすら首相になりたいだけだ、と公言して憚らぬ人。安倍元首相の国葬に際しては「国として葬儀を執り行うことで・・・我が国は民主主義を断固として守り抜くことを示し」「安倍元総理が培われた外交的遺産をしっかりと受け継」ぐことを「国葬儀」の意義だと説明しました。

そして国葬についてその是非が世論を沸騰させる渦中、確たる法的根拠や法令がないまま、閣議決定国葬儀を強行したのです。

この岸田首相の発言を分析すると、以下の二点が国葬の意義だということです。

 ・元首相の国葬を執行することは、民主主義を守ること

 ・元総理の外交的遺産を受け継ぐこと

この二点は元首相の後継者としてあたりまえのことでしょう。

アメリカに対する隷属は不変だというだけのことです。

この論理を展開すると、国葬に反対した人は私も含めて反民主主義・非民主主義になってしまいます。こんな為政者の勝手な発言を黙認して国葬に賛同する国民、これが民主主義国家でしょうか。

 

街頭演説で街宣車の上から、聴衆に向かって「こんな人たち」呼ばわりしていた安倍元首相を思い出します。その安倍元首相はと言えば、多数決により民主主義(多数決は手段の一つの選択肢であり民主主義の理念には本質的に反するもの)の正当な支持を得た国民政権なりと民主主義を錦の御旗に掲げ国権の最高機関たる国会を無視して「集団安全保障関連法案」など国家の命運をアメリカに託す法案を独断決定、挙げ句の果てに、いまだアメリカ大統領として正式承認がされていないトランプ氏のもとに馳せ参じアメリカへの従順なる隷属を世界に顕示した人物でした。民主主義の御朱印を見せられると国民は沈黙してしまう虚妄の民主主義の典型でした。

 

こんな経緯を考えると、今回の岸田首相訪米はアメリカ国会でのスタンデイング・オベーションに迎えられて安倍元首相の遺産つまり下賜された虚妄の民主主義と外交的遺産(菊に変わる星条旗の醜の御楯)の相続、そのお墨付きを得たということになるのでしょう。

 

しかし、私は岸田首相のみならず戦後一貫して続く国家ビジョンなき政府の対米追従と隷属姿勢にはまったく賛同できません。いやしくも独立した民主主義国家というのであればその国家基盤(国会と三権分立)を無視する政府の独断・専権は容認できません。

こんな政府ができたのはなぜか。

ことの発端は戦前に外交官として戦後は外務大臣そして通算7年にわたり政権を担当、アメリカの政治と外交に通暁した吉田元首相、彼がアメリカのダブル・スタンダード(民主主義と民族自決主義の使い分け)を国家運営の手法として巧みに模倣・駆使することで敗戦国家の建て直しに成功しました。その転機となったのが朝鮮戦争です。他国戦争で金儲けというアメリカのお陰で日本は好景気に沸きました。この実績をもって反共の精神が民主主義と資本主義を養成するという戦後日本の精神構造を政界・官界のみならず産業界を巻き込み構築して成長神話を生み出したものと思います。

時系列は前後しますが、吉田元首相のバカ野郎解散をはじめとする専横政治、その背景には昭和天皇マッカーサー連合国軍最高司令官という葵の御紋と星条旗による協同シナリオがあったと私は考えています。

 

そのシナリオを象徴するものは占領下で公布された憲法に透視されています。

憲法の根幹は基本的人権国民主権と平和だと謳いながらもなんと憲法の第一条は天皇、これは国民の自尊心と菊の御紋を配慮して冒頭に打ち出したこと(民族自決)、憲法第九条二項は、「国家主権に対する決定的な制限条項」として規定されていること(国権の発動をするために戦力を保持することはできない、つまり国家主権は原理的に存在せず日米安保条約と日米協定とを抱き合わせた相互補完でしか日本の主権は保持できない。ところが、国家の主権をもってして非戦も開戦も可能だと多くの人は解釈しているようです、非戦云々よりも問題は主権なのですが。非戦という国民の願いを逆手に取った民主主義の幻想=虚妄の民主主義というアメリカの手品的手法)

私が主権なき虚妄の独立国家に気付いたのは、砂川判決において最高裁在日米軍治外法権を認めたことでした。つまり日米地位協定憲法の上位法であることを最高裁が裏書きした判決でした。この判決以降、三権分立は崩壊をはじめ戦後民主主義も自壊を余儀なくされてきたと思います。

 

ちなみに、戦後の首相経験者で国葬されたのは、吉田元首相と安倍元首相の二人のみです。

宗主国の覚えが抜群によかったのでしょう。

 

ところで、岸田首相の訪米前にNHKスペシャル未解決事件下山事件が放映されました。ご存じのように下山事件終戦後の混乱期1949年、当時の国鉄下山総裁が突然失踪し轢死体で発見された事件ですが、自殺か他殺か、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散、捜査は打ち切られました。当時からGHQの謀略説が囁かれ松本清張さんはこの事件を徹底調査してGHQ謀略説を世に問いました。GHQ謀略説の多くの論拠は、国内で勢いを増す共産勢力を抑えるため共産主義者国鉄の10万人首切り問題に激怒しておこした事件だというGHQの筋書き、というものでした。この番組ではNHK独自調査で日本、アメリカに生存する事件関係者と関連資料にあたりドラマとドキュメンタリに仕上げていました。余談ですが児玉誉士夫が新聞記者に語ったという、「国鉄輸送網をGHQに供出せよという指示に対して下山総裁は断固首肯しないので殺されたのだろう、アメリカは対ソ連戦争を予定していたからね、急いでいたのだろう」この話は初めて知りました。翌年に朝鮮戦争が勃発、国鉄は2週間で12,000車両を稼働する史上記録を打ち立て日本経済は未曽有の好景気に浮かれ、共産主義の炎は消え民主主義と資本主義が取って代わっていきました。

 

いっぽう事件を担当した東京地検の主任検事、布施健を軸としてドラマは展開。捜査本部解散後も上司の内諾を得て捜査を継続した布施はGHQの謀略との結論に至り、上司に話します「一度真正面から聞くべきだと思うんですよ、吉田(吉田茂元首相)に聞くのが一番早いんじゃないか」上司「驚いたね」その直後、布施は地方への転勤を命じられた

赴任挨拶に出向いた布施に上司が言う「向こう(吉田)は国民代表でこちらは国家権力だからね」長い沈黙のあとに布施は問いかける「独立って何でしょうね」上司「アメリカとの関係は国の存亡にかかわる」無言で立ち去る布施は廊下でひとり呟く「俺も反共に利用されたのか」

私の心情が詩的な映像で投射された思いをしました。

 

そして番組の終末にアメリカ文書保存館に保管された文書が大写しされました。そこには、事件発生から布施検事の動向が克明に記録されていました。

 

注:固有人名が出ていますが、歴史上の固有名詞という意味以外に何らの意図もありません。

  問題は為政者や政府ではなく、国民(為政者も国民です)そのものだと思います。

  血も汗も流さず下賜された民主主義と憲法をそのまま神棚に祭り上げたままで、新生日本に適応すべく民主主義の分析をおこない日本の民主主義(国家ビジョンにも底通)を作り上げる努力をしてこなかった、その結果が今の日本だと思います。

  簡単に言うなら、哲学の欠如でしょうか。

 

 

 

「大東亜戦争」は禁句なのか。

4月8日の朝日新聞デジタルは、<陸自部隊の「大東亜戦争」投稿を削除 防衛省「誤解を招いた>と題して、陸上自衛隊第32普通科連隊が、X(旧ツイッター)の部隊公式アカウントで戦没者追悼式を紹介する投稿に「大東亜戦争」という用語を使ったことについて、同隊は8日夜、この投稿を削除。防衛省は、投稿は隊の活動を紹介することが目的で、ほかの意図はなかったとして、「大東亜戦争という用語を使う必要がなく、誤解を招いた」として、投稿をし直した。また林芳正官房長官は8日の会見で、「大東亜戦争という用語は現在一般に政府として公文書で使用しなくなっている。いかなる用語を使用するかは文脈にもよるもので、一概にお答えすることは困難」と述べたと報じています。 

また、毎日新聞によると木原稔防衛相は9日の記者会見で「激戦の地であった状況を表現するため当時の呼称を用いた。その他の意図はなかったと部隊から報告を受けた」と説明したと報じています。

 

どうやらこの騒動は、陸自部隊の投稿がネット上で、『植民地統治や侵略を正当化する名称』『公機関が使ってはいけない』と波紋を呼んでいると一部メデイアが報じたことが、背景のようです。

 

そもそも「大東亜戦争」という呼称は、真珠湾攻撃から4日後の1941年12月12日に閣議決定された米英への「開戦詔勅」に基づくいわゆる第二次世界大戦を指すものでした。そして、敗戦直後の昭和20年10月30日、自らの手で戦争への道を検証しようと「大東亜戦争調査会」と称する組織が「閣議決定」で創設。これは幣原首相自ら総裁に就き委員・職員100余名という文字通り敗戦後初の国家的プロジェクトでありました。(余談ですが、当調査会は戦犯逮捕、公文書焼却など困難を極めるなかで40回超の会議と関係者インタビューを実施し資料収集を続けました。 ところが調査会メンバーに「旧帝国軍人」がいることを、「ソ連」が問題化しました。調査結果を利用して次は勝利の戦争へと日本を誘導することを危惧したのです。「戦争調査会」としての目的を達するために軍人を参加させてこそ趣旨に沿うものであることは自明の理であったにもかかわらずの言いがかりです。しかし、占領下における「連合国」のメンバー「米・ソ・中・英」で議論が交わされた結果、日本の「精神的独立」よりも、「国際的協調策」を選択した「米国」が「ソ連」に同調、「マッカーサー」は、「戦争調査会の廃止」を命じたのです。1946年3月の第一回総会から、わずか半年後に戦争調査会は調査の経緯も結論も集約することなく静かに幕を閉じたのです。)

 

この経緯をみればわかるように「大東亜戦争」という呼称は、第二次世界大戦の開戦から敗戦までわが国の正統な(由緒正しき歴史的)背景が反映された呼称です。しかし、占領下GHQ指令により使用禁止され「太平洋戦争」なる呼称への変更を余儀なくされましたが、昭和27年に使用禁止は解除され、平成19年2月に政府は<「太平洋戦争」という用語は、政府として定義して用いている用語ではない。>と閣議決定しています。

 

今回の騒動は「大東亜戦争」という「事実問題の呼称」をして、思想や価値観を内包する「歴史認識の問題」にすり替えるごとき(錯覚を起こしかねない)お話に思えます。

それよりも今回の騒動では、わが国の官房長官も防衛相も自国の現代史を勉強していないことに今さらながら驚かされました。

 

 

裏金問題と民主主義

自民党派閥の裏金問題はついに岸田首相が渦中の安部派幹部に対する事情聴取を始めた。

その結果として岸田首相がいかなる結論を出すのか断定はできないが、党内の罰則規定に沿った処分、重くても党員資格の停止とか選挙時の非公認に終わるだろうと報道機関が報じている。

 

裏金問題は可視化された形で統治する者と統治される者がともに国民主権者であるという民主主義の矛盾した錯綜関係を如実に浮き彫りにしたと思う。だから、国民は信憑書類の提出を義務付けられる非統治者なのに国会議員は一定額の枠内であれば信憑書類は不要だとか納税義務まで回避できるとする統治者とは、同じ国民なのに理不尽だと怨嗟の声がSNS上などで盛り上がっている。

いっぽう岸田首相は聞く耳はあるというが聞き置くだけでまったく意に介さず党内処理という自家篭絡のパーフォーマンスで幕引きを図り国民との対話など一考にも値しないとの様子。これで民主主義国家とは呆れる。

 

安倍元首相から顕著となった法解釈の強引な変更や公文書の改ざんなど政権中枢のやりたい放題はまさに国民無視の強権的な専制政治そのものである。しかし、問題は為政者よりも愚弄されるばかりの国民側にあると思われる。

 

その大きな理由は恩賜の民主主義から未だ脱皮できないことだと推測している。

私たちは口を開くと民主主義というが所詮は「投票日一日だけの主権者」が掲げる、「とりあえず民主主義」ではないだろうか。国民は自由に意見を言え振舞えるものの政権はハナから聞くつもりも見る気もなく、為政者の反応も対話も喚起することなき自由の主張は暖簾に腕押しで「自由」は無力化されてきた。日本の戦後民主主義名誉革命フランス革命アメリカ独立戦争のように自ら理念を打ち立て勝ち取ったものでない。そのためか、無力化した自由のように民主主義は所詮身につかず衰退の道をたどっているのではないのか。

 

この戦後民主主義が抱える問題はアメリカ占領下で公布された憲法前文その冒頭「日本国民は・・・この憲法を確定する」と晴れやかに宣言した文言の欺瞞にあると思う。そして、

この解決に向けて努力をしてこなかったことが強権政治を助長した大きな要因だと思う。

 

欺瞞とはなにかというと、それは次に述べることである。

この前文で言う「日本国民」が「この憲法」を確定したのであるから、「この憲法」より前に「日本国民」は存在していることになる。ところが「この憲法」(新憲法)とは明治憲法の改正手続きにより公布されたものである。したがい、前文でいう「日本国民」とは新憲法下での国民ではなく明治憲法下の国民つまり「天皇陛下の赤子」ということになる。

それにもかかわらず国民の「主権」を宣言しているのである。無条件降伏したアメリカ占領下の国つまり主権なき国家の憲法前文で陛下の赤子が国民主権を宣言しているのである。こんな戦前と戦後の体制を混交した話が憲法の前文なのである。実質的な主権者たるアメリカが天皇の命を救いその引き換えにアメリカ民主主義を下賜したのが実態でそれをあたかも新生日本の民主主義の誕生のごとくお化粧直しをしたものが前文ではないかと思っている。直截に言うならば昭和天皇マッカーサー連合国指令長官が仕組んだ欺瞞の前文である。

 

矛盾に満ちた前文から始まった似非民主主義、そのぬるま湯に浸かり、私たちは民主主義の錯覚とはき違えをいまだ続けているのではないだろうか。

民主主義の錯覚とは民主主義が内包する矛盾にある。国民はコインの裏表のごとくある時は統治者(為政者)となりまたある時には非統治者(市民)となり、この両者が国民に併存して国民主権を主張していることである。

はき違えとは、投票結果として多数派となった国会議員その全員の意思を国民の総意と認識することである。

このような矛盾と錯覚が生み出す典型は、頭から納税は国民の義務と信じている人であろう。統治者すなわち主権者が投票で選任した被選任者は非統治者ではなく統治者(為政者)となり選任者が非統治者(市民)となる、この矛盾する仕組みを成立させているのは社会契約と一般意思という虚構の取り決め、つまりフィクション(古代アテネ時代から誰もそんな契約などしていない)なのである。

統治者が社会契約や一般意思を遵守する限り、納税は国民の義務である。しかし、これらの取り決めに違反したら納税は国民の権利として保留または拒否することができる。これが統治者は非統治者でありその逆も真なりという民主主義のフィクション(取り決め)なのである。

 

民主主義の矛盾と錯覚を理解したらまず互盛央(社会思想家)さんが指摘するように、民主主義の国家には二つの国民の姿があると考えるべきであろう。

「個人としての国民」(個別意志)と「分割不能な集合体としての国民」(国民の総意)が国民の中に存在する。ここで認識すべきは「国民の総意」とはいわゆる一般意思であり個別意思の足し算ではないのである。個別意思の総計という発想は歴史を紐解くまでもなく民主主義をポピュリズム化し愚民政治にするものであった。

 

私たちは民主主義というフィクション(人権や自由などの自然権は実証が不能)の依拠たる社会契約と一般意思いわば民主主義の理念の何たるかを自らの手で明確にしないまま(敗戦の絶望と終戦の安堵に溺れたための思考放棄か)恩賜の民主主義のなかで金銭欲を異常に膨張させいつの間にか茹でガエルになってしまった。それゆえ、国民の個別意志と国民の総意との識別もできず為政者の意のまま多数主義の隷属状態に陥りながらも、いまだ虚構の民主主義の夢を追っているのではないか。

虚妄の民主主義に居座った専制政治の見直しを望むなら、政治家の資質や法律、行政などを論難することより、民主主義が内包する矛盾と真剣に向き合い矛盾の本質を理解しその解決に向け思考転換する必要があるのではないだろうか。

 

確定申告と納税義務

納税は義務なのか

 

報道によると確定申告会場で自民党裏金事件への怒りが噴出し、SNS上では「#確定申告ボイコット」がトレンドワードに急浮上スタという。些細な不備でも再申告をして課税される国民に対し、政治家の「政治資金」は非課税の聖域で使途不明の裏金は無税というのでは国民の不満が高まるのは当然だろう。

 

私ごとだが、確定申告を始めたときから疑問に思うことがあり、何度か当局に問い合わせたが確たる回答は得られなかった。その疑問とは、納付金(納税)の使い道の明細である。今回の裏金問題も使途が不明であることが主要な争点であろう。

 

人はだれしも額に汗して得た収入から出費をするときには、わずかな金額でも注意を払い削減を図るものだ。しかし納税については支払いに関する疑問すら持たない人が多い。

憲法30条に「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」とあるためか、

納税は国民の義務なりとアプリオリに思い込んでいるようだ。

こんな国民心理を見透かしているから、国会議員はやりたい放題あとは頬被りで一件落着が繰り返されるのだろう。

 

納税は国民国家の租税制度に起因するが、そもそも租税とはいったいなにものか。

「租税とは国家が市民に提供する生命と財産の保護への対価であり、国家が財産、生命を脅かすなら納税停止だけでなく革命権を市民は保持し、あくまでも個人が議会を通じて同意した上で国家に支払う。」*

これが租税の根源としての考えである。ルソー的にいうならば国民と国家の双務契約である。つまり国民には納税義務があるが、いっぽうでは国家に説明責任が存在する。

ところが、いまの日本では国民の合意なく国会での議論も経ずして増税が立て続けに行われ、国民税負担率は過去10年足らずで10%増加いまや50%に近い。

国家つまり政府の説明責任は放置されるが、国民の納税義務だけは存在する片務契約という異常な状態になっている。

法律は順守するものだが、法の前には「物ごとの道理」というものがある。

政府が説明責任を果たせないなら、国民は納税停止を実行する権利がある。

私たちはこの租税思想と道理とを改めて認識すべきであると思う。

 

これが17世紀英国市民革命を経てホッブズ、ロックの手で形成された租税の思想はドイツにおいて財政目的のほかに社会政策目的が追加され、米国ルーズベルトにより租税を全面的に政策手段として用いるニューディル政策へと変遷して政治的な重みを増した。

しかしいまや経済のグローバル化により日本の課税能力は移動性の高い所得源に対する能力を喪失しつつあり移動性の低い税源への依存度を高めている。このような状況において租税制度における受益と負担の関係を国民国家という狭い枠組みで完結的に考えることは不条理で無理がある。この状況はグローバリズム国民国家のジレンマに直面して葛藤から免れ得ない民主主義に似ている。ピケティの唱えるように国民国家の慣習を超えて金融取引税や国際連帯税を考慮したグローバルな規模での租税制度を考えていくべきと考える。

初夢

 
なんと年金が18倍になる夢を見た。
昨年11月に三菱UFJ銀行が10年の定期金利を100倍の0.2%に引き上げた。その時考えた。私の年金は約200万円だから、0.2%の金利とすると10億円の定期預金を持っていると言えるのではないか。定期預金の金利を年金という名目で受け取っているとも考えられる。
この10億円をもし担保にできたら、どの程度の借金が可能だろうか。
利息制限法によると借入額が100万円以上の場合の上限金利は15%、ということは金利1.5億円を先払いすると一年間で8.5億円が自由に使える。この金額で米国債を買うとどうなるだろうか。
米国の1年債の金利は4.6%である。米国1年債を買うと一年後には元本プラス金利3,910万円が手に入る。そのかわり年金200万円は入ってはこない。それでも借入の8.5億円を返済して約3,700万円を得ることができる。
ここで問題となるのが年金は死んだらもらえない、つまり10億円の担保は死亡時に消滅してしまうことである。しかし、統計データによると直近一年間における75歳男性の死亡率は3.1%、平均余命15.5歳である。国際内部監査の基準から言うと誤差の範囲内で大きなリスクがあるとは思えない。
このようなシステムを構築できたら国の福祉政策を一新できるのではないだろうか。

なぜトランプは人気があるのか。

アメリカの黄金期1950年代、労働者たちは平均的賃金を得て、ローンで家を買い新車を買った。

だれもがみんな一緒に「アメリカン・ドリーム」を満喫できたのだ。

アメリカの製造業が生産した製品をアメリカ国民が買う、そこには企業・工場の海外へのアウトソーシングなどあり得なかった。また労働者を守る労働組合は強固であり労使関係はすこぶる良好だった。

ところが、1960年代以降アメリカ経済は退化の一途を辿り国内経済は縮小均衡の時代に入り、高い失業率、企業倒産や銀行破綻、大学授業料の高騰が平均的労働者の生活を圧迫した。

その一方で貧富の差は年々広がり人口比1%に満たない超富裕層が富の99%を独占している。

しかし、歴代政権は民主党共和党も平均的労働者の生活を守る政策を推進すると口先では言いながらも実践しなかった。保守もリベラルも政権を取ると既得権益層のための政策に終始した。それはジョン・F・ケネディからバラク・オバマに至るまで歴代政権はみんな同じだった。

結果として、アメリカの政治は民主主義の理想をぶち壊し超富裕層とその他の層との溝を急激に広げてしまった。その意味では民主党共和党も同じ穴のムジナであった。

以上はノーム・チョムスキーの「Requiem for the American Dream」からの引用要約で私は

この見解に同感しています。

この認識に基づいて歴史と宗教への独断と偏見でトランプ人気の背景を考えてみました。

 

アメリカの黄金期であったなら、精神病的疾患が疑われ倫理観のまったくない人間で金儲けのためなら平気で噓をつく失敗した実業家ドナルド・トランプは、その激しい利己的名誉心を抱きながらたぶんどこかの片田舎でカントリーを聴いて飲んだくれた生活を送っていたことであろう。

しかしながら、支離滅裂になったアメリカ社会はこの支離滅裂な性格の人物を大統領に呼び出したのである。

そして両者は相互に腕力を競ってアメリカ的民主主義(経済力と連繋・野合する民主主義)の瓦解を促進していった。

この状況を阻止できるかと期待されたジョー・バイデンは混迷をさらに深めただけであった。

 

そんな状況でアメリカは大統領選挙を迎えるが、大統領候補としてドナルド・トランプの人気が高いらしい。ドナルド・トランプの支持基盤は、かつてアメリカ経済を支えた中間層そのなかで主流を占めた平均的労働者、およびキリスト教信者の多数を占める福音派の人々だといわれる。

つらつら思うにこの両者に共通するのはルサンチマン(権益層と逆境への怒り・憎悪・嫉妬・怨恨)であろう。

 

アメリカ黄金期をピークにして、その多くは他律的な要因から生活苦に追い込まれた平均的労働者(メデイアではラストベルトの白人労働者をクローズアップするが白人のみが困窮してきたわけではない)、彼らはいくらもがいても持てる者がさらに富んでいく経済構造と政治状況にうんざりする閉塞感が充満の日々を過ごしてルサンチマン感情を募らせてきた。

 

キリスト教福音派に目を向けると、そもそもキリスト教とはユダヤ教から生じている宗教なのだ。

ユダヤ教モーセに率いられて出エジプトを果たした人々が砂漠の中で民族統一の戦いを繰り広げて歴史上はじめて作った「一神教」である。

この一神教は、神が突然一つの民族を選び出し、その民族をおのれの民族であるとしておのれをその民族の神であると言明するのである。これもまた宗教史上初めてのことだ。

そんなユダヤ教の分派として出発したキリスト教はやがて母国に背を向け非ユダヤ化、ローマ帝国の支配を是認することで存続を図った。それはユダヤ人の民族主義運動を裏切ることになり各宗派からも愛国的大衆からもキリスト教は迫害された。イエスの死後300年を経過して人民統治のツールとしてキリスト教ローマ皇帝に公認された。

この歴史的過程においてユダヤ人の歴史書いわゆる旧約聖書キリスト教徒によりイエスを描く新約聖書に生まれ変わった。キリスト教パウロが主力となり創った4つの福音書ユダヤ人のあいだのユダヤ人だけの歴史を物語っている、にもかかわらずキリスト教聖典なのだ。

イスラエル統一国家を造ったユダヤ人はダヴィデ王、ソロモン王のもと瞬時の繁栄を享受するも、バビロン捕囚に始まる悲惨な歴史が始まり、現実からの逃避・彼岸の世界へのあこがれが定着化し復活=メシア(救世主)の考えが生まれくる。イエスユダヤ教徒として死んだが復活した時には、なんとメシアとして自ら神の子だと称して登場してくるのだ。

 

このような話は論理的に考えると複雑怪奇で支離滅裂に思える。しかし、キリスト教福音派の信者は、天地創造も生命もすべて神が作ったというインテリジェント・デザイン新約聖書に書いてある通り)の信者が多数を占めるという。長期にわたり抑圧された集団が論理的思考を停止して無意識のなかに彼岸への憧憬からメシアを希求する精神状態を滞留させることは不思議ではないといわれる。

このような人々にとってドナルド・トランプの言うMAGA(Make America Great Again)はインテリジェント・デザインユートピアアメリカの黄金時代)を想起させ、あたかもモーセのご託宣にも聞こえ来るのであろう。

平均的労働者はアメリカの黄金期を懐古しつつ現状打破に向け懸命に努力をするが現状はどうにもならない泥沼で沈み行くばかりだ。そこからの脱出を希求する人々が、出エジプトモーセや死後復活イエスの幻影をドナルド・トランプに夢見て託そうとしているのだ。

ドナルド・トランプ人間性や犯罪など問題ではない、インテリジェント・デザインに反する既成秩序と体制への怒りと憎悪そしてやるせなさ、それを彼は罵詈雑言の限り用いて代弁してくれるのだから。

ドナルド・トランプの人気を支えるのは、平均的労働者とキリスト教福音派の必死なるルサンチマンだといえるのではないだろうか。